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余白。

あの時さって、話をした。シガー・ロスが来日すると聞いてから、シガー・ロスのCDを初めて手にした夜の話をしたし、同級生に勧められて視聴したアーティストに馴染めなくて寂しかった話もした。音楽に疎い方だから、この話にあまり続きはないのだけど、2つとも場所に強く結びついた記憶で、夜のTSUTAYA。最近、学生の時に通った場所が壊されて新しくなっていくのを思い浮かべて、TSUTAYAだっていつか、と思ったら、少しだけ寂しくなって。いや、とはいえ、まだ大丈夫だろうと、恐る恐る調べたら、閉業の2文字が並んでた。

サークルや部活のボックス棟と呼ばれる部室のような場所は、大概古い校舎のような場所を充てがわれていて、床は木製。壁には全共闘時代のビラやペンキの文字が並んで、僕らはコンクリートブロックで積み上げた階段を使って、窓から部屋に入った。大学構内は余白そのものだけれど、ボックス棟は余白の成れの果てだった。全共闘時代の落書きに、崩れた土壁と、その奥に見える下地の木組、アルバイト募集の貼り紙、ギシギシと音を立てる木の床と、ぽっかりと開けられた窓枠。だけどそんなボックス棟も4回生の時に壊されることになって、悲しくて写真を撮りながら、壊される様を記録した。余白はいつだって、すぐに何かに取って変わられてしまうものだった。余白は「余白だ」と叫び続けないと、何もないかのように塗りつぶされてしまう。

夜のTSUTAYAも、余白のような空間だった。余白から、余白ではない、完成されたものへ触れようとする空間だった。何かを選ぼうとする時間。指先の向こうに触れようとする時間。まだ、夜は深く、朝は遠く、選択肢は幾つもあった。そんな余白が好きだった。余白の中で、完成されたものを、安全な距離から眺めることが好きだった。

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