自己紹介が苦手

 理解できないと判断するには、それについて未来永劫わかるはずがないのだと知覚せねばならない。それはつまり、ある種の理解を得たことになる。時間的な経緯があったとしても全体像は把握できない、という種類の理解を。
「つまり、兄さんが試合を見に行くとインディゴソックスが勝つって言ってる?」
 兄はうなずく。まっすぐにこちらを見つめている。微塵もぶれない視線だった。目があうのは久しぶりだなと思うと、急に現実が夢の中の夢のように、あやふやになった気がした。砕け散る波をずっと見ていると、自分が何を見ているのかわからなくなる。波を見ているような気もするし、水を見ているような気もするし、結局は何も見ていない気もする。波そのものは一回一回、違っているはずなのに、目は同じパターンを勝手に読み取り、個々の波の違いを認識できない。そう考えると、兄は波に似ているのかもしれない。
 兄という人が何を考えているのか、私は幼いころからわかった試しがない。ただの一度も。小学校では五年生になると放課後、みんなでソフトボールをやることになっていた。これは習慣であり、集団行動について学ぶ機会であり、スポーツを通じて他校の生徒たちと知り合いになり、努力と才能を試し、自分を鍛え上げることが期待される課外活動だ。参加は自由だが半ば強制だ。兄は「参加が自由なのだったら、ぼくはやらない」と言い続けた。親も、教師も、生徒たちでさえ、皆がそろいもそろって参加するよう言葉にし、無言でプレッシャーをかけた。私ならあっという間に同意しただろうほどの総意を、「自由なんですよね?」と問い返すことで無効化した。呆れたように笑われても、気にしてないようだった。お互いに三十歳を過ぎたころ、その話をしたことがある。どうしてソフトボールしなかったのか、と質問すると、兄は当然のように答えた。「だってあれ、参加は自由だったんだ」
 おそらく見かねてだったのだろう、両親が広島に連れて行き、野球を見たことがある。広島東洋カープと巨人の試合だった。今考えるとかなり良い席だったことがわかるが、当時はぴんと来なかった。私がそうだったのだから、兄はもっとピントが合わなかっただろう。兄は帰りたがり、野球には興味がないと言い、席に座らず、逃げ出そうとした。困った父親が何でも好きなものを食べてもいいというと、カレーを食べたあとにカープうどんを二杯食べ、人いきれに酔い、真っ青な顔で脂汗を流し、トイレに向かって走る途中で我慢しきれずに吐いた。あれはひどかった。うどんがそのまま口から出てきて、茶色いねばねばした汁であたりが汚れ、酷い匂いがして、通路だったので多くの人が顔をしかめ、非難するような目で兄を見て、中には汚いなと口にする大人もいた。わざわざ言葉にする大人はたいていピールを手に持ち、胸元が汗で濡れてた。結局、兄は試合を一度もまともに見なかった。ソフトボールチームになぜ入らなかったのか、という話になったときに、この話も出た。私が話題にあげた。どうして試合を見なかったのかと聞くと、「別に興味なかったから」と言い、思いついたようにつけくわえた。「うどんが美味しそうだったのは覚えてるよ」
 話をしたのは父が他界したときで、遺体が実家に戻り、明日の葬式を控え、私たちは線香を絶やさないよう夜中まで起きていた。五年前だ。兄はそのときも野球に興味など持ってなかった。二年ぶりとなる行動制限のないゴールデンウィークでも、過去と現在は段差なく繋がっているのだと考えていた。
 増田大輝がジャイアンツで活躍していたから。
 なぜ興味を持ったのかと聞くと兄はそう答えた。代走の切り札として走っている増田がインディゴソックスの選手だったことを知って興味を持ったのだという。工場で働く日系ブラジル人のカルロスが野球好きで、いつもメジャーリーグの話をしていた。それがある時から日本のスポーツ新聞を買うようになった。増田という選手が活躍すると、いつも買っているようだった。それが不思議で聞いてみると、増田は地元の選手だと教えられた。テレビで見ると素晴らしい走りで、まずはそこに惹かれた。ジャイアンツ戦を楽しみにするようになったが、代打の切り札は競った試合にしか出てこない。そのうち増田を育てたインディゴソックスに興味が移った。というのも、全国放送のテレビでは四国アイランドリーグにも、徳島インディゴソックスにもあまり触れてくれなかったからだ。もっと連呼してもいいくらいなのにと思ったという。そこでケーブルメディア四国に入り、試合を見るようになった。実際に試合にはまったのは、マイケル・ルイスの影響が大きかった。映画の『マネー・ボール』を見てから、マイケル・ルイスの原作を読み、出塁率の重要さに気づいた。