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『危機の時代の精神医療  変革の思想と実践』

『危機の時代の精神医療』(日本評論社 2022/9/26刊行)の「あとがき」です。このコロナ・パニックの中で思った、現代社会と科学の関係の歪みについてかきました。

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あとがき
 
おお、やつらは、どいつも、こいつも、まよなかの街よりくらい、やつらをのせたこの氷塊が、たちまち、さけびもなくわれ、深潭のうへをしづかに辷りはじめるのを、すこしも気づかずにゐた。
                   金子光晴 「おつとせい」より
 
 すこしも気づかずにいる。時代の危機を。社会の危機を。人間の危機を。人々は、よるべない不安を権威と国家にすがりついてやりすごし、自分たちと違う者を、自分らに反対する者を、この危機に気づき警鐘を鳴らそうとする者を、異端として排除する。
 愚かな大衆、という話ではない。『大衆の叛逆』というオルテガの前世紀はじめの著作は、大衆社会の愚かさを描いた書物のように誤解されている。しかし、オルテガがほんとうに言いたかったことは、知識人、科学者、専門家、そしてそれらを組織して理性的な国家運営を行うべき政治家、官僚たちが、精神の貴族性を放擲して衆愚と化してしまったという20世紀初頭の世界への批判である。オルテガの批判は、世紀を越えて、戦争と全体主義が回帰するこの新しい時代にこそふさわしい。
 コロナ・パンデミックは、世界中で、専門家を自称・他称する者たちが、それぞれに自分たちの専門性こそが正しいと、その正しさの検証を専門家間で行うことなく、大衆に直接に主張しあっている。ある者は専門の狭い窓からすべてを理解していると大衆を脅して言いなりにさせ、ある者は自ら理解していないことを理解しないまま「啓蒙」に奔走し、ある者は自らの見解を隠し通して大勢にまぎれて過ごしている。専門家集団が麻痺し機能しなくなっているのだ。私たちは、同じことを、10年前、原発事故で経験してきたはずだ。
 
 広大無辺な自然の一部を切り取り、実験室に持ち込んで「自然を苛む」(F.ベーコン)ようにして得る「真理」によって、世界は理解できる。このような近代自然科学の思想と実践は、中世の魔術的世界の中から近代を沸騰させ、現代社会に人類未曾有の発展をもたらした。だが、もともと自然の一部から搾り取った科学的「真理」をいくら寄せ集めても、社会と人間の全体は再構成できない。
 科学の驚異的な進歩発展によっ、私たちの社会は制御できないまでに膨んだ。科学と技術の結合が可能にした現代のグローバリゼーションは、その時間と空間の極度の短縮によって、みずからの母胎である科学自体の視界をはるかに越えるところまで行ってしまった。原子力の解放はそのさきがけであった。原子力も、気象も、経済も、そして現代科学の粋を集めた戦争も、そして今、パンデミックとその影響を被った世界経済も、通常科学では把握できない規模と複雑性、偶然性をもっている。

 それらにもまして、人間の精神こそは、脳の生物学的機能に還元しようとすればするほど、それをはみだすものをそのつど生み出してしまう、複雑性に満ちた<巨大な微小世界>である。医学は、通常科学だけによっては理解しえないそのような現実の上に成り立っている。精神医学は、なおさらである。さらに、医療は、人間それぞれの実存的生と、その複雑な関係性からなる社会という、医学という知に包み込み得ないところにある実践だ。

 現代という時代の危機は、自らの膨張によって暴走する社会を制御する思想と実践を、この社会がいまだに持てていないことである。私たちは、全体を見通すには微力すぎる科学に縛られ、私たちの社会はそれに歪められている。それに抵抗しながら切り拓いていくべき思想と実践は、私たちが現に生きている複雑性と関係性、そして偶然性に対して開かれたものとなるはずだ。
 

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