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千々石ミゲルと高山右近          

 1543年に3人のポルトガル人が種子島に上陸してから1639年の「鎖国令」に至る日本の100年は、西欧と日本の第一次遭遇の時代、キリスト教をめぐる「バテレンの世紀」である。

 高山右近と千々石ミゲルの二人は、この100年をほぼ同時代人として生き、かたやキリシタン大名として信仰を守り通し、かたや日本人としてはじめてローマ教皇に謁見しながら後に棄教するという対照的な人生を送った。ともに享年63歳という。

 西欧と日本の遭遇というと1853年のペリー来航の印象のためであろう、強硬な西欧に慌てふためく日本という構図を考えがちだが、バテレンの世紀の遭遇は両者は対等であり、前者は布教、後者には通商という利益の交換であった。しかし高山の領地は畿内であり通商の妙はなく、右近の父は純粋に教義に触れて入信している。戦国時代は一休のような禅僧にはこの世の虚しさを実見して仏法の真実を悟るものであったが、下克上を生き抜く大名にとってはその支えとなる教理を仏法は授けてはくれない。過酷な現実を生き延びるために生まれた一神教に、戦乱を生き抜く支えを見いだしたのも不思議ではなかろう。

 新しいものへの好奇心が強く思考も当時の武将の中ではずばぬけてグローバルであった信長も秀吉も、南蛮の風俗と文化を好んだ。安土桃山の絢爛豪華な文化もその影響があるであろう。信長も秀吉もキリスト教を現実の利益のあるものとして受入れ、多くのキリシタンを家臣としてはべらせたが、教義への関心はなく、きまぐれに手なづけ、虫の居所に応じて弾圧した。

 高山右近は畿内で信長、秀吉の身近にあって、キリシタンである立場をうまく利用して勢力を伸ばした。信長の死後秀吉の信認を得てキリスト教の布教にのりだした右近は、日本の神仏をことごとく悪魔呼ばわりする宣教師たちの扇動に応じて領内の寺社仏閣を次々と破壊した。キリシタンと宣教師による社寺仏閣の破壊は、徹底的な焼き払いは言うに及ばず、仏像を叩き割り、石塔を掘り倒して階段の踏み石に使うなど、多文化蔑視で傍若無人きわまる〝野蛮な行為〟に及んだ。このようなキリスト教のもつ破壊的行為が、当時天正遣欧使節として渡欧から帰国した千々石ミゲルの目に入り棄教に結びつき、ひいては家康による禁教に至る。家康による過酷で徹底した禁教は、当の宣教師たちの目にも「国家理性の発動」(ホッブス)と正当に認識されていたが、そのような理性も布教の絶対的正義の前ではなきに等しかった。むしろ立ちふさがる国家理性にこそ教義が勝利せねばならなかったのである。

 右近とその一族、何人かの宣教師たちは家康の弾圧下にマニラに脱出したが、右近はその洋上に病を得て、マニラ到着後間もなく死亡した。おりしも当時、他の宣教師らが避難したマカオはイエズス会士たちの退廃、堕落ぶりが激しく、日本人に対する風当たりが強く、これまでの日本での日本人司祭を育成するという布教方針は捨てられた。最後まで信仰を守り亡命した信者らの前途は、教会自身の手によって閉ざされたのである。

 天正遣欧使節は当時日本におけるイエズス会の代表であったヴァリニャーノが帰国の際に思いつきで準備された。アジアでは支配階級への布教に失敗したイエズス会が、日本での成果を母国に知らしめるために日本の優秀なキリシタン武将の子息を教皇に謁見させて日本布教の成果を誇示するための渡航であったが、あまりにも急なしつらえのため、選ばれた4人が日本の上流階級であるというには無理があった。それでも、4少年のいわば日本の当時の中流階級のもつ礼節のある上品な振る舞いは、当時のローマでは大評判となり、グレゴリオ歴で有名なグレゴリオ一三世を感動で涙させたという。

 だがこの教皇も当時の特権に腐敗した教皇たちの例にもれず、この少年たちを教皇の前まで先導した騎兵頭は教皇の甥という名目で、実は教皇の実子である。イエズス会としてはどうしても少年たちには見せたくない側面ではあるが、このようなウワサも聡明な少年たちの耳に入っていたではあろう。

