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私たちの、アンビエント


(先日掲載した『アンビエントと二つの〈死〉』の原型となったアンビエントミュージック論を追加で再掲します。批評再生塾、最終講評会模擬試験で提出したものだす。
こちらではジョン・ケージとブライアン・イーノの比較を主な題材としています。より実直な音楽論かと思います)

1.
本稿の目的はただ一つ、実に単純なものだ。アンビエント・ミュージックの現代的意義を問うこと。正確には、アンビエント・ミュージックが宿した「アンビエント」というコンセプトの価値を、今の社会的視座から測り直すこと。これだけが、私たちが追いかけてゆくであろう文章の唯一の拠り所である。

なにを今さらアンビエントを、と訝しがる者もいるかもしれない。アンビエント・ミュージックを確立させたブライアン・イーノのアルバム『Ambient 1 Music for Airport』が発売されておよそ40年。同アルバムのライナーノーツにおいてイーノが記した”As ignorable as it is interesting.”(興味深いが無視できる)という定義通り、集中的に聴く必要のない、聞き流しても構わない、だがしっかり聴こうと思えば聴くべきところのある音楽。「環境音楽」とも訳されるこの音楽ジャンルは、KLFやエイフェックス・ツインなどのミュージシャンによる影響力をもった作品を生み出し、「ニューエイジ」や「エレクトロニカ」、あるいは「ミニマル・ミュージック」「音響派」といった近接サブジャンルと並走しながら、今に至るまでその水脈を途絶えさせることなく生き続けてきたし、オリジネーターであるイーノも現役で積極的に作品を発表している。産業規模は決して大きくないが、一つの音楽ジャンルとして定着したと言っても構わないだろう。だからこそ、隆盛を極めているわけでも逆に滅びたわけでもない、安定期にあるものをことさら取り上げることに、およそどんな意義があるのか。ジャンル自体が音楽世界の中で「興味深いが無視できる」ものになり、その存在意義から考えれば理想的ともいっていいポジションにあることに揺さぶりをかけることは、マイナス以外の結果を生まないのではないか。そんな疑問が投げかけられてもおかしくない、むしろそう思う方が自然といっていいかもしれない。ここでは、アンビエント・ミュージックの変遷を追うことや、その最新型について論じることはしない。むしろ、イーノが産み出したアンビエントの概念のコアを抽出し、その感性が音楽世界の内側以上に、外側に広がる世界から要請を受けていると示すことが本稿の目的となる。


2.

広く知られているように、アンビエント・ミュージックの考え方の原型となるものはエリック・サティの「家具の音楽」に求められる。サティは1920年に三部構成の楽曲『Musique d’ameublement(家具の音楽)』を発表する。それは管弦楽器や打楽器が同じパターンのメロディ、リズムを変奏なしで幾度も繰り返す曲が3つ並べられたものである。コンサートのプログラムにはサティ自身による注意書きが記載されており、そこには「何かそれに重要な含みがあるなどとはお考えならずに、休憩時間のように、音楽などは存在しないかのように振舞われますよう、切に皆様方にお願い申し上げます」という言葉が含まれていた。サティはシニカルなユーモアを好んだ人間であるから、彼の言葉全てを文字通り、コンスタティブに読むわけにもいかない。だが、音楽の内容と言葉を照らし合わせると、「音楽など存在しないかのように」という冗談のような物言いにも切実な意味合いが含まれていることがわかる。19世紀にはコンサートでは集中して全体を聴かなければいけないという倫理が市民権を得ていた。近代において、クラシックは音楽の全体を聴きながら、そこに含まれる精神性を感じる崇高な芸術作品であるという考えが生まれ、バッハ、モーツァルト、べートーヴェンといった作曲家の神格化が起きた。高級な音楽と低俗な音楽、クラシック/ポピュラーという二分法が生まれたのもこの流れの上でのことだ。渡辺裕は『聴衆の誕生』で、集中的聴取を行うことを倫理的に正しいとする考え方は普遍的なものではなく、音楽文化のブルジョア化やヴィルトゥオーゾ(テクニックをひけらかすことで人気を集めたアイドル的演奏家)への反発などの結果、偶然と一部の人間の利害によってもたらされた19世紀という時代の産物であると述べている。こうした考え方を代表する当時の作曲家がリヒャルト・ワーグナーである。多くの演奏者と長大な演奏時間を必要とする楽曲の壮大さは音楽を崇高なものたらしめんとすする意図の現れであるし、ワーグナー自身が「肝心なことは、われわれは理想的に再生された作品そのものを聴かねばならないということ」であると、集中的聴取の倫理性を言語化している。サティはワーグナーに代表される音楽的思想がむしろ音楽の持つ軽さや喜びの可能性を踏みにじっていると考えたのだろうか。『Musique d’ameublement』はクラシックの構築性を脱臼させるような、全体を聴く意志をはぐらかすような単純な反復を構造として持つ。イーノのアンビエントも、反復構造と集中的聴取からの解放という二点においてサティを受け継いでいる。

