「ベリーショート」

 私が氷のように冷えた足先を握っている間、言語郎は枕の話ばかりした。
 その日は朝から曇っていて、私が家を出るのを見計らったように雪がちらつき始めた。傘を持って出なかったのを後悔しながらフードをかぶり、砂砂糖をかけたようなアスファルトを歩いた。市民文化センターにつくころには本格的に降り始め、強い風にあおられた雪が舞い上がり、前が見えないほどだった。稽古場に向かったのは、ホン読みが大事だったのではなく、引き返すよりも進んだほうが屋根のある場所に近かったからだ。肩の雪を払いながら二階の会議室に入ると、すでに座長の四万言語郎(しま・げんごろう)がパイプ椅子に座っていた。おはようございますと挨拶すると老眼鏡をあげた。目を細めて鷹揚にうなずく。小さく手招きした。他には誰もいない。私はそばまで行くと床に置かれていたクッションを尻にしき、片膝を立てて座った。言語郎は靴と靴下を脱ぎ、己の素足を差し出してくる。失礼しますと頭を下げ、左手でくるぶしを、右手でつま先を握った。体温が、私はそれほど高いわけではない。年齢を重ねるとともに体温計に示される数字は低くなっている。その私よりも言語郎の体温は驚くほどに低かった。かさかさした足は氷のようだ。本当にこれが生きた人間の足なのかと思うくらい芯から冷えている。じっと触っていると冷えが伝播したかのように、私の背中に震えが走る。
 言語郎の冷え性は劇団内では初期の段階から有名だった。俳優たちの中には見かねて靴下に貼る使い捨てカイロや、靴に入れるカイロを使ったらどうかと進言するものもあったが、言語郎はつまらなそうにすでに試してみたのだと吐き捨てた。そんなことをしても温まるのは表面だけでかえって冷たさが内にこもってしまう。冷凍庫に霜がつくように、骨が凍えるのだと説明した。言語郎がそういうのであれば周囲は納得するしかなかった。言語郎は主演俳優であり、脚本家であり、演出家でもある。早い話が劇団の支配者だ。彼に逆らえるような人間は一人もいない。少なくとも劇団内には。
 凍死を避けるにはどうするればいいか。ある日の飲み会で、言語郎は彼の妻が普段どうしてくれるのかを話した。手足の冷えがあまりに辛くて眠れないとき、妻の葵衣(あおい)は彼の手足を包み、何時間も温めてくれるのだという。人肌でじっくり温められると徐々に内側から熱が生じてくる。無明の闇に小さな火が灯るような心地で、凍死を避けるのに裸で抱き合うのは、なるほどそういう理由だったのかと得心がいった。言語郎の話はそれで終わりだった。翌日からは劇団員が彼の手足を温めるのが当然だという不文律が生まれていた。
 蝋のように白かった言語郎の足指がほのかに赤みをましていく。左足を差し出され、私は足を持ち替えた。かすかに湿った足からは何の匂いもしなかった。冷蔵庫の中の匂いがすると言った劇団員がいた。空っぽの冷蔵庫みたいな匂いだ。
「うちの妻はね、新しいものを買おうとしてももったいないといつも言うんだ」言語郎が言った。「特に服や布のカバンみたいなものだとね」
 これを見てくれよと着ているジャケットの袖口を指さした。注意深く観察すると、繕った跡が見えた。しかし、生地と同じような色、同じような光沢の糸を使っているようで、遠目にはわからないし、近づいてもよほど注意しなければ気づかないだろう。
「針仕事が得意なんだ。質素倹約を絵にかいたような性格でね」
「羨ましいですね。また反対にしましょうか」
「ああ、すまんね。ありがとう」再び右足を持つ。「コートは十年も買ったことがないし、枕なんてもう二十年くらい同じものを使っているよ」
「枕もですか。でも詰め物は」
「たぶん足しているんだろうね」嬉しそうに目じりを下げる。「いつも気持ちよく眠れるんだ」
「そば殻とかですか」
「いや、どうもそういうものではないみたいだ」
