頼むから何か言ってくれ

 有効期限三十年の秘密保持契約書にサインして気づいた。輝くガラステーブルの表面に、私の指紋がべったりとついている。拭うべきかどうか迷っていると、レッドが私に目を向けて言った。
「来シーズン、君には灰からの復活を目指してもらうよ、ケイ」
「フロントとして?」
 私はラリックのグラスを持ち上げ、ミネラルウォーターを口に含んだ。
 大人が十人ほどトレーニングできそうな部屋には、私と通訳のアキの他に、三人座っている。スーツ姿の弁護士とオーナーのレッド、それにクックだ。弁護士とレッドがいるのはいつものことだ。年に一度、レッドは自慢の豪邸に選手を招いて、球団の決定を告げる。トレードに出すときも、フロントに誘うときも、「これまでの献身に感謝」するときも。金持ちの道楽と揶揄するものもいるが、私は嫌いではなかった。ただ、これまでチームドクターのクックが同席したことは一度もない。
「三十八歳は、投手としては年を取りすぎてます」私はグラスを置いて言った。「ピッチデザインを担当するのも悪くない。でも、私はまだ投げられます。それに、私は四十四歳でノーヒットノーランを達成するかもしれない」
「もうピッチデザインの担当は決まっている」
「ではトレードですか」
「先発だ」
 アキの訳した言葉を聞きながら、私は目をしばたたかせた。
「悪い話じゃなさそうだ」アキが首をひねった。「でも、だったらどうして三十年も……」
「相談は後にしろ」クックが割りこんだ。「ケイ、今シーズンの君はアンダースローに変え、素晴らしいチェンジアップとカーブをものにした。にもかかわらずマイナーに落ちた。なぜだ」にこりともせずに言う。「アキの意見も聞きたい」
 私とアキは顔を見合わせた。
「球速です」アキが考えながら、最初に英語で、次に日本語で話した。「直球が、せめて九十マイル前半だったら変化球が生きた」
「アキの言う通りだ」
「だったらなぜ球速を上げなかった」クックが言う。「重いボールや遠投は?」
「やりました」私より先にアキが答えた。「ケイは、試せることは全て試した」
 クックが腕組みをして眉を上げた。私はため息をついて言った。
「ハードトレーニングに身体がついていかなかったんだ」
 二十代の頃はどこまでも自分を追いこめた。三十を過ぎてからは、疲労が抜けず練習中の怪我が増えた。今年の春は、投げすぎで立っていられなくなりマウンドに座りこんだ。立ち上がるまでにかかった時間は、すでに失ってしまい、二度と取り戻せないものがあると私に告げていた。
「では、もしも若さを取り戻せたら?」
 クックの言葉を伝えながら、アキが私を見た。メジャーで若返りという言葉には注意が必要だ。一九八八年のマーク・マグワイア―が何をやったか、知らない選手はいない。
「違う」クックが眉をひそめた。「君の考えているようなことじゃない。もっと洗練されている」
 腕組みを解き、クックは二〇〇五年にカリフォルニア大学バークレー校で行われた実験について話した。老いたラットと若いラットの血管を結合し、若い血が老いた身体に、古い血が若々しい肉体へ流れるようにした。この「異時性並体結合」には、高齢マウスの軟骨や筋肉、内臓を若返らせる効果があった。
「この研究には続きがある」クックは蠱惑的な目で続ける。「必要なのは若い血ではなかったんだ。古い血を血漿で薄め、適切なタンパク質を加えればいいと実験で明らかになった。若返りに最適な血漿カクテル、それと赤血球を遺伝子ドーピングで強化したものの混合物を、古い血と交換する。血液をデザインするんだ」
 すでに複数の球団で行われているとクックは言い、聞いたことのある選手を何人も挙げた。奇跡のカムバックを果した選手たちの名前を。
「疑うなら確認してみればいい。はっきり答えないだろうが、匂わせてはくれるんじゃないか。君たちもピッチャー同士で〈ねばねば〉について話したりするんだろう?」
 私は目を逸らした。トレーニングで球速はアップできても、スピン量は増やせない。解決策はひとつだ。〈ねばねば〉したものを指につければいい。腕に塗るものもいれば、帽子のつばに塗るものもいる。スピンの効いた球を投げたいとき、そこに触れて投げる。球数が増えると汗で流れたり、粘着力が落ちたりするので、失敗する。ほとんどのチームに使用者はいるが、誰もが見て見ぬふりをしている。
 どう言えばいいのかわからず、私は口を閉じた。
「ドーピングだよ」アキが言った。「バレたら? 君は日本人だ」
 アキの言葉を理解した途端、頭が冷えた。自国の選手にドーピング疑惑がかかれば、ファンは必死にかばうものだ。検査の不備を疑い、陰謀を疑い、ミスを疑う。しかし、自国民ではない選手が疑われたときに、何が起こるか。
「君らがスポーツ・ナショナリズムを心配するのは当然だ」クックが言った。「だが薬物検査では検出されない」
「でも」アキが言った。「遺伝子検査を行えば」
「プライバシーの侵害を理由に拒否できる」
