精神医療と暴力

医療観察法になぜ反対か

こんにちは。高木です。
お招きいただきましてありがとうございます。最初この学会からオファーがあった時、「なぜ私だろう?」と思いました。なぜかと言うと、私は医療観察法にずっと反対の立場でした。今ではうちのクリニックは医療観察法の指定通院医療機関になっていますし。診療所としては数少ないクロザピンの使える診療所なのですが、何人かの患者さんが実際に医療観察法処遇になり、その入院先の医療観察法の病院にも何度も行って、患者さんが退院して来たのを再度受け入れています。でも、やはり今でも反対なのです。ですからこの学会で私は吊し上げられるのだろうかと思ったのです。(笑)そう思うと、「やってやろうじゃないか」と思うのが習性(くせ)なので、引き受けてしまいました。
 今日のテーマではないのですが、簡単にお話ししておきますと、医療観察法に私が反対している理由は次のようなものです。まず、未来予測が不可能であるということです。そのために本当はもう暴力をふるわない人を暴力をふるうかもしれないとして拘禁してしまう危険性が非常に高いのです。拘禁してしまったらもう検証ができないのです。実際にはこの未来予測がどのくらいはずれるのかということは、医療観察法以前にちゃんと証明されています。
 それから、治療反応性というものも予測不可能なのです。医療観察法は治療ができる人を扱うということになっていますが、今現在、入院が長期化する中で、治療反応性なしということで長期間全く外出もできずに閉じ込められていた方が、いきなり医療観察法の適応ではないということで退院させられてしまうということがどんどん増えています。これからもどんどん増えると思うのです。
 最後に、法環境が整備されていないということもあって、その人の人生や生活の文脈から切り離してしまう。この三つが、私が今も反対している論点です。
 しかしこの医療観察法が始まって十何年経つあいだに、どんどん世論の方は、「暴力をふるったような患者はずっと閉じ込めておくべきだ」「こんなことをするから精神障害者はこわい」というような方向に行っています。ですから医療観察法にのって来るケースは些細なことを含めて多くなって来ますし、今後は恐らく対象者自体が広げられて来ると思います。
 ですから私は医療観察法病棟というのは、これから大変なことになって来ることはありさえすれ、良くなって行くことはないだろう―根本的な問題が解決できないままなので良くなって来ることはないだろうと思っています。
と、最初にみなさんを挑発しておきます。(笑)

 さて、本題です。精神医療と暴力の話を私としては初めて真正面から話してみたいと思います。それは最近も拘束の問題などについて、いろいろな論争が高まって来ていることもあります。ですからこの学会に呼ばれたことを機に、少し暴力の問題についてみなさんと一緒に考えることができたらと思います。

暴力の実態 拘束批判に対する反論の実態

 まず拘束ということから始めたいのですが、拘束というのも患者さんから見たら暴力のひとつなのです。NHKの『クローズアップ現代』、『バリバラ〜障害者情報バラエティー〜』とか(『バリバラ』は私も先日壇蜜さんと一緒に出ましたが、壇蜜さんは私の方ばかり見ていました、と思います。2019年5月9日放送「幻覚さんに恋をして」)『ハートネットTV』とかで拘束に対する批判をやっていますね。『クローズアップ現代』(2019年9月11日放送「身近な病院でも!なぜ減らない“身体拘束”」)は、精神科ではなくて一般病院でのお年寄りの拘束を扱っていました。ネットも一緒に見ていた方はご存知かと思いますが、ネットが大炎上しました。「こんな拘束批判はおかしい!」「拘束批判をする者は何を知ってるんだ!」「NHKはやっぱりマスゴミだ!」みたいなことがどんどん出て来ます。今でもそれはNHKのその番組のところで見ることができます。
 精神科の拘束が今、一日一万人ということで、すごく増えている中で、拘束に反対するいろいろな市民の会など、長谷川利夫さん(杏林大学 保健学部 精神障害作業療法学 https://synodos.jp/society/21408)が、自分が拘束されているところをバンと出した写真で集会を呼びかけたのを、私がネットで広めたのです。そうしたらそれに対しても、ものすごい反論がありました。こういう精神医療の現実を一般市民の方に知って欲しいと書きましたら、専門家が市民に知らせないといけないのはそんなことではないでしょうという反論がものすごい数で来たのです。私の記事のコメントが炎上しました。
 そういうものを見渡してみて、我々医療従事者、福祉従事者が、隔離拘束はいけないという発言や報道に対してどのような反論をしているかということを、いくつかにまとめてみました。
一つ目は対象者の問題、二つ目は自分たちの問題、そして三つ目は第三者の問題、この三つにまとめてみました。

 一つ目はたとえばどういうことかと言うと、「点滴が必要な患者さん、点滴をしないと命を落とす患者さんを抑制しないでどうするのか」「抑制はいらないという医療者は、医療者の責任を全うしていない」。これは何となくもっともに聞こえる話です。
 それから二番目の自分たちの問題というのは、「職員、スタッフ、我々の安全をどうしてくれるのか」。これが今日のテーマにいちばん関係することだと思います。
 三番目の第三者に関する反論というのは報道姿勢に関することが中心で、「オマエらは理想論ばかり言う」「マスコミも理想論ばかり言って現実を見ていない」というもの。それがもう少し具体的になりますと、「自分たちはマンパワー不足の中で頑張っているのだ。それなのに自分たちをバカにするようなことを言うな。自分たちが悪いことをしているようなことを言うな」となります。

 だいたいこの三つです。まず三つ目について、「自分たちをバカにするな。本当は努力しているんだ。理想論を言うな」というコメント。これへの反論は簡単です。理想論を言うなということは、言っている人が理想を知っているということです。自分たちが本当に現場で努力していると言うのであれば、その努力の先にある理想を知っているはずなのです。にもかかわらず批判された時には、それはただの理想だと非難する。これは、自分たちが現場で努力している、一生懸命やっているというのは言っているだけで、本当は現場でただ巻き込まれて、あがいて、もがいて、怒っているだけなのです。現場でどんどん溜まってくる自分たちの不満と怒りを、理想的なことを言う人、これからの目標を言う人、自分たちのことをおかしい批判するマスコミに対して向けているだけなのです。マンパワーが不足しているから今の自分たちの問題点があるのだということを、本当は自分たちがいちばんよく知っているのです。
 そういうふうに相手を理想主義だとする批判の仕方、自分たちは現実主義だから正しいのだという議論に対しては、昔、有名な丸山眞男さんという政治学者が、日本のいろいろな政治論争について、現実主義の陥穽—現実はこうだからこれでいいのだという考え方がいかにおかしいかということを言っています。丸山によれば、私たちが「現実」と捉えているものは、今自分の目の前にある既成事実だけをピックアップしたものである。ピックアップして見ているもの以外―自分が関わっていない多様な現実というものは無視している。しかも自分たちが選択した意見だと思っているが、実は外部の別の力、権力とか世論とかですね、がその選択の方向を決めていることを自覚できないのだというふうに言っています。これで「理想論ばかり言って現実を見ていない」という批判者への批判を終わりです。

