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酒と本の日々:國分功一郎、アガンベンを語る

【アガンベン、再見;國分功一郎『目的への抵抗』(新潮新書;2023)】

2020年5月、『現代思想』でアガンベンを読んでしまったことが、その後の3年間の僕の振るまいを決定してしまった。同書の他の思想家、ジジェクもナンシーも、当時確かに未知のものであった感染症に脅えてそれまでの自分たちの思想を放棄してしまうほど老いて衰弱しているように感じたのだ。

だがアガンベンの問題提起は惨憺たる反感と批判を浴び、ついには無視されてしまった。そしてこの日本でも、本来なら社会が号令ひとつで一斉に同じ方向に動き、人々が互いに監視し、また監視されることを肯定するような状況でこそ声を挙げるべき人文科学の徒たちがまったく見当たらないことに、僕はずっと日本にアガンベンよ出でよとつぶやき続けてきた。

そこでほんの少数の、たとえば磯野真穂、美馬達哉、大澤真幸などが主に「生権力」の観点から声を挙げているのをみつけたが、そのような発言はほんとうに情けないほど少数であった。その中で、國分功一郎が千葉雅也との対談で自分がアガンベンを評価しながらそれをコロナ禍の最中に言えなかったことを自省している言葉をみつけ、この人の発言を待ってきた。その國分が2020年10月時点でアガンベンの問題提起を高校生相手の講義で行っているのだが、その記録がようやく書籍になった。この時点で、高校生相手にアガンベンを講義できて、それに高校生が真剣に応答していることは救いを感じる。

(しかし、その彼らも3年の間、波に呑まれてしまって声を挙げられないできた)

アガンベンの問題提起は、「コロナ禍は「例外状態」を常態化するために強大な行政権力によって利用されている」ということである。例外状態の社会では、人は「生存のみに価値を置く」生き方しか選択できなくなる。そして、コロナ禍では埋葬の禁忌から施設での老人と家族の面会禁止に至る、死者や老人をなかったかのように扱う社会が実現する。そして剥き出しの生を生きる人々はそこから脱出するための「移動の自由」を奪われる。

日本だけでなく、世界の政治はこの三点を無視し、そのような例外社会の中でプラットホーム企業による監視資本主義だけが拡大していった。これは、我々が生存を守ることだけに汲々とするうちに、後戻りができないところまで行くのではないか。なぜならコロナ禍以前から、肥大した行政権力はセキュリティを楯にそのような方向に進もうとしていたのだから。そして行政権力の一方的な肥大は、かつてナチズムへの道を敷いたものだ。

アガンベンのこのような問いは、コロナ禍が世界のほとんどで終わった中、そこから遅々として抜け出せないでいる日本にとって、とても重要なことだと思うのだ。

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