才能、努力、環境。

上記の今年の東大試験の国語の試験が一部で話題だ。


超要約をすると、「学歴や社会的な成功は、本人の努力ではなくて、遺伝的要因や環境的な要因といった、外的な要因に大きく依存する。」という内容だ。

以前読んだ、橘さんのこの本でも似たようなことが書いてあった。

アフリカ系の人たちが、オリンピックの陸上競技でメダルを独占するのは、遺伝的な要因であると、多くの人が感覚的に納得出来るのに、知能面において、人種的な遺伝性がないと考えるのがそもそもおかしい。

といった、内容が書いてあり、科学的なエビデンスも列挙され、なんだか納得させられてしまった。


教育の環境格差が子供の学歴に影響を与えているという事実は、既に多く論じられている。優れた教育環境を与えられるかは、親の経済状況と教育に対するリテラシーに依存する。

本来、平等性を担保させる為に存在すべき受験というシステムが、子供が生まれた環境によって決まってしまう。場合によっては、生まれ持った遺伝によって決まってしまう。

東大の試験内容と橘さんの書籍は、概ねそんな内容を述べている。


自分を振り返ってみても、思い当たる節はある。

どれだけ一生懸命にやっても全然上手くいかないようなこともあった。逆に、たいして頑張っているつもりでもないのに、周りより上手に出来てしまうこともあった。

「努力家だね」と、周りに言われることが結構多い。
たしかに、目標を達成する為なら、懲りずに淡々と同じことを長期に続けることが出来る。自分としても、「努力」している認識はあるし、頑張っている自分が誇らしく思うことも正直ある。

でも、もしかした、そういった「日々頑張れる」ということさえも、先天的に持ち得たことなのだろうか。または、恵まれた環境が、自分をそうしてくれたのだろうか。


学生時代は比較的自由に習い事をさせてくれたし、野球は12年もやらせてくれた。自分が馬鹿だから有名なトコではないけれど、大学まで行くことが出来、大学卒業までの学費も出してくれた。兄弟3人共、私立大学を出ている。

社会に出てから、自分が恵まれていたことを知った。
個人事業が不安定で、バイトで食いつないでいた時期があった。バイト先での劣悪な環境には、様々なバックグランドの人たちがいた。

消費者金融を借りすぎて首が回らない人、60歳を超えているのに年金では足りず肉体労働をし続けないといけない人、昔の一時的なグレーな経歴の為に、その後も危険な仕事をし続けないと生きてこれなかった人。

自分と彼らを分け隔てるモノはどこにあるのだろうかと、よく考えさせられた。その境界線は極めてあやふやなものだ。

自分は、ただ単に、まだ若かったから。大卒だから。最低限の教養があったから。大学時代の人脈があったから。境界線の向こう側の人達は、決して不真面目な訳でもなく、何も努力をしていない訳でもなかった。

そういう様を、目の前で見たことで、自分は恵まれていたのだと思うことが出来た。確かに、自分は一生懸命頑張ってきた。でも、それは周りの方々が、用意してくれた環境の中での努力であったからこそ、なのだろう。


拡張する資本主義、固定化する格差。
こういった社会の歪や矛盾そのものを正せるような、大きな力が残念ながら、今の自分にはない。

歴史を見ると、それは戦争や自然災害であったり、カリスマが主導する革命によって、抜本的な変化というのはもたらせてきた。

成熟した現代においては、そのような難易度はきっと高まっているのだろう。


個人の努力が、社会を大きく変えることは、きっと簡単なことではないのだろう。


でも、それでもやはり、
自分は日々の努力を諦めないし、それによって、自分自身の目の前の現実は必ず変えられると信じているし、それが、家族や友人などの、大事なコミュニティにも、よき影響を与えられると信じている。

そして、その積み重ねが、世界をいくらか良きものに出来ると信じている。


自分の環境に深く感謝して、明日もまた小さな一歩を着実に積み重ねたいと思う。




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