あるいはこう言うことも出来る。サティに「家具の音楽」を提唱させたのは、1920年という時代だったと。1914年には人類史においてはじめての大規模な世界戦争が勃発し、フランスをはじめとするヨーロッパ諸国は壊滅的なダメージを受けた。近代において信じられていた精神性が、戦争を招いたことで激しく疑われる。芸術文化において異議申し立てが起こった。無意味な言葉の羅列と騒々しいパフォーマンスによりショック体験を与えるダダイズム、フロイトの発見した無意識の領域を芸術に当てはまることで近代の超克を目指したシュールレアリスムなど、若者が中心となった新しい芸術文化はおしなべて過去の精神を否定するものであった。「我々文明なるものは、今や、すべて滅びる運命にあることを知っている」とポール・ヴァレリーが『精神の危機』の冒頭に掲げたのが1919年。滅びるべき近代文明とは異なった、新たな価値を想像/創造しなくてはいけない。過去からの切断意識が当時の文化を包み込んでいた。「家具の音楽」もそうした反近代としての芸術の一側面であったと言える。全体性を崇める思想が破滅を招くのなら、全体性を解体しなくてはいけない。その解体作業を文学で担ったのはダダであり、音楽で担ったのは家具の音楽である。サティは当時50代のベテラン作曲でありながらパリのダダ運動に参加しているし、ジャン・コクトー、フランシス・ピカビアなどの若い芸術家とも交流があった。最晩年には後にフランス映画界の巨匠となるルネ・クレールのアヴァンギャルド映画『幕間』に出演し、シャンゼリゼ通りに向けて大砲をぶっ放している。


3.

1920年が「家具の音楽」を生んだという事実は、本稿において重い意味を有する。1920年代から1930年代にかけての時代と2000年代から現在に至るまでの時代には大きな共通点があると考えるからだ。

1936年に上梓されたベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』も、近代の文化と現代の文化との切断意識を元に書かれている。20世紀に入り、写真・映画をはじめ、芸術の領域全てにおいて複製技術が現れる。複製技術による芸術においては、オリジナルとコピーの間で価値の差異が生まれない。かつてオリジナルが持っていた正当性、「いま、ここにしかない」オリジナルの作品が観る者に抱かせる時間・歴史の重みは、複製芸術においては失われることになる。この失われた重みを「アウラ」とベンヤミンは呼ぶ。アウラとは「時間と空間が独特に縺れあってひとつになったものであって、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象」であり、今、目の前にあったとしても、その奥には遥かな歴史が控えているということが意識されるものなのだ。

アウラの消失はベンヤミンが分析した時代だけに起こった現象ではない。今の時代から眺めれば、複製芸術においてもアウラはまだ残存していたと考えられる。たとえば、過去の映画を収めたフィルムは歴史的な価値のあるものとして保存されているし、希少性のあるレコードは高額で取引される。歴史的価値や特別な市場価値が認められているということは、そこに時間的重みを感じていることの証明であり、物体にアウラと呼ぶべきものが含まれていることを意味している。更なるアウラの消失は、芸術作品のデジタルデータ化とインターネット技術の一般化の上で起きるだろう。映画にせよ、写真にせよ、レコード・CDにせよ、1990年代まで複製芸術はまだ物質性を保っていた。2000年代以降はデータ化の波が芸術全体を襲う。特に音楽に関しては、音源作成から流通、さらに購買から聴取までの過程全てが物質化を通さずに行えるようになった。欧米ではCDショップが軒並み姿を消しており、日本にタワーレコードやHMVが残っていることが驚かれるような状況だ。SpotifyやApple Musicといった音楽クラウドサービスやyoutubeなどの動画サービスによって安価(あるいはタダ)であらゆる音楽が聴けるようになり、録音芸術の市場価値は下落の一途を辿る。

データ化だけではない。通信販売と物流機能を大規模に一本化したAmazonのような企業の登場で、家を一歩も出ることなく、芸術作品を楽しむことができるようになった。実は、アウラの有無には人間の移動コストが関係している。ベンヤミンは始原芸術が魔術的・宗教的儀式に用いられるものとであったことを指摘する。


芸術作品を伝統の関連のなかへ埋めこむ根源的なしかたは、礼拝という表現をとったわけである。最古の芸術作品は、ぼくらの知るところでは、儀式に用いるために成立している。最初は魔術的儀式に、ついで宗教的儀式に用いるために。ところで、芸術作品のアウラ的なありかたが、このようにその宗教的機能と切っても切れないものであることは、決定的に重要な意味をもっている。いいかえると、「真正の」芸術作品の独自の価値は、つねに儀式のうちにその基礎を置いている。


宗教的儀式と結びついたものだということは、儀式の場に足を運ぶ以外の方法で芸術作品を観ることはなかったということを意味する。時間をかけて、大勢の人数が集まることで儀式は儀式として成立した。時間や人間のコストをかけることが儀式の神聖性を保証しており、芸術作品は儀式の道具として存在していた。ところが、複製芸術にそのようなコストはかからない。映画は街の映画館まで足を運べば観られるし、レコードショップでレコードを買えば家で音楽を聴いて楽しめる。映画館やレコードショップには人が集まるが、鑑賞行為は一人で可能なものだ。さらに、現代においては街へ出る必要すらない。映画を観たかったり、音楽を聴きたかったりすれば、インターネットにつないでNetflixやi-Tunesを開けばいい。DVDやCDなら、Amazonで注文すれば翌日には届いてしまう。鑑賞行為は、すべて家の中で完結してしまう。もはや映画館で他人と一緒に映画を観る必要もない。移動コストの減少は複製芸術がアウラの基礎となる儀式的機能からさらに遠く距離を置いたことを意味する。以上のように考えれば、インターネットが発達して以降のここ20年で、さらなるアウラの消失が起きていることがわかる。