 最初の議論については、たとえばこのようなコメントがありました。自分は急性期病棟の仕事に命をかけている。みんな頑張っている中で、抑制をしなかったために前途のある若い看護師さんが大けがをして看護師を続けられなくなってしまった。抑制さえしていればそういうことは起こらなかったのだ。しかも抑制をしないならば看護者たちはその患者につききりになるから、他の患者に最良の医療ができないだろう。あなたがもしその病棟にいる患者の家族だとして、自分の家族が世話を受けておらず、抑制が必要な人の世話ばかりしていたら、それでも抑制をしないでとちゃんと言えますか?そして患者さんの対応以外にもたくさんの仕事があって、それを時間内に済ませなければいけない現実の状況を理解しろというような意見をいただきました。
これはかなりもっともなことのように思えます。けれども「点滴をしなければいけない」患者さんについて言えば、治療法は点滴しかないのでしょうか。もっと分析して、代替の治療を考える余裕は必要でしょう。そしてどうしても抑制をしなければいけないのであれば、「残念ながら今の我々の力では抑制しないといけないけれども、その後の治療には責任を持ちますから。申し訳ありません」という態度になるはずなのです。
中井久夫さんという精神科医は、1970年代にすでに、患者さんを保護室に入れる時には患者さんと患者さんの家族にまで、「今はやむを得ずこうするしかないけれども、必ず治療に責任を持ちますので、このようなことをする非礼をお許しください」と言っていたということです。
看護師さんが大けがをしたということについても同じです。もっと先にその時の患者さんの状況、治療の状況、そしてその看護師の状況などについて、どこにどう非があったのかということを分析することが、まず治療であり、今後の事故の防止です。抑制しないからこうなったというのは、あまりにも短絡的です。これがさもやむを得ないことのように言うというのは、マスコミの理想論はけしからんというのとほぼ一緒です。ですからこのような意見に対する反論も同じように考えればいいのです。
一番目と三番目に対する批判から見えて来るものは、拘束批判をするのは現場を知らないけしからん話だという炎上の実態は、今自分がはまっている目の前の現実のシステムについて、マンパワー不足で大変な状況であるといういう被害者意識と、自分たちは拘束という正しい選択肢をきちんとやっているのだという情報独占と特権意識です。この被害者意識と特権意識が混じり合っているのが、私たち医療者が、拘束はいけない、隔離はいけないと言われた時にする反論の実態だと思います。

精神医療と暴力
 次に職員の安全をどう守るかということです。これもやはり切実な問題だと思います。今日ここに来ているみなさんもその問題に向き合っているのだと言えます。ただこのことはもう少し広い文脈の中で考えないといけないと思うのです。精神医療の中で暴力はどのような状況で生じるのか。精神医療という場所の中で起こる暴力というのはどのような性質のものなのか。そういうことを考えなければいけないと思います。
 精神医療における暴力というものをいくつかに分類すると、まず患者さんから患者さんへの暴力があります。次に患者さんから職員への暴力があります。それから職員から患者さんへの暴力があります。そして職員から職員への暴力があります。職員から職員へと言うと「え?」と思うかもしれませんが簡単に言えば職員間のヒエラルキーからくるパワハラなどのことです。今日はこれに触れる時間がありません。
 これらの問題について考えて行く前に、自分たちが現場で遭遇する暴力について考えるにあたって、もう少し精神医療と暴力の歴史というものを考えます。
 精神医療における暴力について考えると、まず一番初めにみなさんの頭に浮かぶのは、精神病状態における患者の暴力ですね。これに対しては、私は殆どが本来は理解可能で対処可能なものだろうと思っております。
 患者さんが精神医療という自分ではどうにもならない現場に置かれた時、まず感じるのは暴力的な気持ちではなく、無力感ですね。怒りによる暴力が来るのはその次です。暴力はやはり怒りよりも先に恐怖、不安から生じます。それは病院という場所に対する恐怖でもあるし、治療に対する恐怖でもあるし、自分が今体験しているこの病的体験への恐怖でもあります。ですからまず殆どはそういう患者さんの内面に生じている恐怖への対応として考えていかねばならないし、それは可能であろうと思うのです。
 もうひとつ暴力で問題になるのは、人格障害とか、衝動制御障害とか呼ばれている人によるものがあります。ただこれについては保留が必要です。なぜならこれは精神医学にとって何ら決定した事実ではないからです。そういういわゆる精神病ではない、理性の中で振るわれるような暴力を精神医療の対象にするのかということの是非が、まず議論されなければいけないところだと思います。ところがDSMとかそういう診断基準は、そういう行為をすべて精神医療の対象として取り入れようという方向にあります。これは本来医療の問題でしょうか。今の停滞し閉塞し、現実社会に暴力が蔓延していく兆候のある世界では、暴力をすべて精神病理的に捉えて、法律の問題から病気の問題に移そうという動きがあります。この問題の先鋒になったのが医療観察法だと私は思うのですが、そこの説明は今日のテーマではありません。簡単に言えば、世の中での困りごとを精神医療に一手に引き受けさせようとしているのです。
 社会環境の暴力の中の大きいものには、差別が生む暴力があります。この差別が生む暴力というのは、たとえ精神症状に彩られていようと、やはり社会での不当な扱いに対する怒りです。不当に自分が排除されていることに対する怒りです。もしかしたら孤独に対する怒りとも言えるかもしれません。
 社会の規範が緩むことによる暴力もあると思います。今、世界の政治はそのようになっています。政治家が政治家らしいきちんとした発言を理性で行うことをせずに、自分の気分で行なって、戦争という国家の最大の暴力機能を自分たちの思うように使おうとしています。そういう社会規範がなくなった状態をアノミーと言うのですが、このアノミーの状態による暴力が現代の暴力の特徴です。
 規範がなくなってしまった暴力、そのひとつに、今医療の現場で問題になっているモンスターペイシェントというものもあると思います。自分たちは医療というサービスに対する客なのだという一方的な思い込みが暴力につながっているわけです。しかもそれを暴力で解決しようとしている。個人自身が今の社会の暴力にさらされて来た人、DVの問題にさらされてきた人、貧困にさらされて来た人たちが暴力的な解決を求めます。そういう人が今度は医療に対して暴力をふるっているのです。暴力が社会から医療に向けられている状態が、社会規範が生んでいる暴力だろうと思います。そういう環境による暴力が、精神医療と暴力の関係のひとつにあります。
 そして次に精神医療自体が生む暴力というものがあると、私は思っています。精神病院への強制的な収容というものが人を暴力的にするのではないだろうか。精神の病気というものは身体の病気と違って、自分の一部を客観的に差し出すことができません。精神病になって治療を受けるということは、治療者に自分自身をすべて差し出すということなのです。ですから精神病の治療を受けるということはものすごく怖いことなのです。病識がないのは当たり前です。
 さらに、一方的に支配的な立場、権威を持った治療者に対する対抗暴力があります。そして今の医療システム自体が暴力を生み出しやすい状況になっているということがあると思います。あとで詳しく述べることができたらと思っていますが、精神科救急システムがそうだと思うのです。それが「治療と戦う患者」をいっぱい作っているのです。
 これらのことについてあまりに抽象的だと、まだ自分たちがやっていることへの批判を上から聞かされるのかと思われるかもしれませんので、今日は本邦初公開になりますが、私の暴力史というのをやります。

