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有料記事を書いていくことについて

どうも僕です。

一週間に2、3回のペース(ぐらいだと思う)で、
noteの記事を書いていくことにしました。

「ブログを書く」
というのは、
2008年から2013年ぐらいまで、
一番積極的にやってて、
その後鬱病のブランクがあった後、
2016年ぐらいを最後に、
けっこう離れていたんですよね。
2017年以降はメインの執筆活動のリソースを、
メルマガに投資し始めたので。

というわけで、
ちょっとまだブログに慣れてきていないのですが、
だんだんとこういったプラットフォームで、
「文章を書く」ということに
慣れていきたいと思っています。

さて、このnoteでは、
2回無料記事を書いたら、
1回有料記事を書いていきます。

有料記事の価格は一本150円+税(165円)としました。

無料記事と有料記事で、
情報の有益性に敢えて差はもうけません。
「もうちょっと読みたい」という人に、
ペットボトルドリンク1本分の価格を支払っていただき、
果たして文章を読んでいただけるのか、
という、僕の挑戦(実験?)のようなものでもあります。

加えて、非営利的な活動を主とする僕の発信に、
サポーターとして加わりたいんだけど、
大げさなことはできない。
noteでの少額の寄付や、
記事の購読という形で応援したいんだよね、
と言う人がどれぐらいいらっしゃるのか?
いや、果たしてそんな人はいるのか?

ということを、
実際に有料記事を書くことで把握したいということもあります。
今後の人生設計のためにも笑。

インターネットの登場によって、
「コンテンツは無料だ」という風潮が広がりました。
たとえばYouTubeなんかで、
映画のタイトルを検索するとします。
例えばそれが「スタンド・バイ・ミー」だったとしましょう。
すると「スタンド・バイ・ミー 無料 フル」
などという関連検索が予測されて検索バーに表示される。

コンテンツに意地でもお金を払わない層、
というのがけっこう数多くいるということを、
この事実は示唆します。

でも、それによっていったい誰が幸せになったのか、
ということを僕たちは考えなければならないと思うんですよね。

どういうことか?

本当にコンテンツは無料なのか?
ということです。

「カリフォルニア・イデオロギー」という言葉があります。
グーグルやアップル等の情報産業を推し進めたイデオロギーで、
22世紀の思想史の教科書には必ずこの言葉は掲載されるでしょう。

カリフォルニア・イデオロギーの柱の一つに、
「情報は無料(FREE)になりたがっている」
というのがあるんですよね。

英語のFREEには二つの意味があります。
そうですね。
「無料」と、
「自由」です。

つまり情報は無料になりたがっており、
無料化によって情報は自由になるのだ、
という、「情報の民主化」みたいな話なのです。

クリス・アンダーソンという人が書いた、
『FREE』という本によってこの思想は、
全世界に広がりました。

そうだ!
情報は無料になりたがっている!
コンテンツは自由になりがっている!

というのは早合点なのです。
これは、情報を発信する側にとってのみ真実だ、
ということはあまり強調されません。

つまり情報は無料になりたがっている!
と胸を張って言えるのは、
寄付に頼ろうが(Wikipediaモデル)、
広告収入に頼ろうが(Googleモデル)、
情報を無料化したことによって収益化できる人々のみが、
言えることなのです。

しかし、世の中の正確な統計は分かりませんが、
「誰もが情報発信者になれる現代」においてすら、
情報の発信人口:情報の受信人口は、
1:99だと私には思われます。
逆にインターネット以前は、
1:9999だったわけですから、
ずいぶんと発信者は増えたわけですが。

発信者を極大まで大きく見積もっても、
おそらくこの比率は、
1:9ぐらいになるでしょう。

つまり情報をめぐる人口比は、
「受信者のほうが圧倒的に多い」わけです。

だって考えてみてください。
皆さんの知り合いの何人が、
YouTubeで動画を配信しているでしょうか?
何人がPodcastを配信しているでしょうか?
何人がメルマガを発行しているでしょうか?
何人がnoteで文章を書いているでしょうか?
何人がWikipediaの編集者でしょうか?