ところで、ベンヤミンは『複製技術時代の芸術作品』において「アンビエント」的なものに言及している。精神を集中して近づくべき芸術作品を、大衆はくつろぎの対象、娯楽の対象としてとらえているという批判的意見に対して、次のように応じている。


ーーこの点はもっと精密に考察しなければならぬ。くつろぎと精神集中とは互いに対極にあり、この対極性は次のように形式化できる。芸術作品を前にして精神を集中するひとは、作品に沈潜し、そのなかへはいりこむ。ちょうど、自分の仕上げた絵のなかへはいっていく中国の画家の伝説が、物語るような具合に。これに反して、くつろいだ大衆のほうは、芸術作品を自分のなかへ沈潜させる。大衆は海の波のように作品をしぶきで取りかこみ、自分のなかに包みこむ。この場合、建築物を例にとるのが、一番分かりやすい。建築は古来、その受容がくつろいでなされる、しかも集団によってなされる芸術作品の、典型だった。


建築は、眺める芸術ではなく、住まう芸術である。人々は建築の中へと入り、構造や空気に慣れていき、くつろぎを見出すようになる。複製技術時代には、強く意識を向けて観る視覚的受容ではなく、意識せずになんとなく感じる触覚的受容の感覚が人々の中に生まれるのだ。ベンヤミンは、建築的な芸術の代表格として映画を取り上げて分析を試みているが、視覚/触覚の対比で考えるのであれば、映画以上に鼓膜に触れることで感知する音楽により当てはまる話だろう。「くつろぎの芸術」とは正にアンビエントのことだし、「空港」という「建築物」の中の環境に馴染むように作られた『Ambient 1:Music for Airports』は特に、「触覚的受容」に向けられた作品だと言える。


4.

だが、「くつろぎの芸術」を音楽に適応させることに異を唱えた人物がいる。アドルノである。ベンヤミンの論に応答するかたちで書かれた「音楽における物神的性格と聴取の退化」で、アドルノは注意分散状態の鑑賞は映画には適しているかもしれないが、音楽においては全体的把握を不可能にしてしまうと述べる。音楽が部分で分断されて把握されると、その部分に対するフェティッシュな欲望だけが増幅する。結果、聴き手には小児的な受容しかできない。それは聴取の明らかな退化だとアドルノは断罪する。さらに、録音技術などによって、大衆は音楽を「所有」できてしまう。大衆は「所有者」として音楽より自らを上に置くことが可能になってしまうのだ。

アドルノはジャズやポピュラーミュージックを否定し続けた人物であり、過去の近代芸術にすがる時代遅れの存在に思えるかもしれない。しかし、「くつろぎの芸術」に対するアドルノの指摘は黙殺できない。音楽の所有に見て取れる大衆の増長した意識はポピュリズムを生み出し、それがドイツにおけるナチスの権力拡大の温床となったからだ。ベンヤミンは後にナチスからの逃走に失敗し、自殺を選ばされることとなる。

「大衆」について考えるのであれば、オルテガの『大衆の反逆』を避けて通ることはできない。この本が出版されたのは1929年。ベンヤミンやアドルノの複製芸術論の少し前のことだ。ファシズムの足音が近づく時代、大衆文化が勢いを増す中で、それまで少数者が責任を持って引き受けてきた政治・宗教・文化のリーダーシップを大衆が侵し始めた。オルテガはこの現象に対して厳しく批判的だ。大衆の定義を、いくつか引用してみよう。


大衆は、すべての差異、秀抜さ、個人的なもの、資質に恵まれたこと、選ばれたものをすべて圧殺するのである。みんなと違う人、みんなと同じように考えない人は、排除される危険にさらされている。この《みんな》が本当の《みんな》でないことは明らかである。《みんな》とは、本来大衆と、大衆から離れた特殊な少数派との複雑な統一体であった


現代の大衆的人間の心理分析表に、二つの重要な特性を書き込むことが出来る。生の欲望の、したがって、かれの性格の無制限な拡大と、かれの生活の便宜を可能にしてくれた全てのものにたいする、まったくの忘恩である。


社会生活の諸事実に注意を払いながら、この大衆的人間の心理構造を研究すれば、次のことがわかる。

(1)大衆的人間は、生は容易であり、ありあまるほど豊かであり、悲劇的な制限はないというふうに、心底から、生まれたときから感じており、従って、各平均人は自分のなかに支配と勝利の実感をいだいている。(2)そのことから、あるがままの自分に確信をもち、自分の道徳的・知的資質はすぐれており、完全であると考えるようになる。この自己満足から、外部の権威に対して自己を閉鎖してしまい、耳をかさず、自分の意見に疑いを持たず、他人を考慮に入れないようにする。たえず彼の内部にある支配感情に刺激されて、支配力を行使したがる。そこで、自分とその同類だけが世界に存在しているかのように行動することになるだろう。したがって(3)慎重さも熟慮も手続きも保留もなく、いわば《直接行動》の制度によって、すべてのことに介入し、自分の凡庸な意見を押し付けようとするだろう。