「じゃあスポンジですかね」
「そういう感じでもないんだよ。なんだかふんわりとしていて、弾力があって」唇を舐めた。「どういったらいいのかわからない。軽いのにはね返すような力を感じるんだ。実をいうとあれがないと眠れなくてね。旅行にも持って行ってるくらいだ」
 私は本当に興味がわいてくる。
「へえ」枕を盗めばこいつは不眠症になるかもしれない。「一度、ぼくも使ってみたいですね」
 ドアの開く音がした。若い女が入ってくる。伊藤紗枝だ。ごつい革ジャンに小花の散りばめられたスカートを合わせ、足元は頑丈そうなワークブーツだ。私は安堵の吐息をそっと漏らした。言語郎は私に礼をいうと、紗枝を手招きした。紗枝は私が脇に避けるのをまって、クッションに腰を落とした。横座りしたスカートの中に言語郎が足を差し入れる。紗枝が太ももで挟んだのが足の動きでわかった。冷たいのだろう、紗枝は眉根をよせている。言語郎は右手を伸ばすと紗枝に両手で握らせた。
 スカートをはいてくるのは劇団員の自由意志によるのだ、というのが言語郎の言い分だ。太ももに挟むのも、手を握るのも、女性たちの自由意志なのだと。
 しかし、男性の団員と女性の団員がいるとき、言語郎が手招きするのは決まって女性のほうだ。太ももに挟ませるのも女性だけに求めているし、手を握らせるのも女性だけだ。
「最近は眠れているのか」
 言語郎は目を閉じたまま言う。男であれ女であれ、手足を預けているときはいつも目を閉じている。暖を取らせてもらっているはずなのに、どうかすると苦痛に耐えているようにも見える。紗枝は顔を伏せていて表情は読めない。言語郎は挟まれている足をかすかに揺らしているようだ。
「まだ眠れないことが多くて」
「だったら枕を変えてみたらどうだ」
 私にした話とそっくり同じ話を言語郎はした。一字一句同じだった。ただ、声の調子は違っていた。私に話したときよりも、愛情深い声で、いかにも妻を愛しているという口調だった。少しわざとらしいくらいに。
 紗枝は黙って聞いていたが、最後にぽつりとつぶやくように言った。
「いいですね、葵衣さんは」しっかりと掌を両手で祈るように握っている。「そんなに大事にされて」
「そんなの当たり前だろう」
「いいえ。当たり前なんかじゃありません」
 紗枝が顔をあげた。言語郎の目を見て、小さく、かすれた声で続けた。
「葵衣さんが羨ましい」
 言語郎の足がじわりと奥に進む。
 私はコーヒーでも買ってきますと言い捨てて、二人の返事を聞く前に部屋を出た。
 一階のロビーに降りた。自動販売機で紙コップのコーヒーを買う。大きなガラス張りのロビーは人気もなく閑散としていた。奥まった場所にある多目的ホールの前は普段から薄暗いのだが、今日は一段と暗く感じた。新型コロナウイルスによって地方劇団の公演は激減した。アマチュアのコンサートも行われなくなった。それなりに賑わっていたはずの客席に、もう長いこと人が座っていないという心理的なものが、影を濃く感じさせているのかもしれない。窓の外では白が自在に暴れている。まったくやみそうになかった。私は紙コップを包み込むようにしたまましばらく外の乱舞を眺め、それから少しずつ飲んだ。空っぽになったコップをゴミ箱に捨てて、葵衣さんに電話した。
「じゃあ、英字くん、今日空いてる?」
 状況を説明すると、葵衣さんは言った。
「窓の外を見てますか、葵衣さん」
「もちろん。だからできたら家のマンションの下にあるガストがいいんだけど」