野球は確率のスポーツだ。打者はツーストライクまで追いこまれても、ファウルで粘り、ボールを見極め、スリーボールツーストライクまで持っていき、カウントを整える。ルールを利用して、対戦相手であるピッチャーにプレッシャーをかけ、ストライクの来る確率を上げることで、バッターは出塁をかけて勝負できる。「いい本だから、お前も読んだほうがいいよ。面白いから」。兄は話の途中で部屋に行き、『マネー・ボール 奇跡のチームをつくった男』を十分ほど探したが見つからず、やがて居間に戻ってきて、すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み、続きを話してくれた。試合を見に行くようになり、藍染のグッズを買うようになった。そのころは元広島カープの西田真二が監督をしている香川オリーブガイナーズが強かった。だが、インディゴソックスは強くなる。二〇一七年と二〇一九年には総合優勝を果たし、グランドチャンピオンシップでも勝利している。兄がスタジアムに行くたびに、勝っていたのだという。負けたこともあったはずだと質問すると、兄はしぶしぶうなずいた。それでも十回に八回は勝っているという。チームが強いから、勝ち試合に遭遇する確率が高いのかもしれない。そういう可能性はもちろんあるんだ、と兄は断ってから続けた。しかし、増田について教えてくれたカルロスだけではなく、試合場で知り合った人たちにも、あなたが来ているなら今日は勝ちますね、と言われるのだという。一人だけではなく、何人も。
「ファン同士の交流とかあるんだ」
「ファンのこと、藍サポっていうんだけどね」兄は人差し指で鼻の頭をかいた。「僕、けっこう有名人なんだよ、藍サポのあいだで」
 正直、どう答えたらよいのかわからなかった。拍手喝采すべき? 趣味があるのはいいことだねと笑うべき? しかし、今でも私は兄と野球が結びついていない。過去と現在の段差が躓きの石となり、頭の中で迷子になっていると、兄はやけにきざな口調で一緒にあなんスタジアムに行かないかと誘ってきた。明日、試合があるのだと急に目を伏せて言う。私は兄のつむじを眺め、そういやオンラインじゃこういうところは見えないよなと思っていた。兄が畳に目を向けたまま返事を待っている。
「いいよ、行ってみる」私は答えた。「ここまで言われたら、行かないわけにはいかないでしょ」
「ここまで言われたらって?」
「煽ってる自覚ないの」
「へえ、気づかなかったわ」
 にらみ合う直前の焦げ臭いにおいを感じて、私は目を逸らし、ゆっくり立ち上がった。そういえば実家にいるときには兄とよく喧嘩したなと思いながら暗い廊下を歩いて自室に戻る。オンラインで話しているときには感情的な軽いぶつかり合いはなかった。良くも悪くも、オンラインはオンラインだ。翌日はよく晴れた。あなんスタジアムまでは車で向かった。渋滞を予想して昼前に出たのだが、県道百三十号線はそれほど混んでなく、スタジアムには十四時前には到着した。試合開始は十八時だったので、黒土と天然芝のコントラストが美しい球場を後にして、近所を散策した。兄と一緒に歩くのはずいぶんと久しぶりだった。外野席の芝生で応援出来たら最高だったのに、と兄はしきりと悔やんでいた。新型コロナウイルスの感染予防のため、内野席でしか観戦できないのだという。大声の声援もなし。ジェット風船もなし。藍サポ内の有名人だというのはまんざら嘘でもないようで、幾人かの人に声をかけられていた。あんたが来たんなら今日は勝つね。途中で帰っちゃだめだよ。どこの席に座るの。またあとでね。球場の周辺にはすがすがしいほどに店がなく、目にまぶしい緑があるばかりだ。ちょっとしたキャンプにでも来たような気がしてくるほどに。兄は歩きながら去年の戦果を話してくれた。
「前期六試合、後期四試合見に行って全勝だった。ほんとは後期もう二試合見に行く予定だったんだけど残業で行けなかったんだ。二試合とも負けた。どちらの試合も勝ちゲームだったのに八回に逆転された。ホームゲームだけでも全試合見ていれば優勝できるはずだし、公式戦を制覇すれば全勝優勝だって夢じゃない気がする。イーロン・マスクが諸々の資金を僕に提供してくれたらいいのに」
「イーロン・マスクのメリットは」
「そうすれば一人の人間の観測によって結果が変化することを証明できるよ。未来は確率的に決定するのではなく、一人の人間の視線によって決定すると明らかになる」
「それって、晴れ男みたい」
