かぐやSF最終作の全感想

〈重要 これは作者発表の前に書いたもので、作者当ては間違ってます。ご了承ください。まさか、こんなに外れるとは……〉

ということで、かぐやSF最終作の全感想を書きます。

「昔、道路は黒かった」

 これ、めっちゃ印象的でしたね。異彩を放っていたといってもいい。
 まずタイトルと、最初の一行目の遠さがいい。「昔、道路は黒かった」、の次に、「戸川さんにはこっちじゃない」ときたら、何なにって興味を惹かれてしまう。道路からも、黒からも連想しない一行目って、うまいなと思うんです。
 一般的にフックというのは「冒頭で読み手の興味をかき立てるもの、印象的な出来事や文章」などと考えがちですが、ぼくはこういうのもフックだと思うんですよ。
 遠い言葉という考え方は、作家の西崎憲さんに教わりました。西崎さんは〈世界小説化計画〉という小説の創作講座を開いてらして、ツイッターでもこんな形で教えてくださってます(現在、遠い言葉の募集は終わってます)(しかし十一月と十二月の講座の募集はそのうちあるはずです)。
 遠い言葉という考え方は、たとえばタイトルと一行目にも応用できると思うんですよね。タイトルと一行目を遠くする。あるいはテーマである「未来の色彩」とタイトルを遠くする。「未来の色彩」と一行目を遠くする。一行目とラストを遠くする。これは色んな形で応用ができるはずです。
 話を戻しますが、最終候補作の中で最初の一行に関してはこの作品が一番、遠さ、連想のしにくさ、みたいなものが際立っていて印象に残りました。
 もうここで、手練れだなと思うわけです。
 ここから本題に入るまでにSF的な説明をしつつ、このお話の設定も語るという手際の良さも素晴らしい。テンポが良いので初読のときは見逃していたんですが、ここに行数をかけず的確にきびきび進むので、本題にたっぷり行数を費やせるんですね。
 本題に入ってからは、あっという間に引きずられる。そうかこのお話はプロジェクトXだったのかと気づいたときには、どっぷりお話に浸っていて、だから最後の最後で唸ってしまう。
 うまいなあ。手練れだなあ。
 独自性が高くて、もしかしたら十年後に覚えているのはこの作品かもしれないと思います。
 ある日ふと、そういえば、昔道路の話を読んだなって思い出しそうな気がします。


「境界のない、自在な」

 これはぼく、アイデンティティ・ポリティクスのなかったアメリカという「if」の物語として読みました。たとえば黒人差別をなくしていく運動は、公民権運動とブラックパワー運動の二つがありました。公民権運動が「人々はみな同じになれるはず」というスローガンだとすると、ブラックパワー運動は「ブラック・イズ・ビューティフル」のように黒人としてのプライドを持って生きようというものです。二つの運動のうちのブラックパワー運動が、アイデンティティ・ポリティクスです。通常、差別をなくすためにはどちらの運動も必要だと言われています。アイデンティティ・ポリティクスについては、こちらのスレッドがわかりやすいと思います。「境界のない、自在な」ではアイデンティティ・ポリティクスはどうやら存在しなかったようで、「人々はみな同じになれるはず」という夢を人工の皮膚によって実現しようとします。しかし、現実の歴史がそうであったように、アイデンティティ・ポリティクスがなかったために作中のあちこちに差別が残っています。たとえばそれは、

親の肌が特定の文化圏の血をのぞかせていると、周囲の親とのつきあい、学内でのコミュケーションで不利に働く傾向にあると市のガイドブックに書いてあった。

という文章からも察せられる。個人の偏見ではなく、市のガイドブックに書いてあるところがポイントで、差別が社会構造として埋め込まれていることを示唆します。また差別解消のための手段である皮膚が無償ではないこともえげつないです。貧富の差によって差別がなくなったり、なくならなかったりするわけですし、それが自己責任ですまされてしまうのですから。また学校の教師が「ちょうどインディアンの歴史の授業にはいったところで、」とコメントするところも芸が細かいというか、周到なというか。これもまた、アイデンティティ・ポリティクスがなかった証拠だと思えます。黒人のブラックパワー運動と同じように、ネイティブ・アメリカンもレットパワー運動を行っているんですね。肌の色さえ同じになれば、人々は同じになれるはずだという信念が同化を促し、アイデンティティ・ポリティクスを排除してしまった世界を精緻に描かれています。
そこにまず、ぼくは惹かれました。
この「公民権運動はあるが、アイデンティティ・ポリティクスのない社会」というのは、そのまま日本社会のことでもあります。つまり、この小説に登場するアメリカは、こと差別に対する認識に限り、日本そっくりです。
この背景を作り上げ、肌に泳ぐ魚、青空を舞う鷹、曾祖母のキャラクターと心躍るガジェットとキャラが組み合わさって、それが美しい文章でつづられる。もうね、完璧ですよ、完璧。マジ、うますぎるでしょう。キャラクター配置も、世界観も、文章も、お話の筋運びも。
うなったのはこの文章。