葵衣さんはもともと客演でうちの劇団に参加した俳優だ。表向きは互いの劇団にいる優秀な俳優を広く知らしめるためのこととなっていた。葵衣さんは当時、劇団の脚本家と熱愛の末こじれるという危機的状況にあり、見かねた言語郎が手を差し伸べたのだ、というのも表向きの話だ。言語郎は最初から葵衣さんを狙っていた。自分の手の届くところに置き、眺め、口を出し、心の内側に手をつっこんでかきまぜ、自分に目を向けさせようとしていた。実際に本人の口から聞いた。言語郎はそういうところを隠すタイプではない。私を信用しているから話したのではなく、色んな人間に胸の内を明かしていた。必ず批判的な見方をして葵衣さん本人に忠告する人間が出てくるからだ。そうなると歯車が動き出す。噂を信じていれば、本人と会った時のギャップが生じるし、噂を信じなければ、密告者への嫌悪がそのまま言語郎への好意に変わる。言語郎がそう言ったのではなく、これは私の想像でしかない。でも実際にそうだ。言語郎は無駄なセリフを嫌う脚本家だから。
「それはそうだけど」初めて忠告したとき、葵衣さんは言ったものだ。「実生活と脚本は別なんじゃない?」
 忠告したのは別の誰かがご注進に及んでいるのを確認し、最初の顔合わせで言語郎と話したあとのことだ。もちろん私はそのタイミングを狙って話したのだ。高い確率で嫌われるかもしれない最初の密告者には誰だってなりたくないものだ。
「言語郎のやることなすことには全て意味があります。全てなんです」
「神の行うことに偶然はない」
 葵衣さんはそのときそういって目を細めた。たぶん、私が恋に落ちたのはその時だろう。
 予定通り言語郎は葵衣さんに手を出し、二人が仲良くなっていくのを傍から見つめていた。結婚式にだって出席した。今でも私は葵衣さんが心変わりをするならいつでも許そうと思っていて、だから雪の中を歩いてガストに向かった。
 すでに道は真っ白になっていて、前を歩く人の姿はヴェールに覆われているようだ。みな、滑らないよう慎重にのろのろと歩いていて、互いの存在に気がつくと、どちらからともなく道を譲りあった。誰もがみな、巡礼者のように礼儀正しかった。巡礼者が靴にわざと小石を入れて歩いたのだと教えてくれたのは葵衣さんだ。彼女はイアン・マキューアンの『贖罪』を例に出してその話をした。傷ついた兵士が長い距離を歩いたのは巡礼者の比喩なのだと。私は雪道を歩きながら、そのときの葵衣さんの口調を思い出していた。自分の靴に小石が入っているような気がした。
 ガストにはあまり人がいなかった。窓際に深刻そうなカップルが一組。パソコンを使って作業中の人。英会話の個人レッスンをしているらしい金髪のネイティブと黒髪ショートの学生。酔っぱらったのかテーブルに突っ伏していびきをかいている勤め人が一人。葵衣さんはいなかった。テキストメッセージを送ると、〈え、本当に来たの?〉という返事が届いた。本当に来ました、早く降りてきてくださいと返した。
 五分もしないうちに降りてきた葵衣さんは着古したトレーナーにジーンズ姿だった。入り口できょろきょろしている葵衣さんに手を振って声をかける。席まで来ると持っていた大きなバスタオルを私の頭にかけてくれる。そのまま、立ったまま、なぜかしげしげと私の顔を眺めていた。
「何か顔についていますかね」
「唇真っ青だよ」
「寒かったんです、すごく。葵衣さんは頬が赤いですね」
「部屋の暖房が効きすぎちゃって」
 席に座るとメニューを開き、アイスカフェオレと一緒にストロベリーアイスを注文した。
「知らせてくれてありがとう」
 葵衣さんは丁寧に頭を下げた。姿勢がとても良いので見ていて気持ちよかった。
「正直なところ」私は言った。「言語郎さんはカウンセリングを受けた方がいいと思いますね」
「最近はコンプライアンスというか、セクハラにも厳しくなったから」
「世間一般では、それが当たり前だと思うんですが」
「それはそうだね」ため息をついた。「演劇が異常なんだよね。演技指導がレイプとか、今でもざらにあるわけだし」