こうした言葉を概観してみると、すぐれた者を圧殺し、便利な生を可能にしてくれるものへの恩を忘れ、外部の権威に耳をかさないという大衆の特徴はアドルノの批判した芸術の所有化と密接に関連していることがわかる。複製技術によって芸術作品が人々の手元に近づき、そこに含まれたすぐれた資質に気付けないままでも作品を所有することができてしまう。芸術の価値が忘れられた状態で、エゴイスティックに芸術が受容されることが、結果的に凡庸なる大衆の支配を生み出す。芸術の脱アウラ化は、大衆の意識を傲慢な方向へ走らせるエンジンとなってしまうのだ。

現代においてポピュリズムが世界中で幅を利かせているのは周知のことだろう。イギリスのEU離脱、トランプ米大統領の誕生、ヨーロッパでの排外主義の広がりなど、ポピュリズムが世界規模の大きな潮流と化しており、この国でもポピュリズム的政策を掲げる党派が支持を集め、現安倍政権も排外的な政策を進めている。反エリートかつ反多元主義的で、道徳性を強調し、他者の排除の根拠として不道徳性を強調する(「怠惰なエリート」「犯罪を起こす移民」といったイメージ形成)。「真の人民」を象徴的に代表し、「我々、我々こそが人民である」「我々こそが希望である」と主張する。排他性を用いて集合体を形成するという現代のポピュリズムの特徴は、オルテガの描出したものと一致する。さらにインターネットの発達以降、オルテガが定義した大衆の排他性・忘恩性・自己中心性が世界中で加速度的に強まっている。SNSの広がりに比例するように人種差別的主張が力を持ち、理解できない文化に対して平気で否定的な評価を与える態度がネットの至る所で顔を出す。事実確認がなされないまま情報が受け取られ、社会意思を形成してしまう現象は「ポスト・トゥルース」という名付けが行われるほど一般化している。大衆は芸術どころか情報も自らの手元へ手元へと近づけている。情報=informationという言葉はinform=知らせるという動詞に由来すると言われるが、ヨーロッパにおいて何かを知らせるものは「神」であり、神の教えを伝える場所が教会であった。人々は神の言葉を得るために教会へ出向いた。情報には「礼拝的価値」があった。「アウラの消失」は、芸術に限られた話ではないのだ。二つの大戦の間に位置する1920〜30年代という時代は、アウラの消失とポピュリズムの台頭が両輪となって駆動している点において、2000年から現在に至る時代とよく似ている。私たちが大戦に挟まれた時代の思想と、その時代の「家具の音楽」に端を発する「アンビエント」という概念にこだわるのは、現代にも同じような状況が存在しているからなのだ。


5.

ベンヤミンは複製技術時代のあり方として、近代とは異なる「くつろぎ」の感性を肯定的に説いた。アドルノはベンヤミンの言うくつろぎが大衆の感性を退化させていると批判した。双方の論点には、近代と現代の相剋が複雑に絡み合っている。論点をクリアにするために、別の角度から光を当ててみよう。

音楽研究家・若尾裕は『サステナブル・ミュージック これからの接続可能な音楽のあり方』で、「音楽におけるヒューマニズム」を内包する近代西洋音楽システムが、音楽のあり方を制限する、果てには音楽を滅ぼすような否定的作用を生み出していると指摘する。「音楽におけるヒューマニズム」とは、人間の心性には世界共通のものがあり、それぞれの文化の表面的スタイルが異なっていても、素晴らしい音楽に対しては誰でも感動できる、故に音楽は言葉を超えた共通言語になり得る、という思想のことである。こうした思想を一概に全て誤りだと言い切ることはできない。実際に言語や文化の異なるもの同士は同じ音楽に心を動かされるという現象は多いにありうる。だが、確実に問題点もある。それは人間や文化の差異より共通性を重んじるあまり、文化の多様性を否定する西洋中心主義の傾向にあるということ。さらに、共通性の根拠を人間の情動に求めることが、音楽による情動の管理化とつながっているということである。現在、一般的に長調(メジャー)は明るい響き、単調(マイナー)は暗い響きと説明されるし、実際にメジャーコードとマイナーコードを聴き比べれば私たちはそこに明るい・暗いの差異を見出すだろう。だが、その明るい・暗いという印象は果たして人間そのものの感性に基づくものか。私たちが抱いた印象は、近代西洋音楽が一オクターブを12音にわける平均律とを生み出し、システム的に音楽を飼いならす過程において、人間に刷り込まれていった「管理された情動」なのではないか。少なくとも、クラシックからポップスに受け継がれる和声進行のルールは、情動の操作を可能にするツールとして使われ続け、ポップスは感動を生み出す商品として大量生産されてきた。クラシックとポップスには、高尚なものと大衆的なものという二項対立のイメージが出来上がっているが、情動操作の機能という点では同一視されるものである。こうした情動操作によって出来上がった印象を自明のものとみなすことは、一元的で排他的な態度であるにも関わらず、その排他性が意識されぬまま共有されていることが問題なのである。