ミミにとってなにが最適か調べてもわからない。検索した内容はすべて正しく、そして間違っているようにおもえる。どれがミミにあてはまるのか、私の娘はどのパターンなのか。

ラストもうまいよねえ。ため息が出る。
プロの仕業だろうと判断しました。犯人は十三不塔さん、あなたですね。


「二八蕎麦怒鳴る」

再読すると、「ランチョンマット」「ミルフィーユ」と翻訳しても通じるように書いてあるのに驚く。
今回のテーマ「未来の色彩」は難しかった。そのためとにかく頭で色を出そうとしてしまい、他の作品と色が違うだけで似たような文章になってしまい、フックもなくなってしまう作品も多かったんですよね。実はぼくの初稿もそうでした……。だって、つい引きずられちゃうんですよ。
最終に残った作品はそうしたハードルをクリアしていたけれど、フックも強いうえに翻訳されることまで考え抜いた作品は少なかった。そこまで考えていたのは、七夕と本作だ。どちらも日本文化独自のものを選んだ点も同じで、いやあ、よくそこまでできたなあと素直に感心してしまう。すごいわ。
感想を書くのに再読したんだけど、二度目なのに笑ってしまう力強さ。
>何のために生きているのだろうか私は。
>蕎麦の物言いは、実に蕎麦的だった。
>「あいつ無茶苦茶だよ。蕎麦の気持ちが何も分かってねえ」
二度目なのにね、この三か所では笑ってしまうんですよねえ。すごすぎます。
作者は苦草堅一さんに全部!(クイズダービー知らない人のほうが多いよ)


「七夕」

これが大賞をとるんじゃないかと勝手に思ってます。翻訳したときのことまで考えた説明の加減、英語だけでなく中国語にも翻訳されることを押さえた七夕の解説、「未来の色彩」ってテーマでここまで考えられるってくらい、よく練ってあります。
あと、4000字であることを考え、ほぼスケッチに徹した潔さもしびれます。七夕祭りの楽しさを丁寧に写実し、この社会に断絶があることを「むぎちゃんのお母さん」のエピソードでそっと示してくる手つきも素晴らしい。
いやでも、ほんと、「未来の色彩」って難しいテーマだったのに、ここまで要求にこたえられるもんなのか、というのがぼくには衝撃でした。すげーわ。個人的に申し訳なかったのがですね、最終候補作は全作品の感想をリツイートすることにしていたんですが、「七夕」と「熱と光」の二作に関してはタイトルで検索しても引っかからなかったんですよね。もっと探せばよかったんですが、そういうわけでこの二作の感想は拾えなかったんです。すみませんでした。
さて作者ですが、これも一種の百合だと考え、泡國桂さんだと推理しました(推理?)

「黄金蝉の恐怖」

小海老の殻を剥く時、レンタカンバの樹皮が今にも剥がれおちそうにめくれあがっているのを見た時、あるいは、10歳になるリュカがはじけるような笑い声をあげた時。

最初はこの意味がわからないんですよね。これらに共通するものとは何なのかがわからないからです。
ところがですね、再読するとわかっちゃうんですよね、小海老の殻が何に似ているのか、レンタカンバの樹皮もおそらくはあれに似てるわけですよねえ……あの、みんながのけぞっちゃうような例のシーンの記憶が主人公には蘇っているんだな、それはそうだよね、あれは強烈だったもんね、と同病相憐れむような気持ちになってしまう。
あと、最初に読んだときには「デビーは勇敢な冒険家のゲオルク・フォン・シュパイヤーで、僕は彼女に付き従う忠実な騎士フィリップ・フォン・フッテンだった。」を流してしまったんですが、ウィキで調べたところによると、ゲオルクとフィリップは黄金郷(エルドラド)を発見するために南米大陸に渡った冒険家だったんですね。だからこの時点ですでに黄金をにおわせていたわけか……芸が細かいなと思いました。
ちなみに、ウィキで調べたところによれば、ラストベルトには「メリーランド州ボルティモアやデラウェア州ウィルミントンなど他の都市を含めることもある」とのこと。しかし、どういう場合に含めるのかを論文検索で調べてみたんですがどうしてもわからなかった。誰か知っていたら教えてください。ちょっとだけ気になるので(ちょっとだけ?)
タイトル、最初はプロがお遊びで書いた感じを出したのかなと思ったんですよ。怪奇フランケンシュタインみたいなノリで、ぼくは好き。
これは作者、誰だろうな……もう勘なんですが、みそは入ってませんさんではないかなあと。あくまでも勘でしかないんですが。