 色気がないのは経験が足りないからだ。女性の俳優に面と向かってそういった演出家を見たことは何度もある。今でも他の劇団にいる友人からそういう話を聞く。芸術のためならば、人権は無視しても構わないという人種は今でも元気にやっていて、自分の発言を露ほども疑ってはいない。普遍的な価値観を自分は知っているのだとうぬぼれている。そういう人間を集めて燃やせば天も焦げるほどの大火になるだろう。
 そういう輩と比べると、言語郎はまだましだ、というのが葵衣さんの見解だ。私としては承服しかねる。
「いつものように、それとなく、ね」
 葵衣さんは言う。意地の悪い気分に襲われ、私は聞いてみる。
「このままホテルに行くんじゃないかと思わないんですか」
「今日?」葵衣さんは目を丸くして、それから笑った。「今日は泊まらないよ」
「根拠は?」
「だって」アイスをスプーンで口に運ぶ。「枕がないから」
 あ、言っちゃいけなかったんだ、と小さくつぶやいて、またひと匙アイスを掬いとる。
「もしかして言語郎さんは泊まるときにはいつも枕を持っていくんですか」
「わかりやすいでしょう」
 言語郎が若い女優に目をつけるたび、私は葵衣さんに報告してきた。デートを邪魔できることもあれば、失敗することもあったが、どうして葵衣さんが的確に密会の日時を知って私に指示が出せるのか、ずっと不思議だった。
「ねえ」葵衣さんは長い髪の毛をもてあそびながら言った。「その紗枝ちゃんって、髪の毛さらさらだったりする?」
「顎までのボブでさらさらですね、確か」
「あの人やっぱりそういうのがタイプなのかな」
 急に小さい声になった。
 これまでに手を出そうとした面子を思い返してみる。言われてみると、髪質はそうだった。ただ、顔の好みも一定で、目が大きくて、どちらかと言えば垂れているタイプが多い。そう指摘すると、そうかもしれないけど、と唇を尖らせた。
「あたしの髪の毛って太いんだよね。誤魔化すのに伸ばして、鬼みたいにブラッシングして、枝毛とりまくってるからあまり言われないんだけど」
「でもきれいですよ」
「ありがとう。でも言語郎にも言われたことあるんだよね。剛毛だって」
「気にすることないですよ。ぼくはきれいだと思います、葵衣さんは」
 見つめると、葵衣さんは目を逸らした。
「本当に太いのよ、一本一本が。この間なんてね、指が痛いなと思って見てみたら何か刺さってるの。これ何、何が刺さってんの、と思ってよく見てみたら、あたしの髪の毛だったの。信じられる? 髪の毛って皮膚を貫くんだよ」
「言われなければわからないですよ」
「そういうことにしておくか。いつも助けてくれるお礼に女の子でも紹介しよっか」
「紹介はお断りしますが、お礼はして下さい」私は思い切っていった。「ちょっと部屋にあがっていいですか」
 あまりいい顔はされなかったが、しつこく粘ると、葵衣さんは折れてくれた。二人でエレベーターに乗って、十三階で降りる。絶対に秘密だよと葵衣さんが困ったように笑い、寝室に通してくれた。私は胸の鼓動が早くなるのを感じた。ベッドルームと続きの間が言語郎の書斎で、壁一面は本棚になっていた。古今東西の戯曲が所狭しと横になって積まれたり、すき間に突っこまれたりしていて、碌に背表紙も見えない。本人の談によれば貴重な全集などが奥深くに眠っているのだという。宝探しのロマンを本棚で体現しているのだそうだ。私は埋もれている宝のうちの一冊を貸して欲しいと葵衣さんにねだったのだ。ジューン・ジェラルド「黄金蝶の夢」。人間が蝶になり、海を渡って黄金の蝶たちに会いに行くというストーリーで、〈セントラルパーク効果〉という言葉はこの戯曲から生まれたと言われている。
「セントラルパーク効果って何?」
「蝶たちが海を越える前、大陸を横断するとき、休憩場所が必要になります。具体的には木々が生い茂っているような、緑の多い場所がいい。都市部に出るとそういう場所は限られていて、それはニューヨークだとセントラルパーク一択になる。つまり」
