7月の幽霊たち ~「ブラザー軒」によせて

文月は7月になると無性に聴きたくなる唄がある。
高田渡の「ブラザー軒」。
詩は菅原克己(宮城県生まれ、1911-1988)。
仙台青葉区の一番町「ブラザー軒」は実在の店で、太宰治の「惜別」に出てくる。行ってみたいと思いながらも機会のないまま、2015年に閉店してしまった。

七夕の夜に「僕」が店でかき氷を食べていると、死んだ父親と妹が入ってきて二人で氷を食べる。二人には声がなく、二人には僕が見えないまま、二人はキラキラと氷の粒が七夕の星のように輝き、サクサクと氷が静かに囓られる音だけがする世界をスッと通り過ぎて、もう今はない家に帰っていく。

詩を全編書き写すとこうだ。

ブラザー軒
                  菅原克己
東一番丁、
ブラザー軒。
硝子簾がキラキラ波うち、
あたりいちめん氷を噛む音。
死んだおやじが入って来る。
死んだ妹をつれて
氷水喰べに、
ぼくのわきへ。
色あせたメリンスの着物。
おできいっぱいつけた妹。
ミルクセーキの音に、
びっくりしながら
細い脛だして
椅子にずり上る。
外は濃藍色のたなばたの夜。
肥ったおやじは
小さい妹をながめ、
満足気に氷を噛み、
ひげを拭く。
妹は匙ですくう
白い氷のかけら。
ぼくも噛む
白い氷のかけら。
ふたりには声がない。
ふたりにはぼくが見えない。
おやじはひげを拭く。
妹は氷をこぼす。
簾はキラキラ、
風鈴の音、
あたりいちめん氷を噛む音。
死者ふたり、
つれだって帰る、
ぼくの前を。
小さい妹がさきに立ち、
おやじはゆったりと。
東一番丁、
ブラザー軒。
たなばたの夜。
キラキラ波うつ
硝子簾の向うの闇に。
(詩集『日の底』より)

死んだおやじと死んだ妹は、連れだって歩いている幽霊なので、死んだのも一緒の時なのだろうとわかる。この詩集が刊行されたのは1958年、僕が1歳の時で、世間はまだ戦争の傷跡がそこかしこに疼きながらも、生き残った人々は仕事の終わりに氷を食べに馴染みの店に寄ることが許されるほどの生活を取り戻し、世間は一気に高度成長へと離陸する直前であった。
その動きが激しくなる現実のほんのつかのまの、休息のひとときに、戦争でふたりともに、もしかしたらふたり並んで寝ていながら死んだ、その父と妹が現れるのだ。

ここは仙台の七夕の夜、仙台では七夕祭りは旧暦にあわせて8月に行われるが、この詩に祭りの賑やかさはないので、おそらく7月7日のことでよいのだろう、1945年7月7日、この地はまだ平和で、7月1日の熊本空襲から、災禍がどれほど迅速に北上してくるものかを庶民である父も妹も知らないでいる。
仙台が空襲を受けたのは10日の未明。「ブラザー軒」のある東一番町一帯を中心として仙台市は一面の焼け野原となった。

詩の中のブラザー軒は、現実にあったその店の外観を越えて、焼け野原の中に硝子簾をかけてそこだけ別世界のように氷の光と音だけがある区切られた夢の世界だ。
その世界ですれ違う、死者と生者の声のない会話。
ふと現実に戻ると、生者たちが復興にかまけるかまびすしいばかりの音、行き交う怒声とダンプカーの轟音。それが一転して、爆撃飛行団の爆音と焼夷弾や高性能爆弾の降る音、炸裂音に変わる。無声映画のスクリーンの向こうから、音波の不安定なラジオから鳴るように聞こえる、現実の音たち。
そんな音のない世界の音が、氷を噛む音や硝子簾の鳴る音に混じって聞こえてくるような、静かな抑えた高田渡の名唱だと思う。

詩人の菅原克己は、戦前から社会主義運動に加わり投獄も経験している。戦前戦中、詩の発表は許されず、1951年にようやく詩人としてデビューする。ずっと共産党員であったが、1962年に党の方針を批判して除名されている。どのような事情だったのかは知らないが、その数年後には中野重治なども離党しており、60年安保闘争の余波に日本の政治が激動していた時代であった。
この詩がもつ、あの戦争の中で声をあげることもなく、静かに死んでいった人々に対する激しいまでの哀惜と、正義を言挙げせずにはおれない政治の頑なさが、この詩人の中で相容れなかったのかもしれない。
https://www.youtube.com/watch?v=dArOtb5V4Nc

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