こうした観点から眺めると、オルテガが1925年に発表した『芸術の非人間化』という文章は興味深く映る。オルテガは当時諸ジャンルで台頭しつつあった新芸術の特徴を「非人間的」と形容している。それまでの19世紀ロマン主義時代の芸術は感傷的な人間ドラマで人々の現実感覚と感情を刺激した。代表格がワーグナーやユゴーのような作家だ。対して、新芸術はそうした人間性の押しつけを拒絶した。ドラマで感動を起こそうとするのは隣人の喜びや苦しみが感染しやすいという人間の弱みを利用しているにすぎない。この感染は精神的なものではなくタマネギを切れば涙が出るのと同じ機械的な反射反応だ。芸術に精神性を与える為には、非人間的で非現実的かつ知的で美的な要素を持たなくてはいけない、芸術作品を芸術そのものとして客観性をもって「観照」できるような力を有しなくてはいけない。こうした意識を持っているのがドビュッシーやマラルメ、あるいはプルーストやピカソのような作家である。オルテガは以上のような定義付けを行った。ロマン主義と新芸術の区分けは、大衆娯楽芸術とハイアートという分け方とパラレルに見えて、その実は「情動の管理」への否定として立ち現れているのだ。

若尾とオルテガの論から「情動の管理」というキーワードを手にした私たちは、アドルノが新しいものを拒否する頑固な懐古的近代主義者ではなく、散漫な部分的聴取が人々から「観照」の力を奪うことに、ジャズやポップスの登場の早い段階で察知する鋭さを持った人物であったことに気付く。実際アドルノは部分的聴取を求める作曲家の起源にワーグナーを置いており、その音楽を「疎外された耳にますますロマンチックにひびくもの」と否定的に論じている。アドルノは部分的聴取が情動の管理を容易くすることを批判しているのだ。

それでは、精神集中と対極に位置するベンヤミンの「くつろぎ」は全て「情動の管理」を容易にするものとして否定されるべきだろうか。たしかに、大衆が芸術作品を自らのもとへ近づけること、「海の波のように作品をしぶきで取りかこみ、自分のなかに包みこむ」ことは作品を「所有物」とすることを意味し、作品の所有化はポピュリズムの源泉となる発想である。大衆は情動をたやすくコントロールされるようになるだろう。かといって、集中的聴取や観照の態度が、果たして複製技術以後の時代において機能するであろうか。そうした態度はアウラの復活を願うことに過ぎず、時代の変化に応答できていない。ベンヤミンは時代条件を見定めていたからこそ、芸術作品の所有と部分的聴取に注目したのではなかったか。この二つの感性を切り捨てることなく、それでいて「情動の管理」に与しない態度が求められることになる。


6.

当然私たちが注目しているのは「アンビエント」である。ここで改めて、アンビエント・ミュージックの分析へと踏み込んでいきたい。

サティの「家具の音楽」とイーノの「アンビエント」の間には50年ほどの月日が横たわっている。その間に存在する重要な作曲家がジョン・ケージである。ケージはサティからの影響を隠さず、サティが残したテクストとの疑似対話を書いているし、イーノはケージとの対談でケージからの直接的な影響の大きさについて語っている。三者に共通するのは音楽を自由に捉えようとする精神と、その自由さを実践的に表していく実験性、というより遊び心にある。だが、ケージには他の二者とは大きく異なる部分があるように思える。ケージの言葉や音楽には近代的発想を受け継ぐような精神性が見て取れるのである。イーノの要素からケージの要素を引けば、その差異からアンビエントの概念のより具体的に捉えられると私たちは考える。必要とされるのは、ケージとイーノの作品の比較である。

ケージが『4分33秒』に代表される作品を通して、全ての音を音楽として(逆に言えば全ての音楽を音として)聴く可能性を開いたことは広く知られている。その極端な態度は芸術至上主義者と芸術破壊者としての顔がひとつに重なる両義的な様相を呈している。私たちはケージの態度を読み解くのに再びベンヤミンの「アウラ」を持ち出そうと思う。それある意味古臭い作業かもしれない。アウラの消失に対する神学的逆作用として「芸術としての芸術」という概念が生じたとベンヤミンが語ることと、ケージの芸術への極端な姿勢を重ねることは、ケージを単純なイデオローグとして捉え、その可能性を閉ざすことにつながりかねないからだ。だがケージの録音物とライブ・コンサートに関する発言を目にするにつれ、アウラとの関係性は無視できないものとして顕在してくる。