私の暴力史
私がいかに暴力をふるって来たかということを、あるいは暴力の現場に身を置いて来たかということを話させていただきます。
 私が精神科医になったのは1983年です。これはものすごく意味のある年なのですが、日本がバブルに突入して行くほんの少し前の年に、私は研修医になりました。その頃は医局講座制というものが今よりも強くて、いったん医局に入ったら教授の言うことを絶対に聞かなければいけなかったのです。どこそこへ行きなさいということで、研修医というのはどんどんいろいろなところに回されていたのです。ところが京大病院の精神科だけは、学生運動の名残で教授を追い出して、教室の自主運営というのをやっていました。その風潮にひかれて精神科医になったのです。
 京大の精神科というところは非常に特殊なところで、教授を追い出していただけではなく、戦前からの病棟がそのまま残っている、しかも戦前からの患者さんが入院しているようなところでした。古い戦前からの患者さんと毎日散歩していればいいようなところでした。精神科の病棟は鴨川のそばにあって、広くて、庭がゆったりとしていて、毎日そこを朝から夕方まで患者さんとブラブラ散歩して過ごしていればよかった時代でした。実は新患の入院というのも殆どなかったのです。というのは、看護者が「暴れる患者さんは入れないでください」「病気がよくなってから入院させてください」と堂々と言っていたからです。
 その看護者さんたちは本当に古い定年間近の人たちばかりだったのです。精神科勤務には「危険手当」というものがついていました。その危険手当が目当てで、それと非常に楽な夜勤が目当てで、古い看護師さんたちが集まって居座っているというような病棟でした。そういう病棟でしたので、新しい患者さんもいないわけです。そんな中で私は「精神科ってええな」と思っていたのですが、実は後で知ったのは、そういう環境に精神科が置かれていたこと—広い土地が与えられて、しかも鴨川という大きな川のすぐそばなのには理由がありました。河原にあったのは呼吸器科と皮膚科と精神科でした。結核とハンセン病と精神病です。この三つを本院から離して、川のそばで穢れをとって行くという縁起のために、全部川のそばにあったのです。