 おれ晴れ男なんだという知人は、雨が降ってくると誰かのせいにする。雨女か雨男が複数いるから晴れないんだといい、バーベキューに参加している人に、これまでの人生で雨に降られて行事が中止になってないか聞き始める。おかげでバーベキューは中止になるわ、犯人は誰なんだという雰囲気は漂ってくるわ、件の晴れ男は探偵のような口調になってくるわで、テレビの二時間ドラマの参加したような気分になった。失敗したバカンスの記憶というのは意外と根深くしつこいものだ、と私は兄にとうとうと訴えた。兄は眉根を寄せて私の話を最後まで聞き終えると、ずいぶんと低い声で吐き捨てた。
「というか、その晴れ男のどこが僕と似てるんだ」
「そうだねえ」私はしばらく考えると言った。「なんか圧みたいなもの?」
「圧ねえ」
「ちょっと変わった宗教みたいだよね」
 兄が質問に答えたのは試合が始まってしばらくしてからだった。攻撃は対戦相手の高知ファイティングドックスのピッチャーの前に三者凡退で終わった。一回の裏、インディゴソックスのピッチャーはフォアボールを連発し、満塁になってしまった。隣の男性がビールを飲みながら、こいつはいつも制球が悪すぎる、バッターと戦うんじゃなくて自分と戦ってる、とぼやいた。四番はキャッチャーフライを打ち上げた。ワンナウト。
「人が仕事に求めてきたものって、宗教に似てると思うんだ」兄が言った。「そう思わない?」
「それ今話すこと?」
 ピッチャーはまだ自分と戦っていて、ツーボールワンストライクになって、大きくストライクを外し、キャッチャーが後方に逸らした。ランナーが一人帰った。一対〇。次もボールでバッターは一塁に向かう。隣の男がピッチャーを手ひどく侮辱し、兄に気づくと手を振った。兄は軽く頭を下げ、それから言った。
「仕事って生きる目的になったり、他の人との繋がりになったりする。仕事は自分自身に価値を与えるから、自己紹介では自分の仕事について話したり、相手の仕事について訊いたりする。宗教が人間に生きる意味を与えるように、仕事は人間に生きる意味を与えている。人が仕事に求めてきたことって、宗教に求めてきたことに似てるんだ」
 六番バッターに対する初球はど真ん中で、長身のバッターは狙いすましたようにフルスイングし、打球は外野の奥に飛んで行った。タイムリースリーベース。スコアボードに三点が追加されると内野陣がピッチャーのまわりに集まった。ピッチャーはうつむいている。キャッチャーがゆっくりとマウンドに近づいても、まだ足元を見ていた。隣の男はピッチャーを今すぐ変えるよう大きな声で要求していた。兄はピッチャーを眺めながら言った。
「自己紹介が苦手でね。いつでもどこでも、仕事はって聞かれる。工場で働いてます、焼き付け塗装した自動車の部品がコンベアで運ばれてくるので、それを外してますというとなんていうか、うーん、あまり目を合わせてくれなくなるんだよね。何を言ってもあまり聞いてもらえなくなる。そういうのが続いて、自己紹介で仕事の話をしなくなったら、今度は会話が続かなくなったんだ。初対面だと絶対に仕事のことを聞いてくるし、答えないと不愉快そうな態度になる。自己紹介できないから、新しい人と新しい関係を築けなくなっていた。ずっと。長い間」
 キャッチャーはうつむいたピッチャーの肩を軽くたたくと、内野手たちと何かを話した。短い言葉に、四人がうなずく。何を話しているのだろう。誰が何を思っているのかが聞いていなくても流れこんでてくるものなのに、こういう場面では何の情報も得られない。
 試合が再開されると、ピッチャーはセットポジションではなく、振りかぶってど真ん中に投げた。七番バッターは完全に振り遅れていた。ワンストライク。今はそうじゃなくなったんだねと私が言うと、兄は笑い、球場で聞かれるのは好きな選手だからねと答えた。ピッチャーはまたワインドアップから投げた。バッターはかろうじてバットを振ったが、ボールは前に飛ばず、後ろにはねた。
「最初は好きな選手なんていなかったんじゃないの」私が聞くと兄が答えた。「初めて見たときから気になる選手っているもんだよ」
 私たちは二人ともピッチャーを眺めながら言葉を交わした。高知の応援席から歓声が聞こえる。ピッチャーが大きく深呼吸すると、振りかぶって、三球目を投げた。三塁ランナーが走る。バッターはバントの構えだ。ファーストとサードが足を動かし、前方に突っこむ。ボールは前に飛ばず、後ろにそれた。キャッチャーがボールをつかむと、棒立ちになった三塁ランナーに、生まれたばかりの赤子に触れるようにやさしくタッチした。隣の男が兄に向って満面の笑みを浮かべ、兄は片手をあげる。チェンジだ。

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