【読書劄記】#4明代事件簿②軍隊と一緒に密輸品を運んでしまおう。

※注意※
このnoteアカウントを始める時に、自分の専門に関する話はしないと宣言したのですが、文献を読んでいると、たまに論文や研究ノートにするまでもないが、メモとして落書き帳に残しておきたい文章を思いつくことがあります。それを【読書劄記】とカテゴライズしてnoteに書いていこうと思います。ただしメモ程度の落書き帳なのでクオリティは保証しません。

多分、論文にすることはない事件簿をほいと投げるシリーズ。

事件概要

先の事例では陸に戻る前に捉えられてしまったが、帰還に成功した場合、商人が次にするのは密貿易で手に入れた番貨を販売して儲けることのはずである。その場合、商品を売る場所は広東よりも大消費地である江南地域であっただろう。そうであれば商人は手に入れた番貨を江南へ運ぼうとする。次の事例は、そのような番貨輸送の様子がみられるものである。

取り調べたところ、犯人の丘九重[1]は潮州府海陽縣の民である。成化十八年(1482年)二月二十五日、丘九重と海陽縣の民人の蔡三は、事例によって軍民人等の番貨を接買するのを許していないのを知っていながらも、それぞれ不届きにも故意に、「越度邊關」律に違反して、ひそかに大金門澳[2]へ行った。丘九は喇哈翁宗熙から蘇木二百擔を買い、蔡三も蘇木二百五十擔を買って手に入れ、必ず身につけて南京などに行って販売しようとした。二月一十六日、李雄は、まさに「上班」(=京営のために南京に行くこと)しなければならないところであり、そこで副千戸翁麟等五百二十三員名に、船三十隻を雇わせ、守備封川縣の副千戸韓慶等一百二十九員名に船五隻を雇わして、それぞれ衣糧や盔甲を詰め込んで出発するのを待っていた。丘九重は李雄の官軍が出発することを聞きつけて知り、また不届きにも蔡三とグルになり、酒席を設けて李雄の軍についていかせてほしいと請願した。黃凱と陳孔が先に接待を受け、銀二十二兩を求め、黃凱はそれぞれ不届きにも送り届けることを聞き入れた。李雄もまた不届きにも法を枉げて受け入れた。丘九重はボロ船三隻を雇い、蘇木を詰め込んで、下水門の河べりにいた。二月十一日、李雄は翁麟等を連れて出発し、丘九重・蔡三船を引き連れて同行したが、饒平縣楊桃平灘に至ったところで水を被り、丘九重たちの船一隻は岩石に船底を打って壊し、蘇木一百五十擔を流して失ってしまう。薛欽は軍人の陳玉に蘇木二十擔を集めさせて、名前のしらない客人に売り与え、銀四十七兩を手に入れた。李雄はそれを聞き知って激怒し、薛欽を叱責して三十回殴り、その銀を取り戻して蔡三に渡し、船二隻を停泊させて、そこで(残りを)売ってしまった。李雄たち官軍はそれぞれ船を出して行ってしまった。成化十八年(1482年)十二月、薛欽の父で致仕している副千戸の薛聰が李雄は九重の銀兩を受け入れて、官軍の水運費用を横領した実情をもって、「李雄が拳を用いて自分の息子を踢打して、致傷し殺したのだ」という虛詞を捏造して加えた訴状を備えて告発した。(問得、犯人丘九重、招係潮州府海陽縣民。成化十七年二月十五日、有潮州衛指揮僉事李雄、帶領本衛該班副千戸薛欽・翁麟、百戸徐其・刑聰・張英、軍人彭志等五百二十三員名、往總兵官處聽守備、該水脚銀一百六十七兩七錢五分、李雄不合侵欺入己。本年十月初一日、李雄放班回衛体[休]息。成化十八年二月二十五日、九重與本縣民人蔡三明知有例、軍民人等不許接買番貨、各不合故違、越度邊關、潛去大金門澳。九重接買喇哈翁宗熙蘇木二百擔、蔡三接買得蘇木二百五十擔、合要裝往南京等處發賣。本月一十六日、李雄應該上班、仍令付[副]千戸翁麟等五百二十三員名、雇船三十隻、守備封川縣副千戸韓慶等一百二十九員名雇船五隻、各裝衣糧盔甲伺候起程。九重聞知李雄官軍起程、又不合商同蔡三設酒請到跟隨李雄軍伴。黃凱・陳孔先吃飲、將銀二十二兩正、央黃凱等各不合依聽、過送李雄、亦不合枉法接受。九重等雇到朽船三隻、裝載蘇木、放在下水門河邊。本月十一日、李雄帶領翁麟等起程、九重・蔡三將船跟隨同行、至饒平縣楊桃平灘、被水將九重等船隻一打在石上磕爛、漂去蘇木一百五十擔。有薛欽令軍人陳玉打擄得蘇木二十擔、賣與不知名客人、得銀四十七兩。李雄聞知瞋怪、將薛欽責打三十、追出前銀給與蔡三、將船二隻灣泊在彼發賣。李雄等官軍各開船去訖。十年四月初五日、李雄等官軍俱到軍前、薛欽病故。本年十二月内、有薛欽父・致仕副千戸薛聰備將李雄接受九重銀兩・侵欺官軍水脚價銀實情、不合添担李雄用拳踢打伊男、致傷身死虛詞、具狀告。)