ケージはレコード嫌いで知られており、レコードは「風景を台無しにしてしまう絵葉書」だと発言している。デイヴィッド・グラブスはこの発言から題名を取った『レコードは風景をだいなしにする』の中で、レコード嫌いのはずのケージが多くの作品をレコードとして残しており、その録音物が後世の音楽家に影響を及ぼしているという矛盾を指摘しつつ、ケージの聴取体験に対する複雑な態度を読み解いている。ケージは音を聴くという意識を研ぎすます集中的聴取を勧めているようでありながら、散漫な聴取前提で作られる「家具としての音楽」の父であるエリック・サティからの影響を隠さない。この集中と散漫を調停する考えは、実はライブにある。楽譜に「この曲を840回繰り返せ」と指示されているサティの『ヴェクサシオン』(「嫌がらせ」の意)をケージは本当に実演しているし、「無についてのレクチャー」で「もし眠たければ、眠ればよい」と言い放っている。こうした文章や態度を繙いていけば、ケージの聴取に対する態度はクリアになるとグラブスは考える。つまり、ケージは「家で」散漫な聴取がされるべきではない、と考えている。だとしたら、ライブと家の違いは何だろうか。もちろん、偶然を重んじたケージが何が起きるか分からないというライブの偶然性を重視していたという回答は妥当であろうし、すべての音に音楽を見出す「4分33秒」の思想家がレコードによって聞こえるはずの自然音が聞こえなくなることを嫌悪したのも十分想像できる。だが、さらに考えてみれば、家での聴取だって何が起きるか分からない。実際、録音物を聴くときだって人は驚くことができる。散漫的だろうが集中的だろうが、はじめて聴こうが繰り返し聴こうが、人は驚くことはできる。自然音とレコードからなる音楽に対しても、単純なヒエラルキーは容易には付けられない。となると、ライブと家の聴取体験の差は何だろう。それは偶然性以上に移動コストに依っているのではないか。ライブ、コンサートを聴くためには会場まで体を動かさなければいけない。しかし、家では一度録音物を手にしてしまえば、後は針を落とす、またはボタンを押すだけで音楽が聞こえる。このお手軽さをケージは否定している。お手軽さによって失われるのは、「礼拝的価値」に基づく「アウラ」である。ケージが拒絶するものは、やはり音楽からのアウラの消失ではないだろうか。


7.

ケージの音楽のあり方を捉えるためにはやはりその音楽自体にも耳を傾けなくてはいけない。ここで『Imaginary Landscape(想像上の風景)』という5作のシリーズを取り上げる理由は、まずタイトルの意味深さである。ケージの言葉に寄れば、レコードは風景を疎外するために拒絶されるものだ。となれば、逆に「風景」自体はポジティブに受け止められるものとしてある。その「風景」が「想像上」のものであるとはどういうことだろう。そして、「風景(landscape)」が「環境(Ambient)」と近接のものであることは、両者が共に主体の外にある状況を指す言葉であることからも容易に想像されるであろう。アンビエントとの比較を考察する上で格好のサンプルである。さらに、この5曲はテープ音源、あるいはラジオ音源という録音物を楽器として利用したものであることも注意に値する。

『Imaginary Landscape No.1』は1939年に初演されている。ラジオの発信音が周波数を変えながら響き続ける中、一定の間をおいてピアノとシンバルが同時に単発で鳴らされる。そこにB-C-C#-Cの四音を繰り返す弦楽器のピチカート(指での単音弾き)が時折重なる。およそ8分続くこの曲の楽器要素はこれが全てだ。

『No,2』と『No.3』は共に1942年初演、両者とも複数の、空き缶に鳴りものをいれて振ったような甲高いパーカッションが演奏要素の中心となっているが、『No.2』ではパーカッションが落ち着いたところで、突然左チャンネルからなにかが爆発したかのような大きな音が現れ、パーカッションも勢いを取り戻す。『No.3』でもパーカッションが見境なく鳴り響く中で、ラジオの発信音が重なってくる一曲だ。

『No.4』は12台のラジオだけを楽器に用いて、周波数や振幅、音量を調整しながら音を変化させる作品。『No.5』はテープ録音されたジャズのレコードのつぎはぎの組み合わせに寄って成立している。このシリーズの、音が途切れ途切れに発せられる、突然の大きな音が現れるという特徴は、聴衆にショックを与え、耳を向けさせようという意図が聞き取れる。また、録音されたテープやラジオを細切れに用いることによって、散漫に聴取される録音物が、集中的聴取が自然発生する状況を作り出す装置に変容している。『Imaginary Landscape』シリーズでは、音は「異化効果」を生むように用いられており、その効果の上で聴くべき音楽が生成される。「想像上の風景」というタイトルは、自然音を音楽として聞き取る態度を、楽器と録音物を用いた演奏の上で想像させる

試みがこのシリーズで試みられているからではないか。ケージの聴取に関する啓蒙的態度がここに聞き取れる。


8.