「オシロイバナより」

 まずこの作品の作者ですが、白川小六さんだと思います。これはわりと自信あります。二八蕎麦苦草くらい自信があります(敬称略)。白川さんの印象は、真っすぐ直球のSFで勝負する人のイメージです。で、十作の中で、ど真ん中のSFって作品はこれでしょう。ということで、これが白川さんじゃなかったら、びっくりしますよ。
この作品は構造が美しいですよね。途中で挟まれる会話が、同じ時間に交わされているのかと思わせておいて、ずいぶんと昔に話された会話だというのが、オシロイバナの目的が明らかになったのとほぼ同時に、読者が気づくようになっている。このタイミングがぴたっとあった感じはいいです。
気持ちがスイングバイします。
会話パートでは情報を伏せているのも巧みです。良いミステリを読んだときのような、くるっとひっくり返るあの感触があります。
それでいて、きちんとした端正なSFになっている。これがどれだけすごいことかは、ミステリとSFが好きな人にはわかるはず。
しかもそれを、四〇〇〇字に収めてしまうという剛腕がね、しびれます。
作者は白川小六さんです(二回目)


「ヒュー/マニアック」

まさかのお仕事小説ってところで、まずポイント高いですよね。
なにしろ、テーマがテーマです。
何度も同じことをいうようですが、「未来の色彩」というテーマをどう料理するかというのは、かなり高いハードルでした。しかもそれを四〇〇〇文字のSF小説にしなければならない。そうした諸々の条件に気をとられるあまり、ぼくの初稿はフックがおろそかになった上に、冒頭から色がやたらと出てきちゃったりしたものです。
しかし、デス姉さん(だと勘で判断しました)は、そのような条件に加えて、さらにお仕事小説に仕立ててきた。しかも仕事の内容は〈パーソナルカラー診断〉だという。なに、ユーモアまで混ぜちゃうの。天才なの??
どういう考え方をすれば、こんなアイディアが浮かぶのか。
しかもこれ、きっちりエンタメしながらお仕事小説の作法も守っているんですよね。
最後の最後には、楽しい秘密の種明かしまであって、これシリーズで読んでみたい。
続きを読みたいなと思うのって、読者としてとても幸せなことだと思うんですよ。もっとこのお話を読みたいって思うのは、どっぷりその世界に浸っていた証拠なので。
何がポイントで作者がデス姉さんだと思ったのかは、ツイートを見ていてなんとなくそう感じたからです(勘だからね)


「熱と光」

のっけから文章がうまい。文章の長短が狭い幅で伸び縮みしていて、リズムがある。うまい。何者だ。
それから女性の口調が役割語ではないところも光ってて、そういうところにぼくは個人的にわくわくします。
これは再読してから気づいたんだけど、「夕暮れが僕を落ち着けた」とか、ずばっと書いてるんですよね。文章がうまいと、こういうのが紛れこんでても自然なんですよね。小説はやはり文章がうまいと何でもできるものなので、すでにこの作者はかなり強いのがわかる。だって、「非情緒的な意味において、受精における男とはゲノムの提供者だ。ついでにいえば、出産における男とは手すりだ」とかさらっと書いてのけちゃうんですよ。このあたりで、そろそろぼくは才能という言葉に逃げたくなってしまう。
アンソニー・ドーアとだけ書いて、小説のタイトルを書かないのも粋だなと思いました。作者は『すべての見えない光』を読んだことのある誰かに対してだけわかるように、そっと秘密の目配せをしている。「あなたにだけは伝わりますよね? そう思っていたので、こんな書き方をしました」。そういう特別なメッセージが伝わってきます。小説や映画の解説で「これはこういう作品のオマージュです」と明かしてくれる場合もあるが、作者が明かすのはちょっと野暮に見える。それは秘密の目配せではなくなってしまうからかなと個人的には思ったり。
ぼくが書き手として一番気になったのは、この作品、四〇〇〇字という狭さをまったく感じさせないところです。例えば、スケッチとして四〇〇〇字に対処するとか、ワンアイディアを押し通すとか、短いシーンを積み重ねるとか、文字制限に対処する方法はいろいろとあると思うんですが、この謎の作者はどういう方針でもって書いたのかがまるで見えてこない。文章がうますぎるからか、お話の流れが自然で、無理した感じがどこにもない。これはどうやって書いたんだろうと思ってしまう。書き手としてそういう作品ほど読んでて楽しいものはないと、ぼくは思う。
ラストも、語り終えられてないところですぱっと切られてて、そこに凄みを感じました。
これは誰が書いたんだろう。他の作品をもっと読んでみたいです。


