千年のモルフォ蝶

 傘をさすべきかどうか迷うような雨だった。
 通りを上から眺めても、傘をさす人もいれば手ぶらで歩く人もいて判断がつかない。僕は窓を閉め、着替えをすませると、折り畳みの傘をバックパックに突っこんで部屋を出た。早朝の空気が心地よかった。曇り空のした、路面は濡れて穏やかに光っている。走り出した。身体を動かしていないと、余計なことを考えそうになる。千年が悪いんだ。足を動かしながら思う。あいつが僕の頼みを聞いてくれたりしなければ良かったのに。
 千年刑(ゆきとし・けい)は僕に富山がガラス工芸と魔術の街だと教えてくれた。富山では薬が盛んで、その保存容器としてガラス工業が発展した。そして薬と魔術は、切っても切れない縁が結ばれている。
「魔術?」と尋ねると、千年はそうだとうなずいた。「もっとも今では魔術のほうはほとんど廃れているらしいけどな」
 七年以上昔のことだ。
 そのころの僕は周囲がまるで見えてなかった。
 熱したガラスはとろとろに溶け、柔らかくて、触れたら軽い火傷ではすまない。自在に形を変えるくせに、ちょっとでも冷えると頑なになり、炉に入れなければ言うことをきかなくなる。おまけに職人の手を一人だけではなく、二人も欲しがる。僕はガラスに魅せられ、振り回されていた。主役はガラスで、人間はそれに使える奴隷だと思っていた。人間には僕もカウントされる。周囲にはそれが伝わらず、僕はアシスタントをこき使う、暴君のような存在だと思われていた。
「それって本当に僕のことなのかな」
「橘理久(たちばな・りく)が二人いるなら別だけど」千年は真面目な口調で言った。「でもお前、この世に一人しかいないんだろう」
 僕は急に苦しくなって、走るのをやめる。恋人時代の記憶が溢れそうになり、手のひらに爪を立てる。
 工房に千年の姿はなかった。
 共有工房には四つの作業用ベンチがあり、奥のひとつが使用中だった。入口近くのベンチにバックパックを立てかけ、ガラス片の置いてある倉庫に行った。青いガラスをバケツに入れ、溶鉱炉に向かう。炉を開けると、熱い空気が肌を打つ。真っ赤に燃える炉は千二百度以上ある。炎の異界だ。熱波が階層の違う世界の手触りを伝えてくる。ガラス片を投げ入れ、蓋を閉じると世界が元通りになるのを感じた。
 乾いた唇を舐め、携帯端末の画面を確認した。連絡はない。拭き竿という筒状の鉄竿を手にしてくるくると回しながら、時計と入口を交互に眺める。今から誰か別の友人に声をかけるか、僕が思案に暮れていると、ゆったりと歩いてきた男が手をあげた。遅くなってすまないと、まるで恐縮した様子もなく千年は言う。
 ぼくは千年が目の前にいるという現実に脳が追いつかないのを感じる。
 たぶん以前なら、ためらいなくなぜ遅れたのか問い詰めただろう。あるいはわざと怒ったふりをしたかもしれない。
 でも、今は。
 無言のまま、あれやこれやと気をもむ僕を、千年は目を細めて眺めていた。昔通りだった。どうして別れたのに昔通りでいられるのか、わからなかった。
 結局、僕は面倒になり、感情的なあれやこれやは放置して、何をすべきか優先させた。千年に作業工程を説明する。吹きガラスでシャンパングラスとそれに飾る細工物を作る。アシストして欲しいことを指示すると、了解了解とうなずきながら目を合わせてくる。視線が絡みそうになり、慌てて僕は吹き竿を手に溶解炉に向かった。炉を開け、竿の先端を差し入れる。とろりと真っ赤に溶けたガラスを、竿を回しながら先端に絡めとる。外に出すとすぐに竿を回転させながら息を吹き込む。ガラスが丸く膨らんでくる。ベンチに移動した。竿を千年に渡して、ブロウさせる。千年は口に当たる部分をぬぐいもせずに形の良い唇をつける。僕はベンチ脇、竿の先端に膝をついて位置取りをした。新聞紙を畳んで濡らしたものを手に取り、まだ赤いガラスの側面に当てる。しゅっと音がして蒸気が出る。千年は作業ベンチに竿を当て、回転させながらブロウし続ける。合図するために視線を向けると、千年の目に赤いガラスが映っていた。僕は移動するガラスの側面を撫でながら形を整える。陶芸でいうろくろ作業をガラスでは二人一組で行う。一人がブロウしながら回転させ、もう一人が形を整える。ガラスの形が変わるのは、炉から出して数秒ほどだ。すぐに硬くなる。だから、またガラスを柔らかくするために炉に突っこむ。グローリーホールという二番目の炉で、ガラスを温めなおすために使用する。千年から竿を受け取り、グローリーホールで熱した。また千年にパスし、ブロウさせながら整える。同じ作業を数回繰り返すと、ガラスは縦に細長い円筒形になってきた。もう一つの竿にガラスをくっつけ、最初の竿の根元部分にダイヤモンドカッターで傷をつけて切り落とす。これでシャンパングラスのグラス部分ができたことになる。更にいくつかの工程を経て、凝ったデザインの足をつけた。