レコード嫌いのケージに対して、ブライアン・イーノは多数の音源を発表しており、イーノ個人名義のものと他の作家とのコラボレーションを合わせるとその数は54作に及ぶ。その多作ぶりと、ライブ会場で演奏されることを全く想定していないアンビエント作品を発表し続けていることからも、イーノが録音芸術に対して概して肯定的であることが見て取れる。

アンビエントの概念を分析するには、取り上げるべきはやはりアンビエントの定義付けを行った『Ambient 1:Music for Airports』が最も適切だろう。本作のライナーノーツにおいてイーノは二つの「環境」を分けて使っている。EnviromentとAmbientだ。金子智太郎は「ブライアン・イーノの生成音楽論における二つの「環境」」において、二つの環境をEnviroment=「外的環境」、Ambient=「内的環境」と訳しわけた。しかし、Ambientはそもそも「周囲」を意味する言葉であり、内的なものと判別するのには無理がある。私たちはここで、Ambientという語をイーノが使う時、「環境的であろうとする人為的な意図が介入する」という意が含まれていると主張する。Enviromentは、意図とは関係なく存在する環境である。たとえば、空港の中の、右往左往する人々や搭乗のアナウンスが作る環境は自然発生的に成立したものだ。対して、イーノの『Ambient 1:Music for Airports』は空港に発生した環境と音楽を融け合わせようという意図が製作過程で介入している。意図的に環境化するものがAmbientと形容されるのだ。

『Ambient 1:Music for Airports』は当時の主要音楽メディアであったレコードのA面B面にそれぞれ二曲、計四曲で構成されており、「1/1」「2/1」「1/2」「2/2」と、盤面と曲順だけを表したそっけない曲タイトルが付けられている。全体で48分の本作を、曲ごとに追いかけてみたい。

17分29秒、本作中で最長の再生時間を有する「1/1」は三種類の音、ピアノとサステイン(持続効果)の効いたシンセサイザー、そして「ポンポン」と擬音化できそうな木琴のようなキーボードの音で成り立っている。ほとんど全ての音は和音ではなく、間を長く取った分散和音(アルペジオ)として鳴らされる。それぞれの音は残響が深く、ひとつひとつの音が後で重なりあっていく。空白のスペースが十分にあるため、その重なりを明瞭に聞き取ることができるのが、この曲の特徴だろう。当然、多少のコードチェンジはあっても明快な展開変化は示されない。

「2/1」の音色はひとつだけ。女性ボーカルをミキサーで徹底的に加工した声とシンセサーザーの中間に位置する音である。ヒスノイズが含まれていることから、テープ録音された声を元素材にしていると思われる。人間の声に普通付加される揺らぎやアタック音が隠蔽された、脱人間化された中音域の厚いコーラスボイスでメロディを奏でること自体の面白さが曲の根幹に位置している。一定の音量、音色、和音構成が一曲を通して維持されているのはこちらも同様。こうした諸要素が曲の中で一定化されていることが、環境として音楽が存在しうるために必要な条件となる。

「1/2」は最初の二曲の間の子だといえる。「1/1」のピアノと「2/1」の加工声の二音色で成り立っているからだ。間を置いた分散和音なのは変わらずだが、ピアノの低音部と高音部が同時に鳴らされていることから、二本の手で引く伝統的なピアノ曲を想起させるものとなっており、本作の中で最もクラシカルな音楽からの連続性を感じさせる。クラシカルなものと、レコーディング技術で可能になった加工声とを共存させることが、本作の狙いのように思える。

最後の「2/2」は弦楽器を弓で弾いた時のような、音の出始めから少しずつ音量が増していくシンセサウンドがメインとなっている。低音部、中音部、高音部と、音色のよく似た三つの音が高低差によって分割され、それぞれがゆったりと旋律を奏でていく。ここでも、残響を多く含んだ分散和音による音の重なりが、リスナーの耳に届けられることとなる。

以上概観した通り、『Ambient 1:Music for Airports』の収録曲はそれぞれ違う音色で成立していながら、連続的な単音による音の重なりと、展開の少ない曲構成、残響音の広がりなど、いくつかの共通項で結ばれている。こうした特徴からイーノの狙いを見出すことができる。ひとつに、「家具の音楽」、つまり無視されることが前提の音楽として成り立つこと。故に、本作にはケージの『Imaginary Landscape』とは違って、過剰な主張や耳を刺激する変化が現れない。また、タイトルからもわかるように、本作は空港で鳴らされることを想定として作られているし、実際発売後に一定期間空港で使われたこともある。「空港」というキーワードから連想される、地上や日常から離れた浮遊感を、アタック音の消去や残響の深さで表現することも狙いのひとつだろう。そして、時間的、空間的に音のスペースを広くとることで、一つ一つの音色をリスナーに聞き取らせること。本作を彩る全ての音色に人為的なデザインが施されており、そのデザインされた気持ち良さや美を味わってもらうこと。生活を脅かさない慎み深さと、集中聴取したときの音の快楽、その双方を満たすように、音響の操作と音の配置を行っていくことが、本作で成された作業の中心部分である。

