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ミナマタ・FUKUSHIMA・精神医療


1)FUKUSHIMA、2011年10月

 朝方の小雨に湿った森が深々と広がり、人の姿が絶えた自然は静かだ。一条の陽光がまだ新しいログハウスを照らしている。福島第一原発から10kmばかりにある福島県浪江町の地域活動支援センター「コーヒータイム」の扉を開くと、半年以上たった今も3.11その日のままの室内が見渡せる。白板の予定表が、3月12日からの果たせなかった行事でびっしりと埋まっている。「あの日」がなければ、そこに集まっていたであろう人々、精神障がいを持った人たちの笑いさざめく声が聞こえる。
 The Day After ─
 この地から撤退を余儀なくされた「コーヒータイム」が、同じ福島県内の二本松市の文化会館の一角で、その近くに避難してきた利用者らとともに再開することになった。そこに必要な備品を取りに、緊急避難区域である浪江のログハウスに許可を得て入る計画がたった。その手伝いに同行させてもらったのである。
 野次馬の常として現場の人々がもつためらいのない私は、ログハウスの周囲の茂みを線量計を持ってぶらぶらしてみる。空間線量はほとんどの場所で10μS以上を指す。私の暮らす京都の平均線量の約100倍である。
 建物の脇の鉢植えが倒れたままになり、ばらまかれた土の上に枯れ葉がたまっている。そこに線量計を近づけると、みるみるうちに液晶画面の数字が上がり、114μSを示した。1000倍以上。小さくなった不思議の国のアリスがこの茂みに暮らせば、年に1シーベルト近くの放射線、しかもγ線の外部照射のみでその値の放射能を浴びることになる。
 驚きの声をあげた私のまわりに、浪江のスタッフたちが集まってきた。安物の携帯線量計なので間違いかもしれない、何度か線量計を私たちの背丈の高さに戻し、また近づけてみる。そのたびに、液晶画面の数字は10と100を行ったり来たりした。
 「やっぱり、もうここには帰れないのかしら・・・」、所長である女性がつぶやいた。防塵キャップとマスクの間からのぞく目に、ありありと落胆の色がさしている。いつかここに帰れる、と信じていたのだ。

 帰途、野に放たれた牛に出会う。痩せたその背に、太い骨格と筋肉がわかる。じっと立ち止まってこちらを見る。鼻に通された鑑札が不釣り合いで、かえって野生の凄みをきわだたせている。もしこいつがぶつかってきたら、私たちの軽ワゴンなどひとたまりもなくひっくり返されるだろう。だが、牛は悲しそうな目でこちらをしばらく見ただけで、人間には興味もないそぶりで朽ちた柵の向こうに消えた。
 生命は、人間だけが天敵であったかのように、人のいなくなった世界に根をはる。スリーマイル島では、原子炉事故10年後にはじめて人間が炉の蓋を開けて覗くことができた。それまで、多くの人々が、専門家も含めて、そこに死の世界があると想像していた。しかし現実には、人が近づくこともできなかったその炉の中で、びっしりとプランクトンや藻がひしめいていたという話をどこかで読んだことがある。
 チェルノブイリ周辺の森は、今では野生動物の宝庫になっているという。人の生まれることのない土地にコウノトリが舞い降り、チェルノブイリという名のもとになっていると言われるニガヨモギが繁る。事故後の原発周辺では、まずネズミが大量発生し、次にそれを食べる小動物が繁殖し、猛禽類を呼び寄せてきた。
 生命は、人類がばらまいた放射能というニガヨモギの水を乗り越えて栄える。それは、生物たちが弱肉強食の自然界に裸で生きているからだ。放射能や環境毒性によって生じる奇形や障がいは、この世界に生き残ることができない。そして頑強な個体だけが生き延びる。太古の昔、放射能と紫外線と高濃度の酸素という毒々しさに満ちた世界の中で自然淘汰によって進化してきたその道筋を、もう一度辿ろうとしているかのように。
 人類だけが、自ら作り出してばらまいたこの放射能によって、世界から復讐される。なぜならば、人類だけが、障がいを持った者、病を得た者、年老いて動けなくなった者を、この社会の中で抱えて生きることを選んだからである。
 人間は、共生の道を自ら選び取ったのである。3.11後の社会は、その選択を試されているのだ。