 クックが話し続けたが、アキは訳さず、唇を噛んでいる。声をかけると、アキは沈んだ声で言った。
「遺伝情報は究極の個人情報だ。拒否権を認めず、強制的に血液検査を行うのは人権侵害だ。憲法修正第四条によって、警察ですらそんな押収は行えない」
 話し終えると、アキは縮んでしまったように見えた。 私は胸が悪かった。安酒で酔ったような気分だった。それでも、もっと話を聞きたかった。吐きそうなのに、欲しがっている。腹の底におぞましい感覚が広がるのを覚えながら、部屋で一人だけネクタイを締めている男に目を向けた。
「今の話は本当ですか」
 急に話しかけたにも関わらず、弁護士はうなずいた。質問を予想していたのだろう。私は少し考えて言った。
「利益相反にならない限り、あなたは私の質問にも答えてくれる?」
「そのために同席しています」
 つまり、契約として万全を期するためにいるわけだ。
「では教えてください。デザインされた血液は人体に有害な影響を与えますか」
「私に聞けよ」とクック。「ガンになったのが三人。アルツハイマーになったのが二人。全体からすれば百分の一にも満たない」
 弁護士はクックの話が本当だと請け負ったあと、申し訳なさそうに付け加えた。
「まだ有意な結果が出るほどの統計データはないんです」
「今後、ガンになったり、アルツハイマーになったりする数が増えるかもしれない?」
「否定はしません」
「リスクはあるさ」クックが言った。「しかし若返りの効果は百パーセントだ。効果の度合いにばらつきはあるものの、デザインされた血液を使った選手は全員若返った」
「そんなのフェアじゃない」アキが言った。唇を震わせている。「ハラスメント事案なら、秘密保持契約を破っても訴えられないケースが多い。世間の非難が集中するからです。今回のケースも――」
「契約を破って発言すれば」アキを遮り、クックが日本語で言った。「君は職を失うだろうね、アキ。君は目立ちたがり屋だと思われ、各球団から敬遠される。なぜなら、どこの球団もすでにドーピング漬けだからだ。君には想像もつかないような薬物を、今も選手たちは使っている。日系の通訳にはバレないように、こっそりとね。私はね、すべての選手にドーピングを許可すればいいと思っているんだ。その上で、どんな物質を使っているか明らかにすればいい。打者の情報は、打率や出塁率だけではなく、何を摂取したのかまで明示する。フェアだと思わないか」笑みを消した。「そうすれば、他の選手には選択の自由が手に入るし、名称すらさだかではない物質を検出するために、途方もない努力と検査体制を用意する社会的なコストを削減できる」
「ストップだ、クック。アキ、通訳しろ」
 レッドが英語で言うと立ち上がり、私のほうに歩いてくる。
「私の祖父は若いころ、一九九一年五月一日にノーラン・ライアンの完全試合を見たんだ」
 アキがのろのろと通訳する。私が息を呑むと、それを見てレッドが頷いた。
「祖父は友人と飲んでいたらしい。球場にいた友人から四十四歳のピッチャーが驚くべき偉業を達成しそうだと知らされ、球場に駆けつけた。その試合を、祖父は私に何度も話してくれた。それで、そのうちに、こう思うようになったんだ。私もそんな試合を見てみたいと。人を奮い立たせるような、そんな試合をね」
「あなたはいつだってその話をする」
 クックが笑みを含んだ声で言うと、レッドは悪戯っぽく目を細め、二人は少年のようだ。背後の窓から、邸宅の裏手に広がるセコイアの原生林が見えた。木漏れ日が二人の金髪を柔らかく照らしている。
「すぐに返事をもらえるとは思っていない」レッドが近づき、分厚い手を差し伸べた。「だが、良い返事を待ってる」
 私はベルトコンベアーに乗せられたような気分で立ち上がって握手し、それで話は終わりだった。廊下からは中庭が見え、チームメイトたちが温水プールで泳いでいた。アキは無言で先を歩いていて、私たちは口を閉じたまま階層が違う世界の旅を終え、煩雑なセキュリティチェックを抜けて外に出た。駐車場までは砂利道が続いている。アキは背を向けたままだ。こっちを見ようともしない。
「で、どうする?」
 アキが言った。一緒に過ごした四年で、一度も聞いたことがない、ひどく乾いた声だった。
 私は暗い森に目を向けた。
 ガラステーブルの指紋は拭うべきだったのかもしれない。真っ黒な森を眺めながら思った。あの二人は拭かない。あいつらは自分が汚しても拭きはしない。他の誰かにやらせる。
 あいつらはクソだ、でも。
 私はまだ投げたい、でも。
 森は入口が見えるだけだ。奥は見通せない。
「頼むから何か言ってくれ」
 アキの懇願は、消えてしまいそうなほどに小さかった。
 夜のような森の上には、透明な青空が広がっている。どこを見ても、雲ひとつない。アキの名を呼んだ。思ったよりも細く、頼りない声になった。

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