音色に注目させる意図とも関係しているが、本作には不協和音が存在しない。バッハ以来の平均律やダイアトニック環境にきわめて従順な音楽だといっていい。十二音技法、セリー音楽、具体音楽、そしてジョン・ケージが近代西洋音楽システムからの脱却を意図したのに比すると、このアルバムは脱するべきとみなされていた凝り固まった制度から全く離れようとしていないように思える。ここに私たちはイーノの戦略を見る。平均律に従順で、しかも非常にシンプルなこの四曲は、過度に複雑にならないのは当然として、過度なシンプルさ、一音や無音にも与しない。童謡や牧歌のような、一般的に聴かれる範囲でのシンプルさを指向している。これは幼少期にロックンロールやドゥワップに親しみ、グラムロックバンドであるロキシーミュージックのキーボーディストとしてキャリアをスタートさせたイーノの出自とも関係しているが、ポップソングから切断された実験性に音を置かないというイーノの音楽家としてのポジショニングを表している。イーノは原理的は音楽の条件を問うようなラディカルな主張を作品に込めない。ポップソングとの接点を持ちながら、心地よいサウンド・コーティングの中で、音楽の快楽の拡張を目指していく。そういう意味で、アンビエント・ミュージックは親ポップな音楽である。イーノのアンビエントの原型となった75年発表の『Discreet Music』に、多くのポップソングに参照されているパッヘルベルのカノンをコラージュした曲が収録されているのもただのイーノの気まぐれではない。イーノはポップソングのシステムを一つの環境=enviromentとして見なしているのだ。環境であるが故に、無理な抵抗は行わない。従ってかまわない制度には従い、認められないものに対しては徹底的な無視で応じるのだ。イーノはポピュラーミュージック界を一つの環境=enviromentとして捉えながら、自作曲をその世界に融け込む作為的環境=ambienceとして形成する。だが、イーノのアンビエント・ミュージックはポップソングとは異なる要素を持つ。それは暴力性の欠如だ。ポップソングは誕生に際して選択されたイーノのストラテジーである。ポップソングは情動操作に最適化された和声進行をリサイクルして、暴力的に聴く者の情動に影響を及ぼす。それに対して、イーノはダイアトニック環境には従うものの、派手な和声進行は取り入れず、分散和音を引き延ばして、暴力性を中和していく。ポップの圏内にいながら、ポップの中心的引力には引き寄せられない。ポピュラー・ミュージックの支配は時代的要請に応じるものであり、アドルノのように拒否しても意味がない。だが、部分的聴取だけが蔓延るような世界は恐ろしい。そこで、イーノは部分的聴取にも集中的聴取にも耐えうる作品を作り出した。アンビエント・ミュージックはポピュラーとシリアスの峻別、大衆とエリートの乖離、部分的聴取と集中的聴取の対立をすり抜け、ベンヤミンとアドルノの間を通っていく、狡猾なストレテジーなのである。


9.

最後に、ここまで見てきたイーノのアンビエント・ミュージックの思想を、現代における芸術との関わり方へと敷衍して考えてみたい。

今の社会を形容するにあたり、「情報の洪水」といった言葉が慣用句のように使用されるが、情報だけでなく、芸術作品も洪水化している。インターネット技術は芸術の作り手、発信者となることを容易にした。音楽や動画を簡単にアップロードできるサイトが登場し、言葉はブログの上でいくらでも他者が見られる状態で垂れ流すことができる。当然そこには価値のないものが星の数ほど含まれるだろうが、優れた作品も山のように眠っており、才能ある作家が発見される機会は以前に比べ格段に増加した。しかし、優れた作品があまりに増えすぎてしまい、私たちに許された限りある時間ではとてもカヴァーできる量ではなくなってしまった。もちろん全てをカヴァーする必要などないが、それでも素晴らしい作品の山を前にして、途方もない無力感に襲われる感覚は、おそらく現代の芸術鑑賞者が必ず体験するものだろう。作り手の立場から見れば、事態はもっと深刻かもしれない。すでに数えきれないほどの作品が世界に蓄積されている中で、新たな作品を生み出すことは果たして意味があるのだろうかという疑問が常につきまとうことになるし、しかも供給過多である分、芸術作品の作り手として経済的に自立することが激しく困難な時代である。だが、誰も芸術を作らなくなれば、文化は死に絶えてしまうだろし、人類の存立すら危ぶまれる。

こうした窒息寸前の閉塞感の中で、アンビエントの発想は酸素を送りこむための気道を与えてくれるかもしれない。アンビエント・ミュージックを聴くように、芸術作品を鑑賞するならば、部分的鑑賞も集中的鑑賞も許される。それらを全て「興味深いが無視できる」ものとして考えれば、世界にあふれる芸術作品の洪水に呑まれることなく、楽しみを得ながら、より広い意味をくみ上げることもできる。作り手は自らの作品を「アンビエント」と認識すること、つまり「興味深いが無視できる」ものとして捉えることで、作品の存在証明を問うことから解放され、積極的に製作に取り組むことが可能になる。これは決して作品のクオリティをなおざりにすることを意味しない。興味深く接する受け手が、良いものを見出せるように作家は努めるべきだろうし、そうした受け手の存在が作家の助けにもなるだろう。

あるいは、アンビエントの思想が今の社会で生きていくことそれ自体に役立つ可能性もある。この世界に与えられた環境=enviromentを無理に拒否することも、過度に適合することもなく、この環境に沿った存在として自らを作り上げる、つまり自らをアンビエント化すること。生きていく上での規範が不透明な時代が今だとするばらば、アンビエントの思想は私たちが倫理的方向性を見出すためのヒントとなるかもしれない。


参考文献

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参考ホームページ(全て2017年9月30日最終アクセス)

Music for Airports liner notes(http://music.hyperreal.org/artists/brian_eno/MFA-txt.html)

pitchfork”The 50 Best Ambient Albums of All Time”(https://pitchfork.com/features/lists-and-guides/9948-the-50-best-ambient-albums-of-all-time/?page=1)

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