 昼過ぎ、いくつかの荷物が新しく店が開かれる場所に運び込まれた。明日の開所式を控えて、会場となる会館の4階ロビーに椅子を並べる。ガラス張りのロビーには、穏やかな午後の陽光が差している。原発から60km離れたこの新たな地の空間線量は、京都と変わらない。ここは、住み慣れた土地を追われた人々にとってようやく再び手に入れた約束の地であってよい。
 浪江町を含む福島県浜通りと呼ばれる地域は、戦後日本の繁栄から最後まで取り残された地だった。そこに原発が誘致され、第一次産業から人々が引き離された時、障がい者や高齢者の収容が同時進行的に進んだ。地域には、精神障がい者に対する根強い偏見と差別が今も残されたままである。
 その地で苦闘して精神障がい者の地域生活を支えてきた人々と、ようやく拘禁的な精神医療から解放されて自分の暮らしを手に入れた精神障がい者にとって、「コーヒータイム」をはじめとする地域の小さな共同体は、はじめての安息の地であった。原発事故はそれを奪ったのである。
 しかしここでも、眺望の中に広がる山並みは、放射能汚染を抱え込んで、日差しの中を吹く風が放射性物質を人々の生活の場所に今も運んでいるのだ。会館前の車道を横切り、河川敷に降りる。飛び石をまたいで小さな中州に渡り、水際の草の茂みに線量計を入れると、数字は20μSを超えた。
 ニキビづらの中学生たちが、その河川敷を嬌声をあげて追っかけあい、水面に石を飛ばして競いあっている。石は川面を跳ね飛び、小さな水しぶきが午後の陽光にきらめく。

2)ミナマタ、1979年8月

 彼女の体躯は歪んでいる。
 体をよじるようにしながらひょこひょこと歩く彼女らに引き連れられながら、不知火の海辺の村々をまわる。坂本しのぶさんは、胎児性水俣病を抱えた女性である。赤ん坊の頃、ユージン・スミスの写真や土本典昭の映画にたびたび登場し、反公害運動の象徴的存在として広く知られている。彼女にはそのような気負いも、障がいを抱えている悲惨や暗さは微塵もない。
 夕刻になると、漁師の家に招かれ、新鮮な海の幸と焼酎をいただく。水銀のように光る取れたての太刀魚。夜には酔った勢いで若い漁師と舟を出す。船上で指だけでさばいては、醤油をぶっかけて食べる鯵。不知火の海は今も有機水銀のヘドロを沈めている。

 大学入学後、私は文化人類学を教えていた故米山俊直教授を慕って、その研究室に出入りさせてもらっていた。それをきっかけに、アフリカの学生たちと交流を行う「アフリカ研究会」を組織することになり、その前年の1978年夏、ナイロビ大学の学生と会うためにケニアを訪れた。
 アフリカで電気の未だない村に滞在し、そこで人々の素朴な暮らしや人情に触れ、帰国後「ポレポレいこうや」という文章を新聞に載せた。今ではどこでも聞くようになった「ポレポレ」は、スワヒリ語で「ゆっくり」の意味。それが、当時京大法学部に在籍してケニアでの案内役をしてくれたCGムワンギ氏(現四国学院大学)の目に触れ、思わぬ批判を浴びた。「アフリカの人々が悠長でやる気がなく見えるのは、長年の植民地政策のもとで搾取されてきたためデスよ。あなた方の見方こそが、その延長でアフリカの近代化を妨げ続けてます」と。
 また、アフリカに同行してくれた仏文学者の大橋保夫教授と共に大阪日仏会館で開いた帰国報告会では、「アフリカで大学に行くエリートは欧米の植民地主義の手先となる者たちである。彼らと交流するというのは植民地主義に対する無知とそれへの善意の荷担である」と執拗といっていい口吻で噛みつかれた。「イエスという男」という、今では私の愛読書のひとつとなっている本を上梓する直前の、田川建三氏であった。
 反論のしようがない。当時の私にとっては、諭されるように言われる「批判」には、何ら知識のないままうなだれて受け入れるしかない。だが、それだけでいいのか。アフリカで感じた悠久の時間とそれに溶け込んで暮らす人々の純粋さまで、植民地主義の産物であり、近代化の阻害要因でしかないとしていいのか?それは、今思えば、「人間と社会」とは何かという問いのはじまりであった。

