【読書劄記】#4明代事件簿②軍隊と一緒に密輸品を運んでしまおう。
多分、論文にすることはない事件簿をほいと投げるシリーズ。
事件概要
先の事例では陸に戻る前に捉えられてしまったが、帰還に成功した場合、商人が次にするのは密貿易で手に入れた番貨を販売して儲けることのはずである。その場合、商品を売る場所は広東よりも大消費地である江南地域であっただろう。そうであれば商人は手に入れた番貨を江南へ運ぼうとする。次の事例は、そのような番貨輸送の様子がみられるものである。
解説
明中期は、既に蘇木・胡椒等の番貨に対する需要があり、またその需要が沿海の諸地域に限られていなかった。この事例内で番貨を仕入れた丘九重たちが、その番貨を販売するために目指したのは南京であった。この地域は番貨の一大消費地であり、丘九重のほかにも絶えず客商が南京へ来て番貨を販売するという事態はかなり多かったのだろう。
ところで、こうした番貨の需要はどのくらいの利益を生むのだろうか。史料中では、「蘇木二十擔を得、名を知らざる客人に賣り與え、銀四十七兩を得。」とあり、蘇木二十擔を銀四十七兩で替えているが分かる。これを計算すると蘇木一擔あたり0.425…兩であることが分かる。事故に遭う前の当初の目論見では、丘九重と蔡三は合計して四百五十擔を仕入れており、それらを全て売れば、百九十一両を手に入ったはずである。これがどれほどの利益を産んだのかは、仕入れや移動にかかる費用がこの史料からは見ることが出来ないため、判断するのが難しい。しかし、こうした密貿易業者が後を絶たなかったことを考えると相当な利益をあげていたことは、間違いないだろう。
この事件では、先の梁大英のような違法な大船を製造するだけの人物は登場しないが、密貿易の協力者が多く登場している。その協力者は、民間人だけにとどまらず、本来は取り締る公権力の側あるべき官軍にまで広がっている。
張燮『東西洋考』巻七、餉税考が「成・弘の際、豪門巨室の間に巨艦に乘りて海外と貿易する者有り」としているように、地元の有力者が密貿易に参加していたことが知られているが、この事例では登場するのは官軍に限られている。密貿易によって手に入る番貨が生む大きな利益は、それだけ人々を惹きつけたのだろう。こうした状況は、海上に官憲の管理の行き届かない無秩序な空間を生み出すに至った。こうした無秩序は、『東西洋考』に「嘉靖に至ってその弊は極まった」とあるように嘉靖に至って中央も無視することのできない事態へと発展していく。成化・弘治年間には、すでにその原型が見られると言ってよい。
[1] 丘九重は史料中において表記のゆれがあり、丘九堹とも表記される。どちらかは、『事類纂』の誤りであろうが、どちらが誤表記なのか確定する術がない。本稿では丘九重に統一する。
[2]恐らくここでいう大金門澳とは、先ほどの事例で現れた金門地方と同じく潮州府近海の島嶼部にある海峡の名称であり、そこに作られた船溜りのことを指すと考えられる。(乾隆『潮州府志』巻一六、山川「大金門・小金門。在城東南島二門。」)またここで登場する喇哈翁宗熙なる人物がどこの誰なのかは、残念ながらこの史料から知ることはできないが、恐らくは東南アジア方面から来たものであろう。Anthony Reid. Southeast Asia in the age of commerce, 1450-1680, vol. 1: The lands below the winds, Yale University Press, 1988.は同時代の東南アジアを「交易の時代 (the Age of Commerce) 」としており、東南アジア産品への需要の増加は一四〇〇年頃から始まっているとしている。この原因の一つとしてリードは、一四五七年から一五二〇年代の間、公式な海禁の執行力が弱かったこと挙げている。この期間は、明朝の元号で言えば天順から正徳年間にあたる。
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