「スウィーティパイ」

 ぼくが最初に見たファンタジーって小説ではなくアニメです。聖戦士ダンバインです。あれのなにが衝撃的だったかっていうと、オーラバトラーの大軍が地上世界に出現するところですよね。今思い出してもあれは燃えた。
この「スウィーティパイ」でヘンリーが実在するアウトサイダー・アートの大物だと知ったときの、ぼくの驚きはですね、オーラバトラーの大軍が地上世界に出現したときのようなインパクトをもたらしました。きっと作者はぼくと同世代か、少なくともダンバインを見ていたに違いない。違いないったら違いない。
ということで、ぼくは初めて読んだとき、ヘンリーが実在の人物だとは知らなかったんですよ。それでも面白かった。造語のセンスが半端ない。名前の持つ力ってこんなにも大きいんだなと思い知らされました。初めて目にするネーミングが続くのに、読むのが苦にならず、世界が見えてくる感覚もあって、うわー、いいなー、こんなに書けたら最高だろうなーという嫉妬と羨望しかありません。すごいわ。
それだけでも打ちのめされていたんですが、ツイッターに流れてくる感想を読むと、どうやらヘンリーは実在するらしいとわかってくる。
調べてみました。すると、知っている人であれば「これはあなたにこっそりお教えするのですが、ここに登場するヘンリーはね、あのヘンリーですよ」という秘密の目配せがあちこちにある。「雑役夫として仕事」「大家であるネイサン」「テープで補修した視力矯正具」「花模様の表紙に金文字の題字」、そしてタイトル。この情報の秘めかた、知っている人だけに通じるサイン、目配せの仕方に、途轍もない技量を感じますね。あからさまではないのに、きちんと手がかりを与えている。普通はたぶん、もっと悪目立ちするんでしょうが、ここは組み合わせの妙で、ニァグの世界の「卵胞絵師」「産褥の谷」「配電翅」「オード帯」「錆青磁色から滅紫色」という単語たちが頭に強烈なインパクトを残しているので、検索すれば出てくるはずのヘンリー・ダーガーの情報がうまく紛れてくれています。特にニァグが興味を持って個体を観察しているというくだりでそれらの情報が出てくるため、提示も不自然ではない。これらの条件があるからこその、特別な目配せになっているのだと感じます。よく練られている。そこにぼくは心を打たれます。どうやって考えたんだろうね、これは。
物語のおしまいに、ニァグは卵と絵を描く希望をヘンリーから受け取りますが、ヘンリーは何も受け取っていない。おそらく彼はこれからも、天気について悪態をつき、生きている間は誰からも注目されず、その死後にネイサンの手によって有名になるのだろうなと思わせる。そこもいい。
これは想像なんですが、多くの書き手が、画家が、自分一人のために書き続けたヘンリーに勇気を与えられたんだろうと思うんですよ。誰からの批判も賞賛もなく、人に一切見せず、ただひたすら己のために書き続ける姿に、心打たれない創作者はいないと思うんです。それはニァグも同じだった、というのがぼくの解釈です。
ニァグはおそらくこの先、師匠にも愛想をつかされ、門徒らにも軽んじられるだろうという気がします。それほど甘い世界でもないだろうと。
でも、ニァグの胸にはヘンリーが宿っている。そしておそらく、すべての孤独な創作者の胸にも。
集団とうまくやる必要などないし、他人の意見など聞く必要もない。誰に認められなくても、誰ともうまくいかなくても、アートは、創作は、たった一人でやれる。
そして、もしかしたら、自分しか見る者のいない場所で、ある日そっと卵がかえるのかもしれない。
これは、だから、ぼくにとっての救いだ。
「境界のない、自在な」と迷ったのですが、この作品に一票を投じました。
作者は、たぶんですが、枯木枕さんではないかと。
ん、枯木枕さん、1995年生まれ?? じゃあダンバイン知らないの?? マジか……。

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