 当時、高校から同じ大学に進み反原発運動や反公害運動に没頭していた友人がいた。どのようないきさつであったかはすでに忘れてしまったが、彼に水俣に行くことを勧められた。水俣病闘争の支援者たちが、現地で相思社という支援者自らが農業などを行いながら暮らす共同体をつくり、毎年夏に学生や市民を集めた合宿を行っていた。そこに、何ら予備知識もないままやってきたのである。
 しのぶさんたちに連れられて案内される水俣の道すがら、私はリュックからチョコレートを取り出しかじっていた。甘党だったのだ。隣を歩く女性に何気なくそれを勧めることで、「事件」が起こった。「あなたは水俣に何をしに来ているの!」怒気を含んだ女性の声に、周囲の皆が緊張してこちらを見た。森永のチョコレートだったのだ。
 今でこそ組織や集団のもつ宿痾のような非寛容に耐性もでき、かなりしたたかに対処できる術も身につけている私にとっても、その時はわけのわからないまま、いわゆる「糾弾」の対象になってしまったのである。その雰囲気は、夜間の交流会でも続いた。その時、今ではその内容も思い出せない私と他の参加者のやりとりをじっと聞いていたのが、相思社のリーダーである柳田耕一氏であった。
 農大を中退して水俣病支援闘争に身を投じた氏は、長身で痩せてはいるが日々の労働でたくましい筋肉と日焼けした肌につつまれ、しかし、いつも遠くを見るようなまなざしをしていた。宮沢賢治がこうではなかったかと思わせる風貌であった。

 その彼が、身近にあったビニールホースを膝の上でたぐりたぐりしながら、訥々と、しかし断固とした口調で語り始めた。あなたたちは水俣に来て、チッソを悪玉のように言い、水俣病の人々を無垢の被害者のように言う。しかし、チッソがこれまで日本でどういう役割を果たし、私たちの生活の何を変えたのかきちんと知っているのか。今私の手元にあるビニールホースは、こうして自由に曲げることができ、そのおかげで私たちは毎日の水くみの重労働から解放されている。これはオクタノールというチッソの発明がなければできなかったことだ。同じことは漁師たちの生活や、漁という仕事に使う網にも言える。チッソが私たちの生活を激変させた。私たちはその上にのって、チッソの糾弾を行っている。このことの意味は何か。チッソでこの技術を開発した技師たちは、おそらくあなたたちの想像も及ばない、あなたたちがもしかしたら生涯得ることのないかもしれない情熱と努力をもって、これを成し遂げたに違いない。その時彼らは人として最高に報われただろう。あなたたちはそれに匹敵するだけの人生を賭けて、チッソを告発し続けていくことができるか。その覚悟なしに、どうしてチッソという巨大企業と、それが象徴する現代社会の矛盾を追い詰めていくことができるのか。

 私たちの議論がどのような結末に終わったのか、記憶はない。気がつけば宴会になっており、当時はまだ飲み慣れなかった焼酎でしたたかに酔っていた。

 「あれ、あそこ、むこうが天草」と、しのぶさんが指さす。彼女の鉤のように曲がった人差し指のむこうに、不知火の海が夕陽を受けて静かに横たわっている。
 
3)精神医療、1984年4月

 「患者2人に死のリンチ/宇都宮の精神病院で看護職員/金属パイプなどで殴打」、机の上に投げ出された新聞の一面全部を占める記事の見出しが躍る。宇都宮病院事件。
 その直前、私たちは精神障害者実態調査という厚生省(当時)の行う調査が人権侵害であるとして反対運動を行っていた。精神科の研修医で金を出し合ってバンを買い、研修などそこそこにいわゆるオルグに全国をまわっていたのである。その勢いもあって、厚生省前座り込み、宇都宮病院前デモなど矢継ぎ早に行動に参加した。事件発覚の翌月5月には精神神経学会の学術総会が福岡で開催された。私たちは、バンに角材とベニヤ板、ペンキを積み込み早朝に会場前で立て看板を作り、会場に運び込んで、果ては開会式を壇上占拠する。
 精神科を積極的に志望したわけではなかった。水俣で医学の影をいやおうなく見せつけられてきた私は、医学部の勉強などまったく身が入らず、専門の試験はほとんど通らず追試追々試の毎日であったので、自然と落第してきた上級生とばかり親しくなっていた。私とちがって学生運動に身を投じることで確信犯的に落第を続けていた彼らは、当時結婚もして子どもがおり、落第も仕方ないかと思っていた私を卒業試験、国家試験の勉強会に誘ってくれた。
 そして彼らが言うには、京大精神科は学生運動の時代の影響が残っていて、教授という権力者がいない、精神科医は抑圧されている精神病者にとっては悪であるから仕事はしなくてよい、よって精神科に来れば君は子育てに専念していればよいとのこと。大まじめに語られる「精神医学=悪」論は、どこかに破壊的な魅力があった。なんであれ、悪に身をひたすことは魅力的である。私は、いともたやすくオルグされてしまったのである。