「うんうん、もういい。どうもあたしは興味がないみたい」
「これからが面白いところなのに」
「コーヒーでも淹れてくるから、ゆっくり探してね」
 葵衣さんがキッチンに向かう足音を聞いてから、私は足音を忍ばせて寝室に向かった。枕は二つあった。同じような形をしていて、向かって右側の枕は若干へこんでいて、左の枕は張りがよかった。おそらく左だろうと思いながら、両方の匂いを嗅いでみる。左からは甘い香りがした。右は言語郎のつけているヘアコンディショナーが臭った。背負っていたバックパックに枕を詰めこんだ。
 もちろん、「黄金蝶の夢」などという戯曲は存在しない。いや、もしかすると同じタイトルの作品は存在するのかもしれないが、内容は違うはずだ。まったくの口から出まかせだったのだから。私が語った話で真実だったのは〈セントラルパーク効果〉についてだけだ。それすら、蝶の話ではなくて、渡り鳥の生態を調べてわかったことだ。葵衣さんは興味を持たない話になるとすぐに逃げるのは予測できた。
 コーヒーを手に戻った葵衣さんは当然ながら私と一緒に寝室に行くことはなく、だから枕の紛失には気づかなかった。もちろん二人でいくら探しても存在しない「黄金蝶の夢」は見つからなかった。二十分ほど過ごしてから私はあきらめたふりをして、帰りますと告げて玄関まで送ってもらった。外はまだ雪だった。
 枕だ。私は思った。笑った。ざまあみろ。
 タクシーを拾って帰宅した。匂いが気になったけれど、ウイスキー多めのコーヒーを飲んで身体が温まったら、瞼がくっついて離れなくなった。仕方なく、枕にバスタオルを巻いて寝た。夢の中で私は蝶になり、蜘蛛の巣にかかっていた。糸は黒く、闇に溶けていて、触れなければ存在に気づかなかった。私は完全に絡めとられていた。糸は首にしっかりと巻ついていた。手首をきつく縛りつけ、指の関節に黒い輪が食いこんでいる。舌にも、まつ毛にも、耳にも、陰茎にもしっかりと巻付き、どうやっても身動きできず、声も出せない。蜘蛛が近すぎず、遠すぎない距離にいて、ずっとこちらを見ていた。動いて糸が揺れると、すぐそばによってきて、ガラスめいた目で私を冷たく観察している。蜘蛛は消化液をかけて獲物を溶かし、それを吸い取る。身動きができないまま、身体が溶けてしまうと思うと、腹の底から震えが生じて、どうやっても止まらなかった。震えが糸を揺らし、蜘蛛を近づける。恐怖が私を縛り、やがて我慢できず死を望むようになる。蜘蛛が近づくにつれ、私は快楽を覚え始めていた。もう溶かして欲しかった。これ以上我慢できそうにない。心臓の鼓動が早くなる。蜘蛛がまた近づく。
 目が覚めると、私は下着を見た。夢精していた。冷たい下着をはいたまま、私は枕をじっと見つめた。二十年も使用してまったく弾力が変わらない枕の中身を想像した。何かを補充しなければ、枕は重みによって平たくなる。葵衣さんは二十年の間、ずっと足していたのだ。そば殻でも、スポンジでもないものを。それがなんであるのか、布地を裂かなくても私にはわかった。
 葵衣さんから何度か枕について知らないかと問い合わせがあったが、私は返事をしなかった。そのうちテキストメッセージは届かなくなった。
 言語郎はしばらく不眠症だと騒いでいたが、新しい枕を手に入れたらしく、安眠できるようになったと嬉しそうに吹聴した。葵衣さんが買ってきた枕は新品のはずなのにどこか懐かしい感じがするのだという。
「うちの妻は本当にいいものを選ぶんだ」言語郎は笑った。「そういえばね、珍しいことに髪型を変えたんだ。すごく短くしてね」
 似合っているんですかと聞くと、どうやら本人もあまり気に入ってないようだねと答えた。

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