 4人が帰国したのは信長の死後、秀吉と日本のキリシタン、宣教師が協力しあったり反目したりで日本でのキリスト教が勢力を伸ばしながらも不安定となりはじめた頃であった。しかし、その不安定さは西欧との交易により利をなしたキリシタン大名が多い九州には及んでおらず、4人はイエズス会に入会をはたす。しかし、他の3人が最後まで信仰を守ったのに対して、千々石ミゲルは10年後に会を抜けている。そのために、ミゲルの評価は裏切り者、背教者であり、今に及んでも「鬼の子・ミゲル」と呼ばれている。

 だが、ようやく近年になってミゲルの脱会にいたる軌跡がおぼろげながらにたどられて、その内面の劇が注目されつつある。きっかけになったと思われるのは、遣欧の頃から後ろ盾となっていた神父が自らの利益のためにインド福王に対して有馬晴信に頼んで日本人奴隷を進呈した事件を、おそらく有馬領にいた彼が目撃したであろうことである。実は、天正遣欧使節の少年たちは、ローマへの旅の途中に売られていく日本人奴隷を目撃している。これはその奴隷を教化するという良い面があるという理屈で少年たちは言いくるめられたようであるが、その時の記憶が蘇ったであろう。フロイス「日本紀」の伝えるところでは、秀吉もポルトガル人による日本人奴隷売買に激高している。

 同時に当時はイエズス会と他の会派の対立が激しくなり、教団内に陰謀がうずまき、それと同時に奴隷売買にかかわった神父にみられるような道義的退廃が目立ち始めていた。また日本の在来文化に対する破壊行為も、禁教が激しくなるのと軌を一にして激しくなり、日本での布教の行き詰まりにしびれを切らしたイエズス会の日本の武力行使による征服という布教の下に隠された牙が露わになりつつあった。そのような状況に悩んだ末のイエズス会脱会だったのではないか。だが、ミゲルがその後信仰を捨てたり、他の棄教者のように幕府の側の弾圧に積極的に関与したという形跡はない。それでも、どういうわけかミゲルはキリスト教会からは蛇蝎のごとく嫌われ、現在でも生まれ故郷でのその顕彰に対してはキリスト教会から批判が起こっている。

 高山右近は、2016年、教皇フランシスコによって「地位を捨てて信仰を貫いた殉教者である」として、福者に認定され、2017年教皇代理として来日した枢機卿によって大阪城ホールで列福式が行われた。

 同じ2017年、千々石ミゲルの墓の発掘調査で、ローマ法王から与えられたとするロザリオと思われる装飾品を首にかけた遺体が発見された。その後の調査で、遺体は女性でミゲルの妻である可能性があるとされる。しかし当時の風俗を考えれば、ミゲルが棄教していたのに妻が信仰を守り続けていたというのは考えにくく、やはりミゲルはイエズス会を脱会したものの信仰は捨てていなかったのではないかと思われる。

 フロイス研究家の松田毅一が現在の上皇夫妻にスペイン史を講義し天正遣欧使節に話題が及んだ際、美智子妃殿下(当時)が「信仰を全うして殉教した人たちよりも、千々石ミゲルのほうが苦しみ悩み抜いたのではないでしょうか」と言ったということが、松田の著書に記されている。おそらくはじめて民間から一国民であることを捨てて皇室に嫁ぎ、強大な皇室という組織から数々のいやがらせや圧迫を受けてきた美智子妃は、当時のカトリック教団という組織に忠誠を誓い続けた他の三人よりも、千々石ミゲルの苦悩がありありと想像できたのだろう。

 信仰という道に入って異教の文化を破壊しつくすというその組織がもつ現世での数々の強権に同化することで権力との関係を保った高山右近よりも、名もない出自から教団の気まぐれによって遙かローマに赴いて教皇と謁見しながら、その教団の建前と本音の激しい落差に煩悶できた千々石ミゲルという人物の、おそらくその時代には類い希だったはずの個と世界に対する感覚の鋭敏さに驚嘆する。

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4人は帰国後、聚楽第に赴き、秀吉の前で次の曲を演奏したといわれている。(1591年3月3日)

*ジョスカン・デ・プレ (Josquin des Pres)作曲 『千々の悲しみ』”Mille regrets”

https://www.youtube.com/watch?v=8WuQ0FFo8xA

(参考文献)

渡辺京二「バテレンの世紀」(新潮社2017)

大石一久「天正遣欧使節 千々石ミゲル 鬼の子と呼ばれた男」(長崎文献社2015)

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