 こうしてわけのわからないまま入った当時の京都大学附属病院の精神科は、悠久の時が流れ、何にも縛られない楽園のようなところであった。戦前から入院しているという上品な老女がいて、毎日決まった時間に間延びした声でラジオ体操に誘う放送をする。躁状態で入院した造園業の社長が、せっせと院庭の老桜を蘇らそうと土を入れかえている。大正時代のモダン建築である分棟式の病棟に囲まれた中庭を、看護師に連れられて散歩する影のような人たち。
 そんな時間を過ごして一年、宇都宮病院事件が起こった。この事件は極端な悪徳病院が存在した、というものではない。精神病院というところが社会の差別を引き受け、それを暴力が蔓延する密室の中に閉じ込めてきたことの象徴であった。
 その目で見ると、研修医の私が当直によって生活の糧としていた病院も、大きく変わるものではない。そこでは当直など名ばかりで、朝になって夜のうちに保護室を使ったことや抑制したこと、果ては鎮静剤や睡眠薬を使ったことの報告を受けるのが仕事である。事あるごとに院内の患者間の、あるいは職員と患者の間の暴力について耳にした。宇都宮病院事件は、これが精神障がい者の側の問題でもなければ、一個の病院の問題でもなく、精神病院大国としての日本が抱えている構造的問題であることを明らかにしたのである。
 後になって、私は知ることになる。喧噪の大学病院から小さな通りを隔てて、鴨川に面した西の端、広々とした敷地に立つ精神科病棟。その時代離れしたたたずまいの南側には、何年か前に近代的に建て替えられた皮膚科と呼吸器科の病棟が、これも病院全体から独立して建てられている。それらは、遠ざけられていたのである。汚れを流す川の近くに。
 呼吸器科、皮膚科、精神科・・・それらはかつて、結核と、らい(ハンセン病)、そして精神病であった。

 精神科病棟の中庭のベンチの前には、小さな池と噴水があった。そこだけ時間が止まったような陽が高く静かな真昼どき、老女が彫像のように虚空を見つめて立ちすくんでいる。老女の時は、あの戦争のさ中、娘の頃、ここに入院となった日から止まっている。真昼の陽ざしを断片にして撒き散らしながら、噴水は高く低く身をよじっていた。

4)1957年のピンボール

 日本は、精神病院大国である。35万ベッドという精神科病床の数は、日本のすべての病院ベッドの4分の1を占める。人口10万人あたり29という数字は、世界に類をみない。しかし、昔からそうだったのではない。精神病院は、国策としてつくられたのである。
 明治の開国以来、富国強兵を追って福祉国家たることを顧みなかったこの国は、敗戦によってさらにすべてを失う。朝鮮戦争特需を経て戦後復興のとば口に立ったとき、この国が選択したのは、産業構造の転換のために都市への人口流入を促し、そのために足手まといとなる障がい者を施設に閉じ込めることであった。
 こうして、知的・身体障がい者とともに、もっとも数の多かった精神障がい者の精神病院への隔離収容がはじまった。1950年以前にはこの国にまばらにしかなかった精神病院が、それ以後突如として増加し、1974年までの高度成長期の間に800近くの精神病院、つまり現在のほとんどの精神病院が新設されている。国はこれに積極的に融資するが、乱造される病院の医師・看護者定数を満たすことができず、医師・看護者数の定数を半数以下でよいとする事務次官通達を出す。いわゆる医療法特例である。1958年に出されたこの通達が、今日まで精神病院の治療なき収容という体質を決定している。
 満足な医療も保証できないまま経済的に優遇されて乱立する精神病院に対して、医師の利権団体である医師会会長の武見太郎ですら、精神病院の経営者を牧畜業者と呼んだ時代であった。ましてや、都会の根なし草となりながらも明日の成長を夢見てつつましく暮らす都市流入民にとっては、精神病院とはその落伍者の収容所である。彼らは、「悪いことをすると黄色い救急車がきて××精神病院に連れて行かれるよ」と子どもを叱る、都市伝説の作り手となった。