 そういうことは後で知るのですが、牧歌的な生活を楽しんでいた時に起こったのが「宇都宮病院事件」でした。これは1983年に起こり、1984年に問題化しました。みなさんご存知でしょうか。「宇都宮病院事件」というのは、宇都宮病院という700床もある大きな精神病院(そこは「関東医療刑務所」と呼ばれていたのですが)で、院長が患者を回診の時にステッキで殴って歩いていたのです。そして看護者の暴力により保護室で患者さんが亡くなったのです。そういうことが発覚して、日本の精神医療の劣悪さが世界中に知られてしまいました。これをきっかけに、それまでの精神衛生法という患者の強制入院に特化したような法律が、精神保健法という強制入院のためには医師免許以外に国の資格を持った医者が行わなければならないという法律ができています。
 このことは、患者さんと散歩しながら牧歌的な生活を送っていた私にとってすごくショックなことでした。こちらも対抗暴力的に、学会がこういうものを許していていいのかということで、ゲバ棒を持って学会に行って、檀上を占拠しました。そして檀上で「君たちはこの状況を黙ってほっといていいのかっ!」と三分間ほどしゃべるともう話すことがなくなってすごすごと降りて行くのですが。そういうことをしゃべった手前、これは自分も何かしなくてはいけないと考え、京大病院を離れて、大阪の光愛病院に行きました。1984年です。当時、関西では、いわくら病院、光愛病院、浅香山病院、中宮病院、このあたりが開放化を推進している病院として有名でした。人権を守ろうという病院でした。
 そういう病院でちゃんと勉強して、精神医療の改革に励むぞ!と若い私は思ったのです。それで光愛病院に行きました。行って一日目にその意気込みはズタズタにされました。行って案内されたのが急性期病棟なのです。医者がいないのだからすぐにここの病棟をやってくれと言われて、一年間遊んで暮らしていた研修医がいきなり急性期病棟を持つことになります。行って案内されたその日のうちに、ひとりの患者さんが椅子を振り上げて看護ステーションに突入してきて、屈強な男性看護師に押さえられて隔離室に入れられました。その時の仰天は今も忘れられませんが、病棟での生活に対するどのような不満、怒りがその患者さんにあったのでしょうか。
 急性期病棟なのに畳部屋です。大部屋で、当時は超過入院が当たり前でした。今でこそ精神科は90%とか80%とかの病床利用率になってしまいましたが、なんと病床利用率120%です。新しい患者さんが入院すると、「詰めて、詰めて」とやるのです。それでも詰まり切らないと、「あいつは廊下でも寝れるからだいじょうぶや」と、患者さんを廊下で寝かせる。内実はそういう病院でした。しかしその病院も全国ではマシな方だと言うのです。確かに他の病院をいくつか知ってみると、ここはマシでした。
 そういう病院で働き始めて、急性期病棟の雑居の中で、私は暴力が荒れ狂う日々の中で過ごします。当直したらやること、それは患者さん同士の喧嘩の傷を縫うことなのです。それまで傷を縫ったことなんてなかったのですが、ここの当直で縫合の仕方を看護師さんに側で教えてもらいながら覚えていきます。まさに野戦病院です。
 喧嘩は簡単なことで起こるのです。雑居病棟ですから、プライバシーも何もありません。ちょっと歩けば枕を踏んづけます。「キサマ、オレの枕踏んだだろう!」ちょっと物がなくなれば(これは被害妄想ではなくて、実際に物がなくなることが殆どなのです)「オマエ、オレのあれを取っただろう!」ということになります。朝から晩まで喧嘩、喧嘩、喧嘩です。
そんな中で当直した最初の晩に、「よろしく」と挨拶しながら回って行きましたら、患者さんが一人ものすごい形相でバーッと走って来て、そこにあった牛乳か何かの瓶を割って、「おいっ!」と来るのです。こちらはワケがわかりませんから、看護師の机をはさんで、「ちょ、ちょっと待て!話せばわかる」ふと看護師さんを見たら、看護師さんは「あんた、何やってんの?」という感じで知らん顔してガラスの破片を掃いているのです。「な、なんなんだ、この状況は?!」と思いますが、しょうがない、看護師さんも助けてくれないし、相手は「この野郎!」と向かって来るわけです。仕方ないので、「ちょっと待て!話せばわかる」と、結局、朝まで話した—話したと言うか、怒鳴って脅して来る患者さんに「まあ、待て」というのを朝までやったら、朝になる頃に、「オマエ、いいヤツやな。許したるわ」と言われました。後で看護師さんに聞いたら、新しい医者に対する儀式らしいのです。「ちょ、ちょっと待ってよ、儀式?!牛乳瓶、先が割れてるよ~」とんでもないところに来たなと思いました。これは笑い話で済んだのですが。
 暴力を暴力で制することが何らかの意味を持つ世界でした。またしばらくして、自分の病棟で事件が起こりました。当直の時ですけれども、呼ばれて行きますと、観察室というところがあって、慢性の攻撃的だと言われている統合失調症の患者さんがそこで寝ていて、その隣に認知症で片目のつぶれたおばあちゃんがいて、一晩中、「ウウウッ、ウウウッ」と何か叫んでいるのです。そのおばあちゃんの呻き声に統合失調症の患者さんがイライラしたのでしょうね、そのおばあちゃんのベッドに行っておばあちゃんのもう片方の眼をえぐり出してしまったのです。当直で、「大変だ」と呼ばれて行ったら、顔が血だらけになっています。おばあちゃんを救急病院に送り、加害者の患者さんを隔離室に入れたのですが、その時私が何を考えていたかと言うと、自分が当直の時にえらいことが起こってしまった。これは裁判になるかもしれない。どのような調査が入るかわからない。警察も呼ばねばならない、どう対応しようと、新米だった私はひたすらオロオロしました。
 ところが起こったことは、朝一番に家族が来て、「先生、こんなことがあったからといって転院させないでください」と言います。双方の家族が同じことを言うのです。「病院から放り出さないでください」と。ショックでした。
 そんな事件があって、なんていうところだ精神医療とはと骨身にしみて、自分が宇都宮病院あかんと言っていたのがなんて薄っぺらだったのかと思い知らされる日々が続きました。他にも程度の差はあれ、患者さん同士の暴力によるひどいケガもありましたが、連絡を受けた家族が、「病院を追い出さないでくれ」と同じことを言います。 
 そういう暴力の渦巻く世界で、患者さんに対する差別、偏見の気持ちを抑えるのに必死でした。精神病患者というのはやはり危険なことをするのを避けられないのだろうと、私も思ってしまっていました。ところが、この暴力の日々にはあっけない幕切れがあるのです。1983年から1992年まで同じ病院にいましたが、1980年代の終わり、バブルの頃ですね、この頃から精神病院というところの多くが借金を返し終わりますと、次にまた借金をして改装に入りるのです。その時に病院を新しく建て直すための融資が国から行われるようになって、どの病院もみなさんが今見ておられるようにきれいになります。90年代初めにはまるでホテルみたいな病院もでき始めたのです。私の病院も建て替えを始め、スマートになりました。病棟がきれいになって、病室はベッドになります。ちゃんと4人部屋です。それまでは一部屋に10人以上が詰め込まれていました。
 その新しい病棟になった途端、これまでの暴力沙汰がきれいになくなったのです。もちろん治療に対する抵抗としての職員への暴力はあります。妄想によって暴れる時もあります。けれども普段私がずっと苦労して来た、なぜ起こるのかわからない突然の激しい暴力沙汰というものがなくなってしまったのです。なんと環境というのは大変なものかと思いました。そして同時に思ったのです。きれいになった病棟といえども、渋谷のハチ公前に次ぐような人口密度、しかも24時間365日閉鎖。その中で患者さんはみんなおとなしくしている。本当は、患者さんたちはおとなしいし、エネルギーないし、暴れるというのは病気で苦しいだけではなく、病院生活そのものが苦しかったのだろうなというのがだんだんとわかって来ます。
