モノを見る人と写真を見る人の“pile”− 松元康明の2つのシリーズをめぐって

 松元康明は、高校卒業後にツアーコンダクターになることを志してアメリカに留学した。卒業間近になって必要単位が足りないことに気がつき、ヨガか写真の授業かの履修という選択に直面し、後者を選んだことで写真の道に進むことになったという。その後、サンフランシスコ・アート・インスティテュートの写真学科に再入学し、リンダ・コナー(Linda Conner)に師事して写真家としての道をあゆみ始めることとなる。

 30代からIPAインターナショナル・フォトアワードのプロフェッショナル・ファインアート部門金賞を受賞(2013年)するなど、国際的な評価をいくつも得てきた。インターネットで師のコナーを検索すると代表作をいくつか見ることができるが、松元の確かなプリント技術をはじめ、随所にコナーの正統的な弟子であるということが垣間みえよう。

 現在は東京に拠点を置き、ルーニィ247ファインアーツでは4度目の個展となる。今回の展覧会は「existence」と「piles」の2つのシリーズからなり、松元自身は「写真というメディアを使った創作で僕がテーマにしていることは、”不可視を可視化する”ということです。それぞれのプロジェクトでその“目に見えない何か”は異なりますが、今回展示するふたつのシリーズでは、“長い時間”というものが関わっています」(本展DM)と述べている。
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 「existance」は、いわゆるアンティークといわれるさまざまなモチーフと向き合った作品である。深い漆黒の中に鍵やブリキの容器、マニュスクリプト(手書きの書簡など)、動物の頭骨などを8×10インチの大型カメラで丹念に写し取ったものである。僕も含め、アンティーク好きならば写っているものたち一つひとつが愛おしく、親近感を覚えるものばかりだ。

 僕がギャラリーを訪れたのは台風の日で、ひどい雨で客足もまばらだったので、ルーニィの杉守加奈子さんの案内で展示作品とオリジナルプリントをじっくりと見る機会に恵まれた。杉守とふたりでプリントを見ていると、単にモチーフたちの愛おしさや松元のそれを集める収集癖以上の世界観にどんどんと引き込まれていく。その世界観をいちばんよく伝えているのは、彼のピントワークだろう。こういった作品は、往々にして全面にピントがあったものが多い。ところが、松元の作品は必ずしも全面にピントの合った即物的な作風ではなく、ボケを駆使しながら作者自身の視線の感覚を重視している。

    たとえば、フランスで手に入れたとおぼしき直筆書簡。ピントが合っているのは中央の部分だけで、そこをつまみ読んだだけでも、「それで! あなたはわたしを愛していて、わたしもあなたを愛しています、そう!/わたしはあなたのことをすごくすごく愛していて、それはとても幸せなことで、ほとんど恐怖です」と書かれている。
 当の松元はフランス語はまったくわからないそうで、この手紙に日付は書いてあるのに年記がないところに惹かれたという。それでもこの部分は手紙全体のハイライトに間違いないだろうし、松元はおのずとレンズ越しにそこにはっきりと目を向けている。これを書いたのは男性だろうか、女性だろうか? 松元のいうように年記はないけれど、どれくらい古いものだろうか? いろいろな疑問が、自然と見る者と被写体のあいだに物語を増幅させていく。

 マニュスクリプトをモチーフにしたもうひとつの作品は、まったく手がかりがない。杉守はイタリア語を、僕はフランス語をまがりなりにも解している。しかし、どちらでもない。もちろん、英語でも。なんとなく発音したシラブル的にはスペイン語で、体裁としてはどうもメニューかなにかのようだ。しかし、手紙にしろ、メニュー(であるとして)にしろ、なぜそんなものが数十年あるいは100年を超える時を経て残っているのだろう。

 それは、モノを写した作品でも同じである。円柱形の箱を写した一枚がある。「A. BERTEIL」という店の名前、住所、電話番号を書いたラベルが貼ってあるが、正確になんなのはかわからない。ほかにもカメラらしき金属製のモチーフや、ワルツ用のレコード針のパッケージもある。これらが写真に撮られてプリントされると、もはやモチーフの実際のサイズもわからない。それは、すべてが写真の中でモチーフが一定の大きさに変換されることで、モノが本来もっていた役割の固有性を剥ぎ取って記号的な等価性を生み出していると言い換えることもできよう。
 写真になってしまえば、円柱形の箱は帽子を入れる箱だったのかもしれないし、あるいは飴の箱だったのかもしれない。カメラらしきなにかは大型のカメラかもしれないし、置物なのかもしれない。松元は周到にそのヒントを取り除いて、見るものの視点を被写体そのものへと向けようとする。なにかを語りたげなモノたちのことばを代弁するのではなく、それらがかつてなんであったかを説明するでもなく、語るにふさわしい舞台のみを用意してやっているかのように。

