空海がなぜ凄いのか

自分は空海が好きだ。
空海マニアと言っても遜色ないかもしれない。

空海が鎮座している高野山はもちろんのこと、
彼が中国留学時に修行していた、西安の青龍寺には2回行っているし、中国から帰った後に暫く滞在していた太宰府の観世音寺やその時期に建立したと言われている東長寺にも訪れている。彼が別当(職務を担当)をしていた東大寺にも行ったことがある。

宗教的に傾倒している訳ではない。彼がやってきた業績、考え方に興味が止まらない。

自分の仕事柄、中国から日本に優れた情報や技術を持ってくることで、日本社会に貢献した人に凄く興味がある。特に、古代日本から戦国時代くらいまでは、中華の情報や技術は恭敬の対象であり、古くは聖徳太子に始まり、それを持ち込める人は、常にその時代の核として存在した。

そういった人達の中で、自分は空海が一番すごいと思っている。その理由は、空海が情報と技術を最もレバレッジをかけて持ってきた人だからだ。

空海が生きた時代、それは平安時代になるわけだが、当時の中国は世界の超先進国で日本人にとっても羨望の眼差しで眺める国だった。


その国の仏教というのは、現代でいうといわば
「グローバルスタンダード」
空海はその仏教の更に先端思想である「密教」を中国から持ち帰ったのが最大の功績と言われている。


多くの伝説を残している空海だが、
実はエリートな出自ではなく大学も中退している。滑り込みで遣唐使に選ばれ、当時の世界最大の都市である長安に渡る。


長安にて密教の大師である恵果より、千人以上の弟子の中から後継者として指名されその全てをわずかな期間で学び、本来20年の留学期をたった2年で帰国。

帰国の際に空海は唐の経典を200巻以上も持ち帰った。経典とはいわば、指南書であり教えの全てが書かれたモノだ。この数は果てしなく多く、唐で活躍も合わさり途唐するまで無名だった僧侶への朝廷からの評価を一変させるには充分なものだった。


空海は当時最先端の思想である密教だけでなく、土木建築技術,薬学,詩文等といった最先端のテクノロジーや科学、教養迄持ち帰っている。

例えば、土木建築技術。
具体的には灌漑技術であり、灌漑技術というのは、平たく言えば、池をつくる技術である。当時、天候不良などによって慢性的な食糧不足に喘いでいた、日本にとって、計画的に水を確保する為の灌漑事業は、国の命運を左右するものであった。空海は、有名な満濃池だけでなく、日本中の数多の池でも、携わった形跡があるという、伝説が残っているのだ。


他にも様々な領域で数多の伝説がある空海。なぜここまでの偉業を成し遂げられたのか。きっとそれは、彼がお金と組織で、情報と技術の伝達フローに、レバレッジをかけたからだ。と自分はそう思っている。


なぜそう思うかというと、たった2年の中国留学で、そんな莫大な情報を1人で持ち帰ることは、非現実的だからだ。

彼がやったことはきっとこうだ。
①20年の修業を2年に短縮したことで自己資金を拡大。
②資金を元手に、当時隆盛を極めた青龍寺で修行権利の獲得。
③資金を元手に、寺で経典や資料を大量印刷し、日本に持ち帰る。


①20年の修業を2年に短縮したことで自己資金を拡大。

空海は本来20年かけるべき中国修行をたった2年で習得して、日本で帰ってきたと言われている。20年かかる修業を2年で習得出来たから、帰ってきたのではなくて、20年分の資金を2年で使い切るために、時間を圧縮したのだと思う。


②資金を元手に、当時隆盛を極めた青龍寺で修行権利の獲得。

時間を圧縮した理由はきっとこれだ。密教の総本山で修業し、習得する為には膨大な資金が必要だったからだ。その費用を捻出する為に、20年分の資金を、ここぞとばかりにぶっこんだのではないか。

ちなみに、そもそも一介の修行僧でしかなかった、空海が20年分の留学費用をどうやって工面したのかは、謎に包まれている。知人の助けを借りたという説もあるし、実は若いときから貿易事業をやっていたのではないか、という都市伝説的な話もある。ただ、中国に行く前から中国語が流暢だったことを考えると、あながち見過ごせない説でもある。


③資金を元手に、寺で経典や資料を大量印刷し、日本に持ち帰る。

そもそも、昔はお寺というのは、印刷機関でもあることがあった。お抱えの坊主に、経典を大量に書き写させて、経典のコピーをつくるという仕組みだ。そう、写経である。

空海が短期間に、大量の情報を持ってこれたのは、大量に複製したからだ。青龍寺の密教の原本だけでなく、多くの最先端の情報や技術を、大量の坊主を雇い、大量に写経させることで、情報ソースを増やしたのだ。


時間を圧縮することで、資金を拡張し、
実績と権威のある情報ソースを獲得し
お金と組織力で情報を複製した。

今風にいうと、ファイナンスとマネジメントによってレバレッジをかけたのだ。


日本に帰国後は、当時の天皇である、嵯峨天皇に気に入られ、天皇の援助を受ける形で、高野山を建立するに至る。


空海は唯一、天皇と対等以上に渡り合った人ともいえなくはないし。彼自身は、権威と情報を武器に、場合によっては、対等以上の面持ちであったのではないかと思わされる。見方によっては、ふてぶてしさを持っているともいえる、空海に人間らしい魅力を感じざるをえないのだ。



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