 そしてそれまで大変だった暴力というものをもっと大きな視点で考えてみると、戦争の名残だったのだろうと思い至るのです。私が二十歳の頃の一番多くの患者さんは四十代です。その方たちは戦中に思春期を過ごしています。そして戦後の大変な中で生き延びて来て、発症している。そういう人たちが大挙して精神病院に入れられていました。戦中から戦後というのは暴力が支配する時代でした。その時代を背負って、時間が止まったような精神病院の中で、戦後の闇市よりもさらにひどい状況で過ごして来たのがこの患者さんたちなのだなと、はたと気づいたのです。そういう大きなバックグラウンドを抜きにして精神医療も精神障害も治療関係も語れないなというのが、その頃の気づきでした。
 「私の暴力史」と言いながら、私の身のまわりで起こっている暴力のことばかり話しましたが、私がどうだったかと言うと、どんなにいろんな疑問を持っていても、精神医療を何とか改革して行きたいという気持ちは、若かったので持っていました。普段の場面の中で、職員に暴力をふるわせてはいけない。職員を暴力の盾にしてはいけないと思っていました。ですから常に患者さんからの暴力に対しては職員の前に立つことを若い自分は心がけたのです。保護室に入れる時にも、それまでは職員に患者さんを入れさせておいて、それから医者が行くというのが普通でした。私は中井久夫先生が書くものに感動していたので、患者さんを保護室に入れる時は必ず私が手を引っ張ろうというふうなことをやっていました。そういう義侠心と言いますか、正義感がありました。
 その一方で、というかそれとまったく裏表の関係なのですが、この患者さんを治療にのせるには、自分がちょっと力をふるってでも正しい治療の方向にのせなければいけないという職業倫理みたいなものに強く縛られていました。ですから注射をするために暴れている患者さんを抑える時も、薬を飲ませる時も、自分がまず最初にやるようにしていたのです。
 もっともわかりやすい例を言えば、往診をいっぱいします。地域機関とかそこから紹介された家族からの連絡があると、「はい、はい」と出て行きます。一時間、二時間とかかかる遠方にまで救急車で(乗ると興奮します。サイレン鳴らして飛ばして行きますから)、患者さんの家に行って、嫌がる患者さんを布団で簀巻きにして、強い鎮静剤とか注射を患者さんの家で打って、救急車に乗せて病院に帰る。そういうことを率先してやっていました。それをやると私の脳内にはドーパミンがドバッと出るのです。救急車のサイレンと患者さんとの格闘で。その場で測定したら、患者さんより私のほうがドーパミンだらけだと、そういう状況です。ドーパミン中毒です。これは嗜癖になるのです。私は明らかに暴力嗜癖になっていました。
 暴力嗜癖の医者が患者さんの家に行って、暴力的に病院に連れて来る。そうすると地域の人とか家族から「どこに相談に行ってもこうやって入院させてくれる病院はありませんでした」とものすごく感謝されます。同じように、今、おそらく、民間の移送業者の人たちは、自分たちが悪いことをやっている、大変なことをやっているとは全く思わずにやっているのではばいかと思います。感謝されるのですから。
 そしてあろうことか、患者さんの一部は病気がよくなってから「あの時、先生が来てくれて無理やり連れて来てくれなかったら私は大変なことになっていました。ありがとうございました」と丁寧にお礼を言うのです。それはそれで本心の部分もあると思うのですが、病院を退院するために言っていたり、医者と良い関係を築くために一生懸命言っていたのだろうなと、今ならばわかります。でも当時の私は、そう言われたら「そうか、そうか、私はいいことしたな」と鼻高々です。地域の役に立っている、患者さんの役に立っている、家族の役に会っている。オレってすごいいいことしてるわ、そういう気持ちがどんどん膨らんで来て、全く精神医療という暴力に嗜癖の状態であったのが私です。
 ちなみに、今みなさんが使っているマグネット式精神医療帯、あれを最初に精神医療に導入したのは私です。最初に医療に導入したのは、その頃、老人を一層懸命見ていた結核病棟とかでした。そこに見学に行った時に、「なんちゅう便利なものを使ってるんや。これを導入しよう」と。誰もそんなものまだ使っていない時代で 病院に導入したら、いろいろな病院から見学に来て、どんどん広がりました。これも「いいことしたな、オレ」と思っていたのです。まさか後にその拘束帯を自分が非難する役になるとは思いませんでした。
 精神科の治療の中に、「一喝療法」というものがあるのです。ご存知でしょうか?生活臨床ってありますね、それを始めた偉い大学の先生に江熊先生という方がいるのですが、その人の得意技というのが「一喝療法」なのです。チャンスを見計らって一喝すると患者さんは良くなる。あるいは治療関係がガラッと変わるというのです。実際にそういうこともあるのですが、それにまた私も凝ってしまいまして、一喝の練習を鏡の前で一生懸命夜中にやるわけです。閉鎖病棟に大変な患者さんがいると聞いた日には、病棟の扉を開ける前から、「今日は怒るぞ」「今日は一喝ガツンとやるぞ」とエネルギーを高めてから行きました。だいたい閉鎖病棟ってやることは決まっているのです。ぱっと医者が入って来たら看護師さんが全員こちらを向いて、「先生、今日はこれをやってください」と言うのです。今もそれは変わりません。まず「先生、どうしましょう?」です。そこで一喝のエネルギーをためていますから、「わかった」とちょっと格好つけて渋く言って、すぐに患者さんのところにスタスタッと行って、「おまえ、こらぁ、またゴン太やっとんのか!」とやるわけです。こう見えましても病院の中で怒ったら一番こわい先生と言われていました。またそれも気持ちいいんですよね。
 もちろん私のほうも何度も暴力を受けました。三回くらい眼鏡割っています。よく今まで無事でいられたと思うくらいです。2、3メートルふっ飛んだこともあります。今だったら怒っている患者さんの前に「どうしました?」なんて行くことはないし、そんなことをみなさんはしないと思うのですが、やはり若くて「オレがなんとかするんだ!」と使命感に燃えていますので、「どうしたんよっ!」と行くわけです。「どうしました?」と穏やかに横から行くのではなく、「どうしたんよっ!」と正面から駆け寄りますから、いきなりバーンとやられます。吹っ飛ばされて当たり前です。
 私がケンカに強かったかというと全く逆で、小さい頃から運動ができないためにいじめられっ子でした。しかし、うちの親は、いじめられっ子は強くならない限り救われないからという当時の価値観の持ち主でしたから、小学校の時に柔道を習わされました。柔道は全然強くなりませんでしたが、受け身だけはできていたので、おかげで何度も助かっています。頭を打ったことはないのです。(CVPPPの中には受け身の練習、あります?ないでしょうね)
 私がいっぱい往診して、暴力して、その場を収めてやって来た患者さんがたくさんいるのですが、10年後にその病院を去る時に、一人一人の患者さんに挨拶に回ったのです。その時には、私が「暴力」で治療した患者さん、つまり力で抑え込んできた患者さんのうち、良くなって喜ばれた患者さんはみな退院してしまっています。自分の中では忘れていたのですが、残っている患者さんの殆どが、病室の隅でじっとしている患者さんになってしまっていたのです。あるいは病棟の中で一番扱いに困る患者さんになってしまっていました。