解説

明中期は、既に蘇木・胡椒等の番貨に対する需要があり、またその需要が沿海の諸地域に限られていなかった。この事例内で番貨を仕入れた丘九重たちが、その番貨を販売するために目指したのは南京であった。この地域は番貨の一大消費地であり、丘九重のほかにも絶えず客商が南京へ来て番貨を販売するという事態はかなり多かったのだろう。

ところで、こうした番貨の需要はどのくらいの利益を生むのだろうか。史料中では、「蘇木二十擔を得、名を知らざる客人に賣り與え、銀四十七兩を得。」とあり、蘇木二十擔を銀四十七兩で替えているが分かる。これを計算すると蘇木一擔あたり0.425…兩であることが分かる。事故に遭う前の当初の目論見では、丘九重と蔡三は合計して四百五十擔を仕入れており、それらを全て売れば、百九十一両を手に入ったはずである。これがどれほどの利益を産んだのかは、仕入れや移動にかかる費用がこの史料からは見ることが出来ないため、判断するのが難しい。しかし、こうした密貿易業者が後を絶たなかったことを考えると相当な利益をあげていたことは、間違いないだろう。

この事件では、先の梁大英のような違法な大船を製造するだけの人物は登場しないが、密貿易の協力者が多く登場している。その協力者は、民間人だけにとどまらず、本来は取り締る公権力の側あるべき官軍にまで広がっている。

張燮『東西洋考』巻七、餉税考が「成・弘の際、豪門巨室の間に巨艦に乘りて海外と貿易する者有り」としているように、地元の有力者が密貿易に参加していたことが知られているが、この事例では登場するのは官軍に限られている。密貿易によって手に入る番貨が生む大きな利益は、それだけ人々を惹きつけたのだろう。こうした状況は、海上に官憲の管理の行き届かない無秩序な空間を生み出すに至った。こうした無秩序は、『東西洋考』に「嘉靖に至ってその弊は極まった」とあるように嘉靖に至って中央も無視することのできない事態へと発展していく。成化・弘治年間には、すでにその原型が見られると言ってよい。



[1] 丘九重は史料中において表記のゆれがあり、丘九堹とも表記される。どちらかは、『事類纂』の誤りであろうが、どちらが誤表記なのか確定する術がない。本稿では丘九重に統一する。

[2]恐らくここでいう大金門澳とは、先ほどの事例で現れた金門地方と同じく潮州府近海の島嶼部にある海峡の名称であり、そこに作られた船溜りのことを指すと考えられる。(乾隆『潮州府志』巻一六、山川「大金門・小金門。在城東南島二門。」)またここで登場する喇哈翁宗熙なる人物がどこの誰なのかは、残念ながらこの史料から知ることはできないが、恐らくは東南アジア方面から来たものであろう。Anthony Reid. Southeast Asia in the age of commerce, 1450-1680, vol. 1: The lands below the winds, Yale University Press, 1988.は同時代の東南アジアを「交易の時代 (the Age of Commerce) 」としており、東南アジア産品への需要の増加は一四〇〇年頃から始まっているとしている。この原因の一つとしてリードは、一四五七年から一五二〇年代の間、公式な海禁の執行力が弱かったこと挙げている。この期間は、明朝の元号で言えば天順から正徳年間にあたる。

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