 オークション会社・サザビーズのディレクターのフィリップ・フックは、著書『サザビーズで朝食を(Breakfast at Sotheby’s)』(2014年/翻訳版:フィルムアート社、2016年)の中で、有名な絵画について語っている。その中で、有名なイメージがそう認識されていく過程の要素の一つとして、来歴をあげている。
 すなわち、その絵画がかつて誰のものであったのかや、(もっとも有名な絵画「モナ・リザ」のように)盗難事件があったといった、物質がもっているストーリーだ。これは、絵画というモノがその美だけで有名になってきたのではないことの裏返しでもあろう。
 そう考えれば、モノが時の地層に埋もれるにつれて蓄積していくのは、物語ということもできそうだ。これこそが、松元が“長い時間”の中からすくい上げて可視化したい部分にほかならない。「存在(existance)」、それはモノの迫力ではなく、長く生きながらえてきた中でそれぞれがもちえてきた生きざま=物語なのである。

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 松元は元来、じっくりと時間をかけてモノに向き合い、制作活動はあまり外に向かうタイプでもない。しかし、コロナ禍が始まって、最初は横浜に停泊している豪華客船の中の出来事のように思われていたこの災禍は、すぐに人々の心に巣食うできごとに発展した。元来アトリエに籠ってモノに向き合っている松元にとってもそれは大きな心の染みとなり、モノに向き合えなくなっていく。
 今までフィールドに出て制作活動をしていた写真家たちは次第に内に籠らざるを得なくなったのに対し、松元は反対に外に向かっていくことになる。その成果が、「piles」のシリーズだ。

 ここで重要になってきたのが、このシリーズに使われているウェット・コロジオン・プロセス(湿板写真法)である。湿板写真は19世紀中頃から後半にかけてスタンダードに使用されていたプロセスで、いまや古典技法になったそれを、松元は10年近く前から手がけていた。この技術は習得が難しく、しかも「いまなぜ湿板写真なのか」という理由づけがなければただのマニアックな行為とも見なされかねない。実際、その命題に理由を見出せずに苦悩していた時期もあったようだ。
 この技法は支持体にガラスを用い、そこに薬品を塗布してフィルムにあたる感光材料を自製する。さらにやっかいなのは、「ウェット」という技法名の由来どおり、これが湿っているうちに撮影から現像までを行わなくてはならない。つまり、重たい機材(ここでも松元は8×10インチカメラを用いる)や支持体にするガラスに加え、暗室になる空間や現像薬品まで用意して撮影現場に向かわなくてはいけないのだ。

 だが、コロナ禍を契機に制作が外に向いて行った松元にとっては、むしろこの技法が重要な意味を与えているように思う。自宅近郊の森に行きその森を撮影するのだが、人影のまったくない深い森は、コロナウィルスとは無縁の清浄で神聖な景色に見える。まるで、「風の谷のナウシカ」の腐海の下層部のように。撮影をしてアトリエに持ち帰って現像するのではなく、すべてはこの清らかな森の中で完結されるのである。さらに、松元は撮影した森の枯葉や土を採取して帰る。

 この清らかな森で生成されたネガから、引き伸ばして20×24インチのプリントを制作し、それらは10センチ角に裁断される(一枚のプリントはちょうど30枚に分けられる)。それらは森で採取した土や枯葉、コーヒーなど松元がその日に飲んだものとを混ぜた液体に浸け込まれる。
 「piles」とは「層」という意味だが、ここでその意味は土や葉、印画紙との層であり、作者本人の経験の層を可視化するという“層の層”を生み出している。興味深いのは、先にもふれたように湿板写真は習得が難しく、習熟度はもちろんのこと気温や湿度に仕上がりが左右されることが多い。ふたたび20×24インチの30ピースの断片から復元した写真を見ていると、明らかに松元が次第に技法のコントロールに長けてきていることがわかる。こうした経験の層も可視化されていて、「piles」はより複層的な意味をもつ。

 さらに面白いのは、その清らかな森の断片、あるいは層の断片を1ピース単位で購入できることだ。断片は断片のまま誰かのもとに行って、新たな誰かの空間や時間の一部になる。もしかすれば、浸け込みのプロセスの影響で、これらの写真は飾っているうちに色調や画像濃度が変質するかもしれない。いや、むしろ僕ならば変質していくことを望む。それは、“長い時間”が写真になって完結しているのではなく、まだ続いていることの証拠なのだから。

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 この2つの、一見するとまったく別物のシリーズからなにが見えてくるのだろうか。思うにそれは、松元が時間を生き物として捉えているということだ。「写真は一瞬を永遠にする」というありふれた考え方にしろ、ロラン・バルトが『明るい部屋』のなかで写真のノエマ(本質)を明らかにしようと試みた時に使った有名なことば「それは-かつて-あった」にしろ、それは写真が過ぎ去りし死んだ時間を扱うメディウムであることを宿命づけられているかのように聞こえる。けれども、松元の写真を見ていると思う。写真になっても、時間は生き続けるのだ、と。

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