その時に愕然としたのです。この人たちは自分が作ったのだ。人が自分の暴力性に気づくことの難しさというものを、私は自分自身で体験しました。
「力」を行使しているつもりが、それは自分の力ではなく、病院というシステムの中にある力で、その力に自分自身が振り回されていたのだ。力を操るという自分の意気込みは、すべて病院の力であり、自分は操り人形にすぎなかったのだと気づいたのです。

後で知ったことですが、私たちは「力」と「暴力」という言葉を混然一体として使ってしまっています。日本語ではどちらも「力」という字が含まれて、同じものとしているので、力と暴力を同じ価値感でみてしまう習性がつきやすいのです。
たとえば英語だったらどうでしょう。暴力はviolenceです。violenceは破壊にしか結びつきません。一方、力—守るための力はforceです。元々違うものなのです。私たちは「力」と言った時に、それが「暴力」になってしまうことに無意識になっていると思うのです。

 この後に1992年から大学病院に行ったわけですが、大学病院に行けば、昔大変だった病院もきれいになっていました。私の仲間たちも大学病院で臨床をしていて、ずいぶん開放的になったと聞いていました。ですからそこではじっくりと暴力の問題に煩わせずに臨床ができると思いましたら、実はそこではもっと陰湿な暴力が行われていたのです。
 ここでの経験についてはまだ身近に在職中の方もいたりして、あまりおおっぴらにはしにくいのですが、急性期の患者さんも受け入れるようになったかわりに、いかつい男性看護師がけっこう配備されていました。暴力装置としての看護です。その人たちの陰に隠れて、看護の方は患者さんからものすごく距離をとっていました。看護の申し送りでは聞くに堪えないような患者さんの悪口が堂々と言われたりしています。もっとも、それは「状態の報告」として正当化されているのですが。特に大学病院でしたから、その頃はボーダーラインとか摂食障害と言われる患者さんたちが出始めた頃です。昔からいる看護師さんたちはその人たちが病気だとは絶対思わないわけです。「何?あの人たちは甘えていて。しかも医者にだけは大切にされて、つけあがっているんじゃない?」みたいなことを申し送りで言っているのです。それをみんなが「はい」「はい」と聞いているわけです。
 私はまだ入ったばかりで、ようやく直に聞けたのは、私がなんとか朝の申し送りに入らせてくれと頼んでからです。最初は医者が入ったということで静かなのですが、だんだん本音が出て来るのです。男性看護者はやはり患者さんを隔離したりする時に、とても乱暴でした。でも他の看護スタッフからは頼りにされるわけです。特に他の科から何も精神科のことを知らない若い看護師さんが回って来ますから。そういう人を守るのが男性看護者の役割だと自他共に認めていた感じがありました。保護室の中での職員から患者への性的ないたずらもありました。
 そういう看護者たちを、病院や看護部と交渉しながら何とか辞めさせるということに苦心しました。もちろん看護だけではなく、研修医にも大変な暴言を吐いたりする人がいます。だいたいどんな専門家でも三割くらいは箸にも棒にもかからないわけですが、精神科医だけは六割くらいがおかしいですよね。話がマトモにできない人とか、人間関係が作れない人とか、そういう人は精神科に来るのです。自分の問題を解決したくて精神科に来ます。今はすべての研修医が精神科を回るから、さらに状況は悪くなっているのではないかと、僕は危惧しているのですがどうでしょうか。
 隔離、拘束も治療のためにやるのだと建前ではそう思っていても、最終的には隔離・拘束に対する考え方というのは「処罰」でした。病棟の中で「問題」を起こしたから隔離。「問題」を起こすから拘束。しかもそれを予測でやったりもする。そういう世界が大学の精神科病棟の中でも展開されていました。ですので、よくまじめな精神科医が、ウチの病院はそんなことはない、それは昔の悪い精神病院のことだろうと言いますが、医者のそのような言葉を私は信用することができません。

 それが証拠に、最近(2012年1月)では石郷岡病院で看護者が隔離中の患者さんを暴行して死に至らしめてしまう事件がありました。保護室の中のカメラの録画映像もあるのですが、ちょうど看護師が後ろ向きのところしかとらえていなくて、暴行と認定できないということで無罪になりました。この石郷岡病院の院長というのは、学会の一番のお偉いさんの一人で、製薬会社の講演をたくさんやって年間一千万円くらいもらっている方です。そういう人が院長をしている病院でそういうことが起こったのですが、それだけに恐らく何かの力が働いたのでしょう、裁判は非常に緩い結果になりました。
 そのビデオは今でもネットで見ることができます。これもNHKで放送されました。放送された時にも、看護師さんたちは看護師擁護のTwitterで炎上しています。さらに問題は暴行ということだけではないのです。実はそのビデオを一生懸命見て怒った人が私の友だちにいるのです。横田泉(みつる)という、オリブ山病院というところで自分は病院医療の改革をやると言って頑張っている同志なのですが、彼はそのビデオを見て、問題のシーンが暴行かどうかはわからないけれども、一人の看護師がその患者のオムツを替えている時に、同時にもう一人の看護師がごはんを食べさせていたというところにこだわります。
 彼がネットに書いた怒りの告発を読みます。
「何よりも衝撃だったのは、食事とオムツ交換を一緒にしているシーンでした。どんな理想的な薬があっても、こんなケアしていたら絶対に治らないと言いたい。看護職員の座談会でマンパワーのことを言っていたけれども(高木:放送の中で職員が「マンパワー不足のため、私たちはしたくないこともしなければならないのです。でも一生懸命やっているんです」ということを言っていたのですが)、それだけの問題では絶対にありません。治療思想の問題です。統合失調症の治療というのは、美味しく食べること、味わうこと、そういうことを地道にやって行って取り戻すことなのに、何が治療にとって大切なのかという思想が全く感じられない。私たちが日々悩んで苦労していることをすべて台無しにされたという気持ちで悲しいです。」

 やはりこれが今の精神医療の現状だろうと思っています。精神医療と暴力ということを考えなければいけない状況に、まだまだあるのです。そこを考えることなくすべて暴力は精神障害者の側の属性としてしまって、その暴力を防ぐにはどうしたらいいのかという思考でいる限り、精神医療は暴力への対処はできないと思います。

 「精神医療と暴力」という抽象的な主題にちょっと戻りますと、精神病状態における暴力、これはもう少し丁寧にやれば解決可能だろうと先に話しました。一方で、社会環境による暴力、これは今の日本が置かれた歴史につながっている。この人たちは戦後のゴタゴタの中でPTSDを負っているのではないか、それが暴力につながっているのではないかと考えました。次にこれから問題になるのは、日本が新自由主義の中で二極化して行く中で、貧困層に、私たちのような職業にある者が想像できないような世界が、今、日本でも少しずつ生じつつある状況のなかで起こる暴力です。その世界で育った人たちが、自分が受けた傷を社会の誰かに向ける、そういう暴力に対処して行かなければならないでしょう。私たちが精神医療という垣根を取り払ってもう少し広い視点の中で暴力ということを考えて行くことが必要です。考え続けていれば、環境による暴力というものも理解可能になってくるし、対処可能になっていくかもしれません。
 そして一番難しいのが、今も昔も、精神医療が生む暴力だと思います。収容所環境—密室環境というものはどうしても暴力を生みやすくなる。その中で、私がそうだったように、治療者としての役割を、誇りを持っていながら、勘違いしてしまう。「力」のつもりで行使したものがいつの間にか「暴力」に変容している。そういうことを精神医療の現場は生みます。
 それから患者さん自身がその支配システムに抗議を行っうための暴力。「なんで何もしてないのに抑制するんだ!」という叫びもそのひとつだと思います。
 そういう暴力に対して、私たちは精神医学の言葉でそれを「無効化」します。彼の怒り、抵抗、抗議—それが正当な抗議でも、「衝動性」「拒否性」「易怒性」といったレッテルを貼って治療の対象にしてしまいます。これは精神病院の中だけではなく、地域でもいくらでも起こっています。精神障害者と私たち支援者との関係の中で起こる問題です。
 それから今の精神医療システムが生んでいる問題です。特にこの問題は救急病棟の中で増幅されていると思います。今日は松沢病院の方たちもおられると思うのですが、『急性期医療を再考する』(日本評論社2018)という本があります。その本の中に松沢病院で拘束をゼロにしようと頑張っている看護師さんたちの座談会があります。本当にみなさん頑張っておられても、急性期病棟というのは今のシステムの中で、流れ作業のように電気ショック、薬の大量投与、拘束が行われています。それは退院して来た患者さんたちが一様に怒っておられることなのです。
 このような患者さんの怒り、戸惑いのフィードバックを、今の急性期病棟は受けられないようになっています。なぜなら自分たちの誰もがその患者さんたちの長いスパンの人生に責任を持つことがなく、すべての問題を「急性期の精神症状の問題」として処理するに終わっているからです。そのようにして「治療と戦う患者さん」をいっぱい生んでいるのではないかと思います。