 二人とも汗でびっしょりになっていた。出来上がった作品は、徐冷炉に入れておく。五百度近い炉でゆっくりと冷やさなければ、ガラスは割れてしまう。
 外の自動販売機に二人で向かった。僕はオレンジジュースを飲んだ。千年はダイエットコーラを一気に飲んだ。工房の周囲にある木々は雨に洗われて、緑が濃くなったようだった。
 今は何をやっているのかと、さりげなさを装って質問すると、千年は言いよどんだ。立ち入った質問だったのかもしれないとひるんだとき、きまり悪そうに魔術を学んでいると口にする。魔術。おうむ返しにすると、千年は悪いかよ、と言った。
「別に悪くはない。どんな魔術?」
「ガラスの兎を動かしたりしている」
「魔術って、ガラス工芸とコラボしてるもんなの?」
「馬鹿だな」ため息をつく。「ここは富山だ。魔術といえばガラス工芸に命を吹き込むものと決まっているだろう」
 そういうものかなとも思ったが、真顔だったので追及はやめておいた。休憩を終えると、次はモルフォ蝶の工程に入る。シャンパングラスに小さなモルフォ蝶が止まっているデザインを考えていた。用意した型に、吹き竿の先端にガラスを絡めとって、一定の圧力で息を吹き込んでいく。型から外すと、息が強すぎたのか下の部分は空洞が少なく、もったりと重そうだった。貸してくれといい千年が型にガラスを吹き込む。ブロウするとき目を閉じて苦しそうに眉根を寄せていた。型を外す。悪くない出来だった。ダイヤモンドカッターで竿から外し、火ばさみで根元をつかんで徐冷炉に運ぶ。炉の蓋を開け、中にそっと入れようとした。熱された空気に揺らめいて、蝶が動いているようだ。次の瞬間、モルフォ蝶を固定していた根元が溶け落ちた。蝶が羽ばたいて、炉から逃げるように浮き上がると、きらきらと光を反射しながら飛んだ。開けっ放しの窓から逃げてしまう。
 今のはなんだったんだ。言葉が口から飛び出す寸前に、びっくりしたような、笑っているような、千年の目とぶつかった。
「……今、魔術した?」
「まあ、こういう場合、魔術を使った、だろうな」まだ窓の外に目をやったままだった。「グーグルも動詞で使うから、間違っているとも言えないけど」
「お前の仕業なのか」
「そうだ」千年は言った。「グーグル本社はグーグルを動詞として使って欲しくないって言ってたらしい。知ってたか?」
「呪文で?」
「吹き竿に口つけたまま呪文は唱えられないよ」
「詠唱なしであんなことできるんだ」
「あんなの子どもだってできる」
 やってみるか言われた。簡単なのかと聞き返すと、すごく簡単だと言われ、その気になった。
「師匠に言われた通りに伝えるぞ。〈これは忘れたい恋があるときにだけ使える魔術だ。吹き竿から息をブロウするとき、恋を忘れて次に進む、と強く念じろ。想いをブロウできれば蝶が飛び立つ〉。どうした」
「別に」
 僕は千年にも、千年の師匠にも、無限の呪詛をぶつけてやりたかった。そして、それを言うなら、僕自身にも彼らに倍する呪詛を叩きつけてやりたい。別れた恋人にアシストなんて頼まなければ、こんなことにならなかったのだから。はいはい、わかりましたよ、やればいいんだろう、やれば。僕だってできるもんならそうしたかったよ。とっとと千年なんて忘れて、次に進めたらどれだけ楽だったか。
「こんな国で同性婚なんて無理だろう」あのとき、別れた日に、千年は言った。「おれには未来が見えないんだ」
 千年のつぶやきは、今も胸に刺さったままだ。
 僕は別世界に通ずる炉を開けた。燃えあがるガラスを飴細工のように絡め、型に竿をつける。ありったけの想いをブロウする。
 次になんて進めるわけがない、一生、この先ずっとずっと、僕は千年を忘れない、と想いながら息を吹き込んでやった。ざまあみろだ。
 型を開けると、徐冷炉に運ぶよりも早く、モルフォ蝶が飛び立った。そんな馬鹿な。口をあんぐり開けたまま蝶を見ていると、窓からさっきの蝶が戻ってきて、二匹の蝶は引き合うように近づき、くっついたまましばらく飛んでいた。やがて真っ赤に燃えて、互いの脚と脚が、羽根と羽根が、触覚と触覚が、溶融し、ひとつになり、真っ赤な球になったかと思うと白く発光し、一回り大きな蝶になった。
 優雅に飛ぶ蝶を見ながら、僕は茫然とつぶやいた。
「千年を忘れない、と思ってブロウしたのに」
「実はおれも同じだ」千年が言った。「橘を忘れないってブロウした」
「じゃあ、なんで蝶が動いてんの」
「かつがれたんだよ、師匠に。おれも、お前も」
 おかしいと思ったんだよな、と千年がぼやいた。いつもはいくら頼んでも魔術を教えてくれないのに、お前に会うって話したら教えてくれるんだから。
 青く美しい蝶は、しばらく僕たちの周囲を優雅に回っていたが、そのうちに飽きたように窓から外に出た。日差しを浴びながら羽ばたいている。
 海に向かっているようだ。あるいは海の向こう、遥かな先に向かっているのかもしれない。

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