ストーリーの肉づけ

中島梓『小説道場』の素晴らしさを訴える日記です。第二弾。なぜ一日に二度もそれを書くのかと言えば、平日にそんなことする時間がないからですよ。書けるときに、書いてしまう。そうしないと、いつまでたっても書けない。

さて。

なにが豪華って、『小説道場』では栗本薫が投稿者の文章を元にして、「続きを私が書きました」みたいなことをやるんですよ。
これがぼくにはすごく勉強になった。

具体例1

全体に理屈を説明でおしとおしてるところを具体的な情緒や目でみたシーン、感覚にかえて代弁させる勉強をしよう。うーん、たとえば――
「訪ねてきた克彦を見て、北条は少し驚いているようだったが、好きなように見てくれと言い置くと……」というところ。
その前が「ヒマがあれば遊びに来いよ」で終わってるね。私だとこう次の段落をはじめる。 

 次の日曜日に克彦は北条の家を訪ねていった。――(家の周辺の描写。略)「なんだ。本当に来たのか」 のっそりと玄関に出てきた北条は、克彦の訪れなど、まるで期待していなかったように目を丸くした。「――迷惑だったかな」「そんなことは云ってないよ。上がれよ」
「いいのかい」
「うるさい奴だな。上がれよ――いま仕事中だ。すぐ終わるから好きなように見ていてくれていい。――酒が欲しいなら戸棚にある。コーヒーはそこ」
 云いすてると、北条は、書きかけていた、信じられないくらい細密に描かれた……(以下同じ)

お判りかね。説明を場面にかえてゆく、ということが。そしてセリフの中に、何をいうか、どう云うかで各々のキャラクターをうかび上がらせてゆく。「うるさいな」といいつつ「上がれよ」という性格と気持ち、それを「北条は傲慢な性格」と書かずに、いずれ訪れる破局までを一気に内蔵させるのがいい小説だ。

具体例2

骨組の作り方はかなりおわかりになってきたようなので、次は肉づけのしかたを勉強しましょう。肉づけとは、小説のふくらみや、読ませ方の技巧である。ストーリーはもちろん小説の基本だが、それだけでは小説の醍醐味というものには欠ける。べつだん、舞文曲筆の流麗な装飾過多の文章で飾り立てろというのではなく、この淡々とした過不足のない文章で十分である。文章でではなく、書いている内容ではなやかにする。どうやるかというと、たとえば私生活を描写してやる。どのくら貧乏でどんなボロ家か、妻は糊口をしのぐために仕立物をしているとか、楽しみの晩酌のおかずは何が好きだとか。
 それを「藤九郎は湯豆腐を好んだ」とは書かずに、「その夜も藤九郎は妻に湯豆腐の支度を命じた。毎夜かかさぬ晩酌の酒代だけは、妻が仕立物をひきうけて何とかひねり出している。が、どうせ安酒を水で薄めなくてはならぬ。当然肴にも大したものは出せなかった。藤九郎は毎晩湯豆腐ばかり食べている。豆腐ならばずいぶん安いし、それに幸い藤九郎は豆腐がことのほか好物ではあるのだ。
 湯気のたつ湯豆腐の鍋を前にして、藤九郎はこの取引をひきうければ、せめてこの中にたまに鱈くらいは入れられるか、せめて水で量を増やしてない酒を買えるだろうかと一人で思案していた」――とまあこういうように書いてゆけばこの十八枚がたやすく五十にふくらみ、しかも藤九郎の人間性とか日常生活がくっきりうかびあがってくる。したがって、あとで藤九郎が切腹するのがあわれさをずんと増す。したがって読者が「いい小説を読んだ」と思う、と、まあこんなわけです。そうやって、ストーリーを小説にしてゆくのである。


ぼくは小説が書けなかったので、ここを何度も何度も読んだ。
今もこれを読む必要があるなと思ったので、書き写しました。手打ちだよ。

この二つを探していたんだけど、これも好きだったので写しました。

主人公が傷つき、暗いにせよ、読みはじめでそこまで読者を拒否することはないと思うんだな。もうほんの少し、出てくるなり人々が互いにののしりあったり冷たい目で見あうムードをやわらげれば、ないし一つだけでもスイートな人間関係があればどんなに救われ、小説全体が魅力を増すだろう。

とにかく、ぼくは、栗本薫に自分の書いた小説を読んでもらいたかった。今でもその気持ちをどこかで引きずっているんだと思う。

ともあれ、これを読んで一人でも『小説道場』を読みたくなる人が増えますように。ここに引用したものは『新版 小説道場2』に載っているはずです(Kindle版はチェックしてないんですが、たぶん)

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