「治療の思想」をどう作るのか
 こういう医療と暴力の状況の中で、先ほどご紹介した私の友人の横田が悲しんだ治療の思想というものがないこと、それが全く行われていないこと、それに対してどうしていったらいいのでしょうか。
 まず思想を組み立てるためには、みなさんが学んで頼りにしている精神医学というものが、本当はいかに頼りないかということをきちんと勉強していただくことだと思います。これは薬についてもそうです。抗精神病薬は、幻覚・妄想を消す薬だと言われていますが、本当に消しているでしょうか?これは言葉でごまかしているとしか思えません。抗精神病薬で幻覚・妄想が消えるのは、落ち着いた患者さん自身が自分で消しているのです。けれども幻覚・妄想を消してしまって現実生活に戻ることがつらい患者さんは、幻覚・妄想の中に閉じこもりますから、抗精神病薬の幻覚・妄想への作用は全く効きません。みなさんが診ている殆どの患者さんはそちらのはずです。それなのに、私たちはあたかも薬が幻覚や妄想を消しているように考えています。そこにも私たちが持っている精神医学の思想の弱さがあります。あるいは私たちをひたすら力と権力と支配と管理にだけ追い込むものが潜んでいると思います。
 疾患名もそうです。今、統合失調症と診断されて病院の中で問題だった多くの人が発達障害だったということも言われていますね。発達障害であればやれるかと言うと、そうではない。発達障害の専門家に渡そうとしたら、「こういう発達障害の人は私たちは診れません」と言われて、精神病院に帰される。それもやはり社会の「問題」は精神病院が引き受けているという今の状況なのですが、精神医学の診断というのも非常に不確かです。診断も治療も非常に不確かな中で、それだけに頼っている私たちの関わりが不確かになるのは当たり前なのです。そこに無理やり確かなものを求めようとしても、やはり力に頼ってしまうような方向に行くしかありません。
 イタリアのトリエステというところは、地域医療に転換して、精神病院を殆どなくしています(日本の精神病院の経営者たちはトリエステが大キライですが)。日本の精神医療の現場で働く人たちは、トリエステにきてこういう質問をすると言っています。イタリアの精神医療改革の理念はわかった。だが実際に具体的に興奮して暴力的になっている患者を前にして一体どうすればいいのか。目の前に今にも自殺しかねない危険性のある患者がいたらどうするのか。これに対してトリエステの人たちは答えます。「人はいつも正しい答えを欲しがり、具体的な技術とマニュアルを求めます。つまり「確かさ」を欲する。不確かさに対する不安、確かさの欲求こそがこれまでの収容的な精神医療を支えて来たのに。ですからみなさんが「確かさ」に依拠したら、今の収容的な精神病院を解体できるだろうというのは逆なのです。「確かさ」に依拠すればするほど、「確か」な精神病院の中でしか行えないことになってしまう」と。
 そういう精神医療の不確かさをきちんと批判することがまず精神医療の思想を作ることにとって必要です。

