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渦(うず)

 今この時にも誰それの都合など、お構いなしに病原体は「進化」を続け、あたかも宿命かのように私たちを混沌の渦に巻き込む。私ももれなく渦中にあったが昨年は退職と移住、2つの大きなライフイベントを同時に迎えた。

 大学を卒業後、地元関西の市役所職員として就職したが2年と2か月で退職した。辞める時には身も心もすり減らしていたのは紛れもなかったが、ずっと私を無意識に縛ってきた強迫観念が和らぎはじめるほころびには、心に響くものがあった。就職先は小さな2町の合併で生まれた、人口2万人をやっと超える規模の市であるため、財源に余裕はない。さらに合併時の覚書では当時、両町の住民に公共サービスの質を下げないことを公約した。その後何か有効な次の一手が打たれることはなく、人口は増えず少子高齢化は進んだため、歳入は自ずと下がった。はじめから無理に近かった約束を反故にしないため、公務員に係るあらゆるコストは徹底的に削られた。そのため役所内の個々人によって、自発的に働き方を変える余力はもうほとんど無かった。

 新元号が発表された4月1日は、午前に組織についての簡素な説明を受け、午後からは所属する上司に連れられ配属先に着任した。配属先は高齢者福祉を担当する部署であり、終業時刻後の課内会議で早速私は介護保険の担当に命じられた。同時に研修やOJTも無いまま、現場で見様見真似で仕事を覚える日々が始まった。業務の抜け漏れを防ぐようなマニュアルの類を探したが、残念ながらまとまったものは無かった。上司からその都度指導を受けながら、過去の決裁を参考に毎日増加する行政の仕事に追われる日々が始まった。ちなみに私の前任は上司本人であり、昇進直後で担当歴は1年未満であった。さらにその前任は同部署の担当歴が長い、育休中の女性職員であった。おそらく私は職員の育休による欠員補充のため、この部署に配属されたのであろう。

 もちろん私にも同期が10数人はいた、だが一年経たずに2人退職した。別自治体の公務員試験に受かり転職した者もいれば、業務量を調整されたが病休のまま退職した者もいた。私がその事実を知るのは、2人が最後に出勤してしばらく経った後であった。時間外労働の上限を超え、算定されない残業を要する私の仕事は、本来正規職員2人で分け合う業務量であった。実務経験もそこそこの新卒1年目が、仕事を滞りなくこなすには無理があった。誰かに仕事を振ろうにも人員不足が顕著な部署であったため、最年少の新人が周りの繁忙度合いを察し、相手の機嫌を損ねない意思疎通は、当時の私にとって極めてハードルの高いオペレーションに思えた。

 その翌年には新型コロナウイルスの二次感染が国内で明らかとなり、「ウィズコロナ」の日々が始まった。感染者数増加の一途をたどるにつれ、介護保険業務も新型コロナウイルス関連の問い合わせが個人法人問わず殺到した。病原体の蔓延は、私の業務にさらなる影響を及ぼした。所属部署の重要な業務を担っていたベテラン職員の休職および退職が続出したのだ。当時彼らは自らの業務を効率よくさばき、比較的定時で帰っていた。彼らに見倣おうと私も業務改善に四苦八苦していたので、正直ショックであった。休職する職員の担当業務は、現存の面子で分担することになった。その余波が私にも及び、引継もされていない属人化を極めた業務の解析作業が始まった。

 部署は違うが福祉部門担当の同期たちも、各々の現場で感染拡大の対応に多忙を極めていた。時々コピー室や給湯室で偶然居合わせた際は、わずかな時間だがお互いの仕事について相談し励ましあった。その同期たちも就職して丸2年を迎える頃には、ある者は病休し、その後離れた施設担当に異動、またある者はここよりも比較的処遇が良いであろう市区町村へ転職する運びとなった。1年目からストレスチェックに該当の私は面接指導を受け、担当医師からは役所に対し就業上の措置を講じるよう、二度に渡り文書にて意見を述べていただくも、結局改善に至る措置は行われなかった。私と人事担当課と産業医、そして上司を交えた面談を行ったが、議論は平行線に終わった。どうあろうとも人員補充はできないとのことだった。

 コロナ禍という文言がすっかり浸透した頃、大分に一人暮らす高齢の祖母は大病を患い、親族が近くで見守る必要が出てきた。家族で何回も相談した結果、私は退職し家族全員による大分への移住を決めた。退職を申し出た後は引継に追われる日々が始まり、何とか後任の方に担当業務の引継を行った。公務員を辞めるなんて、と職場の様々な方方から引き止めを受けたが翻心する気持ちは一切なかった。夏に大分に引っ越し、失業保険を受けながら転職先を探したものの、地方の求人は数も少ないが業種も職種も限られる。有形無形および個人法人問わず一切の営業・マーケティング経験が無い元公務員はスキルなしとみなされ、中途採用の門戸もなかなか開いてはくれない。一応公務員試験も受けたが、最終選考で残念ながら採用には至らなかった。

 そんな状況だったが、公務員の「スキル」は生活の思わぬ場面で、身を救けてくれた。いわゆるお役所仕事を熟知してしまった私にとって、例えば失業保険の給付申請で手続きに困る場面は一度も無かった。他にも周知はされていないが、実は退職理由によっては自己都合退職であっても、住民税減免申請が可能である。行政特有のプロトコルを知っていたおかげで、初見の手続きに過度なストレスは感じなかった。

 移住が必要以上に悲観的でなかったのは、幼い頃に抱いた宇宙への夢が、夢で終わらないチャンスが偶然にも近づいてきたからでもあった。県北東部の国東半島に位置する大分空港が早ければ2022年に「宇宙港」となる計画が進んでいる。ロケットの打ち上げと聞くと、大概は発射台から垂直方向に打ち上げる「垂直型」を想像されるだろう。大分空港では、母船のジャンボジェット機に人工衛星を搭載したロケットを上空から射出する「水平型」で打ち上げる。地方空港ながら、宇宙船が離着陸できる3000m級の滑走路を持ち、海に面することや周辺に自動車や精密機械などの産業が集積することから、米国の宇宙企業2社が宇宙港に選定し県とパートナーシップを結んだ。

 このように宇宙港計画が進むなかで、大分からも宇宙産業を生み出す必要があり、県は大学生や企業など広く県民を対象に宇宙ビジネスの連続セミナーを開き、未だ宇宙に関心を寄せていた文系かつ無職の私もセミナーに参加した。最終回には衛星データを利用した事業アイデアの公開プレゼンテーションを開催し、最優秀賞のグループには事業化に向けたサポートを受けられるとのことであった。全部で5つのグループが参加し、衛星データを用いた農業や観光、不動産活用などのアイデアが発表される中、私のグループは地元離れした人向けに墓地を衛星から観測し、清掃や代理参拝を包括提供する異色のサービスを提案し、最優秀賞を受賞した。無論すぐにローンチできるわけではないが、一方でやりたいことに挑戦できる環境が今この時以上に整う保証もない。

 飛行機は前進すると翼の周りに渦が生じ、上向きの力が翼に生まれることで浮き上がる。一度は渦に飲み込まれた私だが、今度は自分から前に進んで渦を生み出し、再び上昇していけそうだ。

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