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とも動物病院の日常と加納円の非日常

東京大空襲<転> 7



  パラシュート降下で地面に降り立つときの衝撃は、大体5フィート(約4.6メートル)位の高さから飛び降りるのと同等と習った。

レノックス少佐は暗闇の中で身構える暇も無く地上に落着した。

それは降下と言うよりは落下であったし、着地と言うよりは地面への激突だった。

5フィートといえば軒よりも低い高さである。

それでもレノックス少佐の実感としては、あの夏に実家の屋根から転げ落ちた時よりも遥かに酷い痛撃であるように思えた。


 「なんだな、スキッパー。

東京ってのは北風は強いし酷く寒いところだな。

・・・まいったな。

身体じゅうが痛いよ」

レノックス少佐はスキッパーの頭を撫でながら途方にくれて少し笑いを洩らした。

「右手良し。

左手良し。

右足良し。

左足・・・痛いな。

頭部、体幹に損傷なし。

体内に深部痛も認められず」

レノックス少佐は空元気でも出るかと声に出して自己診断を行ってみた。

しかしそれで痛みが和らぐでもなかった。

これからどうしたものかと上半身を起こした後しばし途方に暮れてから、まずはパラシュートを外した。

それでも何も思いつかなかったのでレノックス少佐はポケットを探り、ラッキーストライク取り出して火をつけた。

強い風のせいでジッポーの炎が揺れ、少佐の顔に斑の影が掛かった。


 『おいおい真っ先にやるのは喫煙かい』

スキッパーは少佐のお気楽ぶりに呆れた。

周囲の情勢も分からぬ敵地に降下したと言うのにレノックス少佐は阿呆なのか?

火を使うことで敵の注意を惹くばかりでなく、余計な臭気まで発するなど言語道断だろう。

『こいつはサバイバルマニュアル一つ満足に読んでいないのか』

呆れついでにため息が出た。

 欧州戦線では防寒の為ボマージャケットを着ていた。

今身に着けているジャンプスーツと違ってあれはあれで大層暖かなアイテムだったな。

スキッパーの心配をよそに、妙にドイツ上空が懐かしくなって深く煙を吸い込んだレノックス少佐だった。

たばこの先がボウッと赤く輝き、ニコチンが血中に流れ込んで頭が少しクラッとした。

スキッパーは暗闇でときおり震える様に光度を増すタバコの火を横目で見ながら鼻頭に皺を寄せた。

『近くに狙撃兵でもいたら今頃あんたの頭は吹き飛んでるぜ』

スキッパーはスキッパーでこれまた少しズレたことを考えていた。

 水稲を作るフィールドだろうか。

冬の事とて作物の植わっていない広々とした農耕地に沿って未舗装の道路が続いていた。

道路は車両の通行もあるのだろう。

轍の跡は霜が降りては溶けてを繰り返したせいか冷たい凹凸ができていた。

スキッパーの肉球にとってはありがたくない路面状態だった。

 レノックス少佐は道路を挟んで農耕地の北側に広がる森を背にして足を投げ出していた。

北風を少しでも避けようと身体の半分以上は藪の中に入れていた。

道路の左右への見通しは利かなかったが正面の視界は開けていた。

レノックス少佐は、ブリーフィングのスライドで見た水田の事を思い出しながら、昼間見える景色を想像していた。

丸めたパラシュートをクッション代わりにした。

それでも冬の地べたの冷たさは容赦なく尻に伝わり、北風と相まって少佐の体温を確実に奪っていった。

 「なあ、スキッパー。

どうやら俺たちは世界中の人間から忘れられちまったみたいだぜ。

クルーの連中は皆無事に降下出来たろうか。

あいつらはまとめて飛び降りたからお互いを見つけ易いだろうがな。

最後に跳んだニックから俺が脱出するまでたっぷり3分はかかっちまった。

・・・連中からの距離は10マイル(約16キロメートル)じゃ効かないな」

めずらしく嫌がりもせず、大人しく抱かれているスキッパーの温もりと日向臭い体臭が懐かしかった。

その懐かしさだけが、ともすれば不安に押し潰されそうになるレノックス少佐のよすがとなっていた。

 スキッパーも初めの内は、この落下傘降下を難儀なことになったと考えていた。

それでもスキッパーは、人目を盗んでこっそり読んだ新聞や付き合いのあったホモサピ同士が交わす会話から、日本の敗戦は近いと踏んでいた。

有難いことに自分はホモサピではない。

カニファミとしてこの状況を俯瞰してみれば、レノックス少佐と比べて余程先行きを楽観的に考えることができた。

なんとなれば、日本が戦争に負ければ当然占領軍=アメリカ軍が押し寄せて来るだろう。

当面生身で敵と対峙しなければならない少佐やクルー達の身の上はそれなりに心配だった。

けれどもスキッパー単独でサバイバルを敢行するのならどうだろう。

知性と教養に溢れるカニファミ一匹の身である。

終戦までの半年や一年位、何をどうしたって生き延びる自信はあった。

最悪しばらくこの地で生きていかねばならぬ事態と成ったら成ったで、手はいくらでもある。

今までもそうしてきたように、新しい環境に適応すれば良いだけのことだ。

元々語学は大の得意だった。

スキッパーとしてはニホンの言葉さえ覚えてしまえば、市井に紛れて何とかなるだろうことも分かっていた。

野犬と間違えられるようなへまをしさえしなければ、ホモサピの同情と歓心を買うことなど造作も無い事だった。

スキッパーは飼い主に対する忠誠心などこれっぽっちも持ち合わせない、身も蓋も無い犬だった。

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