精神医療の思想を現実化するために

 そしてその思想を現実化していくためにはどうして行ったらいいだろうか。それを私はこの十何年間か、ACT(Assertive Community Treatment:包括型地域生活支援プログラム)というものを立ち上げて実践してきました。ACTとは何かと言うと、多職種のチームです。多職種のチームということはその中に多職種の平等が入ります。医者も全く平等です。もしピアがちゃんと働けたらピアも平等です。
 多職種のチームの中で、24時間365日介入する。そしてそれを生活の現場でアウトリーチによってすべてのことを行う。これがACTです。「24時間、365日って、今オマエはここ壇上におるじゃないか」と思いますでしょう?できるわけないと思いますでしょう?それは今の日本に地域の支えがないことの尻ぬぐいを精神病院が全部やらされているからです。だから忙しい。24時間支援なんてひとつのACTチームでできるわけがないと思うのです。ですが急性期は突然来るわけではありません。患者さんのいろいろな不安や困惑も突然来るわけではありません。すべては天から降って来るものではなくて、生活の現場の中にいろいろな葛藤があって起こることなのです。それを丁寧にして行けば、精神科救急のほとんどは必要ありません。
 先ほど拘束の批判に対して、「あなたは専門家として言うべきことを言ってください。拘束が悪いなどということを一般市民に言ったって仕方ありません」というすごいコメントを私の記事に書いてきた人は、「私はこれでも救急医療に命をかけています。先生はお偉い先生なのでしょうけれども、何も知らないのでしょう」とおっしゃいました。私が知っているかどうかは、今日お話ししたそのままです。それでも、今の精神科救急システムに身を置いているとそういうふうに思ってしまうのは、今の日本の精神医療体制全体の中でできていないことのすべての面倒を精神科救急が負わされているからです。ただの尻ぬぐいです。それをもとにこれからの医療を、これからの精神医学を考えて行こうとしても、何も生まれません。ますます隔離・拘束・収容所的になって行く、差別・排除的になって行くだけです。
 ACTについてなのですが、みなさんに資料をお配りしていますよね。もしもう少し詳しく実践の内容も知りたいと思う方がおられますでしょうから、今日は実は人権センターの弁護士さんが一年くらい前にうちの訪問や会議にべったり張り付いたレポートをお配りしています。これをお配りしたのは、私がこうして檀上から話すとどうしても「あんなこと言っているけど眉つばと思われる方がいらっしゃると思うのです。ですから第三者の弁護士さんのレポートをみなさんに配らせていただきました。診療報酬の問題など、やりたくてもできていないことなどもちゃんと書いていただいています。もしよろしければお読みください。
 私はこのACTというやり方で10年以上、重症の精神障害者を診て来ています。保護室を占拠されるので病院には置いておけませんと言われて退院して来た方とか、医療観察法病棟から治療反応性なしとして追い出された人とか、散歩していても妄想によって何でも異食してしまう人とか、家では暴力的なこともかなりして来た人とか。普通の精神医療に対しては拒否感の激しい人。治療拒否、医療中断の人ばかり診ていますし、措置入院経験者の方もたくさんいらっしゃいます。
 そういう方々の対応をACTのやり方でやっています。そういう人を診て来て、もちろん全部がうまく行ったわけではありません。やはり私たちも全体のシステムが全くできていない中で、イタリアのようなシステムがあれば普通にうまく行っている人がうまく行かないために私たちのところにやって来る。そういう尻ぬぐいもやっていると思います。
 そういう人たちを診てきて思うのは、医療拒否、抵抗、医療中断をすぐにする病識のない人と言われている人の殆どは精神医療に対する不信と人間不信と強制治療に対する恐怖のため、地域で医療に全然結びつかない、あるいは強制的な入退院を繰り返さざるを得ない患者さんになっています。そういう患者さんは、まず人間関係ができれば、医療が不確かでも、たいしたことをしていなくても、薬もあまり飲まないでも、問題行動や入院に至るような行動は殆どなくなって行きます。
 ACTでどのように努力しても、今の日本の精神障害者に対する支援が乏しいなかで入院はどうしても避けられません。入院したら、入院中も最低週一回の頻度でチームの担当者が病棟に行きます。そして病院と協力して帰って来てもらうようにしています。制入院、強制医療のトラウマをお持ちの方が殆どですから、入院も、そうやって安心していただければ使えるものになります。ただ、入院したからといって治療がうまく進んだかと言うと、そんなことはありませんね。ちょっと心の余裕ができて、ちょっと薬が飲みやすくなったというぐらいで退院してくる。なので医療がもう少し何かできるかなというのは、現場に帰ってからです。その時に細々としてその人の生活の中でのつまずきとか、薬で乗り越えられるものは乗り越える。

 強制入院や強制医療のトラウマが殆どなので、病識の有無というのは関係ありません。また病識を持てるほど軽い人をうちは診ていないのです。むしろ幻覚や妄想と共に、今目の前の原人実を一緒に生き抜いて行くための支援、寄り添いをするということが主になっています。治療に至らないまま薬も飲まない、私たちのことを医療関係者とも思わないままつきあい続けている例もたくさんあります。
 これを始めてからの16年間、大変な病状の人が多くいますが、患者さんから暴力というものはほとんどないに等しいのです。仮に軽い暴力的行為に巻き込まれたとしても、スタッフたちが、自分たちがここでこうしたことがちょっと悪かったなというふうに冷静に判断してくれています。刃物を持っている人を入院させざるを得なくなった時は、さすがに私もコートの下に段ボールをいっぱい詰めて行きましたが、みんなで説得しているうちに素直に病院に行くということになりました。家族への暴力や第三者への暴力も、治療というのではなく、寄り添って行く支援によってどんどんなくなって行きます。あるいはどこかで自分が起こした暴力と向き合うことができるようになっています。
 地域でのつきあいは、みなさんが病院に勤めている時は患者さんがアウェイです。患者さんはびくびく怯えながら、みなさんは自信に満ちていますけれども。地域で訪問して行うということは、こちらがアウェイな立場になります。丁寧に「おじゃまします。失礼します」で始まって、天気の話などから始まって、自分たちはけっしてあなたの嫌がる強制的なことをしに来たのではないということを伝え続けて行くうちに、一緒にドライブしたり、映画に行ったりしているうちに、非常に対等な関係ができて来ます。その時にようやく初めてスタッフが自分を問われて行くのです。こちらが何かをしてあげようと思っているうちは、スタッフは自分を問うていません。けれども初めて自分を問うて行く。そして自分を問うて行くと、その人の人生に責任を感じるようになります。そこまで行って初めて精神障害者の支援というものができるのだろうと私は思っています。
 地域で精神障害者を支援するということは、精神医学の知識とか、確実な治療法とかを支えにして行うことではありません。そういうものを捨てたところから始まるのです。そういうものは、どうしても使わなければいけない時に、「すまないけれども力を使わせてもらうよ」と断った上で、地域での暮らしに寄り添って行くという方に行かないといけないと思っています。
今の精神医療は恐らくその逆に行こうとしています。医療観察法だけではなく、私はこれから精神医療や福祉の全体がどんどん悪くなると思っています。どんどん悪くなる中で、どのように抵抗の拠点を作るかということを考えようと思っています。

 最後に先ほど紹介した『急性期治療を再考する』という日本評論社から出ている本から引用します。この本のすごいところは、巻頭言が当事者なのです。急性精神病状態で、何度も入退院を繰り返して、その度に拘束され隔離され、暴力的な扱いも受けた方ですが、非常に自分の体験を客観視しています。その方が巻頭言を書いているのですが、その巻頭言をちょっと紹介して、私のこの講演を終えたいと思います。
「歴史的に見ても精神医療は、流れにまかせると行き過ぎてしまう傾向がある」とこの方は言います。そして「世の中の面倒を一手に引き受けて来た精神医療がその重みに耐えかねて、金属疲労のような状態に陥っているのではないだろうか」と精神医療の現状を批判します。
それではその彼は自分の治療を精神病院にして欲しくないかと言うと、そうではないのです。
 「本来急性期治療は精神障碍者にとってのセーフティネットであるべきだと私は思う。ところが、そこでのハードな治療を怖れるあまり、回復しても再発に怯えながらビクビクと毎日を過ごしている多くの患者の現状である。」
「だが、急性期治療によってダメージを受けるのは患者だけではないのかもしれない。直接手を下している医師や看護師もこのような行為を平然と行うようになるまでに、自らの『心のうぶ毛』を随分とすり減らしているのではないだろうか」

 私はこの巻頭言を読んだ時に、頭を垂れざるを得ませんでした。このように言ってくれる、本当に治療を必要としている人たちのおかげで私たちの日常は支えられているはずなのです。それに応えて行かなければならないだろうと思います。みなさんも現場に帰って考えていただきたいと思います。
今日はご清聴ありがとうございました。

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