あまり多くはないはずです。
きっと100人の知り合いのうち、
1人か2人、というのが相場ではないでしょうか。

ということは、圧倒的多数は、
「情報の受信者」なわけです。
これは固定的なものではありません。
僕は情報の発信者でもありますが、
情報の受信者でもあります。
YouTubeの動画を配信していますが、
YouTubeの視聴者でもあります。

私は1の側にも99の側にも同時にいます。

そして「99(受信者)の側の私」は、
絶対に「情報は無料になりたがっている」
と思っていはいけない、と自戒しています。

つまり、
「スタンド・バイ・ミー 無料 フル」
と、僕は絶対に検索バーに入力しない、
ということです。

お金をかけて作られたコンテンツに、
お金を払って正規のルートで視聴する、
というのは、サイバースペースの最低限の倫理だと、
僕は考えているからです。

そして、そうすることで、
受信者としての私は「得」をしてきたと自分で思っています。

発信者は「情報は無料になりたがっている」と思う必要があり、
受信者は「情報は無料になりたがっている」と思ってはいけない、
という「非対称」な状態が、
インターネット世界における真相だと僕は思っています。

なぜか?

二つの理由があります。
受信者全員が、
「情報は無料であるべき」と考えるならば、
いつかコンテンツは痩せ細り、
面白いものを楽しむという権利は、
長期的には疎外されるからです。

Wikipediaですら、善意の寄付によって支えられています。
ちなみに時々、僕はWikipediaにペイパルで献金しています。
使った分ぐらいは払う、
というのが僕の「倫理」だからです。

良いコンテンツにはお金がかかっています。
動画であろうが文章であろうが、
それが良いコンテンツであればあるほど、
お金がかかっているのです。

いや、文章を書くのは無料だよ、
と思われるかもしれませんが、
「面白いことを書ける誰か」が、
時間を使うということは、
そこに「機会費用」というコストがかかっているのです。
それはお金に換算可能です。

次に、
受信者が「情報は無料であるべき」と考えると、
その受信者自身が、
良い情報から疎外されます。

デジタル時代の「情報格差」は、
実はデジタル端末を使いこなせる人と、
そうではない人との間にあるのではありません。

あまりこれを指摘する人はいないですが、
「情報にお金を払う人」と、
「情報にお金を払わない人」の間に、
本質的な格差が生まれている、
というのが僕の見立てです。

佐藤優さんが同じ事を言っています。

なぜか?

本当に価値ある情報、
本当に滋養のある情報は、
ほとんどの場合、無料ではないからです。

情報格差時代の「勝者」は、
価値ある情報にお金を払って得ています。

その中には、
「本を買う」という行為も当然含まれますし、
「新聞・雑誌を有料で購読する」という行為も、
「有料メルマガを購読する」などの行為も含まれます。

ネットの世界の情報の比率は、
「ゴミ:有益な情報」が、
「99:1」の割合で転がっています。
「1」の有益な情報を得るために、
99の時間を無駄にする覚悟(と時間的余裕)がある人だけが、
「無料ポリシー」を貫きながら、
ネットで有益な情報を得られます。

しかしちょっと考えれば分かるように、
これは愚かな選択です。
時間は最も希少で有限な財だからです。
これを無駄遣いする人が豊かになれる、
ということは未来永劫ありません。

お金を出して本を買った場合はどうでしょう。
「ゴミ:有益な情報」は、
最低でも、
「50:50」に飛躍的に上がります。
「1:99」ということもある。

大幅な時間の節約になるのです。
情報格差時代の勝者は、
こんなシンプルなことを知り、
そして実践しているだけです。

特別なことをしているわけではないのです。

、、、というわけで、
僕は有料記事を書き始めようと思っています。
生活のために始めた「副業」の収入を少しでも得るために。
そういう「ささやかな挑戦」を応援したい、
という方は、
是非記事を買って下さい。
サポートも大歓迎です。

、、、という、「有料記事を書く宣言」でした。
別に僕の記事である必要はないけど、
情報にお金を払うって、
本当に大事だと思うぜ。
特に若い世代は。
タピオカとか飲んでるお金があるのなら、
それを3回我慢して映画館で映画を観たほうが良いし、
1回我慢して、僕の記事を買った方が満足感がある。
これはけっこう自信あるんだよね。

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