でも

 十五階と映像、どちらを先にしますかとたずねると、高田信明は十五階を選んだ。エレベーターの中ではずっと監視カメラを見ていた。もみあげのあたりにちらほらと白いものが交じっていて、さすがに洋一とよく似ている。信明の十年後の姿が、あの映像だったみたいだと思ったところでエレベーターが止まった。降りてすぐ、寒さと共に白いものが吹き付けてきて目を細める。上着のジッパーを引き上げて廊下に出た。
 左手すぐに非常階段のドアが見える。胸までの高さのコンクリート壁が手すりの役割を果たしていて、右手には角部屋がある。薄灰色の雲が空を覆い、遠くに低く暗い山が見えた。舞っているのは雪だ。積もることなく、すぐに溶けて消えてしまうような雪片が、風に吹き飛ばされ、上に向かったり横に走ったりしている。風に吹かれた布がどこかでばたばたと鳴っていた。突き当りの真下は居住者専用の駐車場になっていて、十五階の高さから見ると、白い枠線は小指の先より小さい。とても目のいい人の視力検査に使えるくらい。どこも切れてはいないから視力検査には使えないし、実際、普通の人は十五階の距離を長く見下ろしてはいられないものだ。信明は壁を両手でつかみ、顔だけを向こう側にせり出すようにして、じりじりと首を曲げ、下を見ていた。重心は後ろだ。身を乗り出してはいない。すぐ手を出せるくらいには近く、邪魔をしないくらいには距離を取って壁にもたれ、墓参りを邪魔するようで気が引け、周囲に目をやる。廊下の側溝には枯葉がかなり溜まっていた。排水溝にも埃や昆虫の死骸が堆積している。蝉の羽根の切れ端が虹色に光る。信明がようやく駐車場を見つめるのをやめ、向きを変えて壁に背をあずけ、足腰がぐにゃぐにゃになったかのように座りこみ、右手で目を覆った。
 私はどうやってお祓いについて切り出すかを考えた。マンションの住民はみな、あれについて知っている。とても怖がっているのは通常の反応だろう。だから坊主にお祓いをして欲しいという思うのが普通なのかどうかはわからない。ただ、会社からお祓いのマニュアルが送られたところをみると、案外よくあることなのかもしれない。どこにでも転がっているような、平凡な、マンションの管理業務にはつきものの案件なのかも。ため息を押し殺して考える。大変心苦しいのですが。お気の毒ですが。私としても言いにくいのですが。どう言い換えても、続く言葉は変わらない。坊主に支払う金を出せ。なぜなら、あなたの兄が行った行為の結果について、あなたには責任が発生するのだから。
 目に見えるすべての空間に雪片が存在し、踊っている。新車だったんでしょうか。目を覆ったまま信明が言う。信明の前に腰を下ろし、どういう意味かを問うと、中古車なら多少違ってきますからと答えた。五〇七号室の寺内は昼間から酒を飲み、派手な金のチェーンネックレスをつけている五十代の男で、画廊を経営している。先月、ポルシェからベントレーに買い替えた。新車のシートは香りが違うんだと誰彼構わず自慢していた。それを告げると、呻くように言った。ベントレーのコンチネンタルGTアズールは、新車で三千三百万するんです、兄が死んだという衝撃はあるのに、悲しめない。三千万をどう調達するのか考えると夜も眠れない。
 でもまあ、車の上に落ちたから、顔はきれいだったんですがね。しばらくして妙に明るい表情で信明は言った。あれがアスファルトの上ならもっと酷かったでしょうから。思わず目をつむりそうになる。巨大な手で殴られたように陥没した顔面は鼻がつぶれ、唇は裂け、目が飛び出していた。ベントレーの天井は大きくへこみ、フロントグラスは割れ、流れた血は車内に溜まっていた。すごい匂いだった。信明に詰め寄ろうとする寺内を警官が羽交い絞めにし、「必ず弁護士と連絡を取って。個人同士で話をしないように」といった。ひどくきつい口調だった。
 弁護士に会ったのか問うと、信明はうなずき、相続放棄すれば弁償はしなくてもすむらしいと言った。資産的価値のあるものだけでなく、借金も相続するものなのだという。だからその権利を放棄すればいいのだが、そうすると寺内さんに被害を押しつけることになってしまう。押しつける、という言葉がドミノ倒しのように倒れ、気が付いたらお祓い費用を請求していた。信明は虚をつかれたように無表情になった。弁護士に相談したいんですが、と遠慮がちに言った。誰かに損害費用を払ったとわかれば、ベントレーの買い替えを迫られるかもしれないので。信明は言ってすぐ後悔したように、領収書を上様にしてもらえるならすぐにお支払いできますと言った。今は上様で領収書は切れなくなっているのだと伝えると、膝に手を置いてだまりこんだ。頭を垂れ、あらわになった細い首に雪が落ち、溶ける前に次の雪が落ちてくる。不思議ですよね、信明がのろのろと言う。どうして兄は屋上にしなかったんでしょうね。答えは簡単だ。屋上に通じるドアには施錠することが法的に義務付けられているから。伝えるべきかどうか判断がつかないまま雪を眺めた。降る雪は、いつまでもやまないように思えた。事務所に戻って映像を見ますかと問いかけたが返事はなかった。 
 警官にさんざん見せたので、エレベーターの監視映像は覚えてしまった。映像は午後十時十三分三十二秒からスタートする。映っているのはスーツ姿の男性で、立ったまま、見上げたり、足元に目を落としたり、持ち上げた手を見たりする。二週間後には消去するデータだ。きっと私はすぐに忘れる。でも。 
 雪はみな違う形で風にもてあそばれている。舞い上がり、斜めになり、横に走る。しかし最後には、どれもこれも、あれもこれも、すべてが同じように落下する。

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