 人々が未来を信じていた時代、というコピーでヒットした映画「ALWAYS─三丁目の夕日」の舞台は、1958年の東京下町である。すでに都市部富裕層は戦後の混乱を脱して、石原慎太郎の「太陽の季節」に描かれたような快楽を享受できる若者層が生まれていた。この小説が1956年。つまり、この国の庶民層のすべてを巻き込んで驀進していく高度成長は、1960年直前のこの数年にはじまるといってよい。
 1960年、池田勇人内閣によって高度成長路線は確定的となる。池田内閣は「所得倍増計画」によって国民を引きつけながら、農業基本法と全国総合開発計画によって、日本の国土を大々的に再編成していった。その結果、日本の圧倒的多数であった農民はまたたくまに大量の賃金労働者となって都市に流入し、内陸農村部の衰退と沿岸都市部とそれを囲む工業都市の独占的な繁栄がもたらされた。
 1960年代、こうして生まれた農村部の棄民と都市部の流民によって、次々につくられた精神病院の閉鎖病棟が満たされていった。この行き着いた先が、宇都宮病院事件だったのである。

 1957年生まれの私がものごころついた時、時代は高度成長へと離陸し加速をはじめていた。小学校にあがった頃には、周囲の空き地や田畑は急速に公団と団地に変わり、生徒数が劇的に膨張した。近くには被差別部落があり、在日の人々も多い場所であった。運動神経ゼロで昆虫採集と怪獣のオタクであった私を、面倒のかかる遊び仲間として受け入れてくれたのは彼らであった。だが、両親は明らかにそれを好ましくない目で見ていた。その視線が、疎外と孤独という感情を私に親しく身近なものにした。
 その後、子どもたちの内面にまで浸透しつくしていく上昇志向に煽られ、私は彼らと疎遠になっていく。しかし、彼らへのかすかな罪の意識と、自分の立場への居心地悪さの感覚が、自分の社会的所属に安住できない私の性癖を、今でもどこかで呪縛している。

 世界は冷戦構造を軸に大きく転回していた。核開発でソビエトに後れをとったアメリカは、原子力の平和利用とその国際的管理を謳うことでイニシアティブの奪回をはかった。それに追随した日本政府は、日本人の核アレルギーを除去するべくマスコミと組んだ原子力平和利用のキャンペーンを矢継ぎ早に行った。
 そうして1957年、東海村に日本で初の原子炉が点火した。
 1959年、奇病として騒がれていた水俣病の原因が、チッソ水俣工場から排水される有機水銀化合物であることが判明する。しかし、このことを報告した厚生省水俣病食中毒部会の報告は、当時の通産大臣で後の首相となる池田勇人によって否定される。そのため、有機水銀の排泄はこの後9年間にわたって日本全国で増加し、水俣では被害の範囲が広がり新しい患者が発生し続けることになった。
 9年後の1968年、政府は有機水銀排泄物が水俣病の原因であることを正式に認めた。唐突とも思われるこの転換の背景に、技術革新によってこの年までに全国のアセトアルデヒド関係工場がすべて生産を終了したことがある。企業の生産効率が人命よりも優先されたのである。
 そして、2011年。私たちはこれと同じ構図を、東海村に原子の灯がともった1957年からめぐりめぐって、福島にみることになるのだ。

 「私たちに一体どこに逃げろと言うんですか!」
 電話の向こうで悲痛な抗議が上がる。「県内の避難所では精神障がい者であるからと差別される、県外に行けば放射能がついているからと言われ別室に閉じ込められる、風呂も行けない、トイレも別、私たちはここにいるしかないのよ!」3月11日からほぼ10日、震災以後途切れていた福島県双相地区の人々との連絡がようやくつながった。原発近辺の精神病院が閉鎖してしまい医者のいなくなった地域に、訪問による支援を中心とした地域精神医療をつくりたい、何らかの協力をしてほしいと、南相馬市で精神障がい者グループホームを運営する女性から私のもとに電話があった。原発は未だにどうなるかわからない、そこにとどまることを考えるよりも今は避難すべきである、精神障がい者をこれ以上災害弱者にしてはいけない。切迫した電話の声に無事を喜ぶこともできないまま、そう説得する私に、彼女は被災者として張り詰めきっていた神経をいきなり破裂させたように怒りをぶつけてきたのである。
 放射能による健康被害は確率的に人々を襲う。もしかしたらないかもしれない健康被害を避けるために生活を崩壊させるか、これまで営々として築いてきた生活を守ることによって健康を損なうことも覚悟するか、3・11は、およそ人間に決断することの不可能な選択を福島の人々に迫ったのである。不可能でありながらせねばならなかった決断を下した人々を前に、私は何ができるか。この地に避難してきた人々に対して何ができるか、彼の地に踏みとどまった人々に対して何ができるか。そして、そのような状況を作り出したこの国の文明と、ひたすらに自らの延命のみを考えているこの国の権力に対して、何ができるか。

 私がそこで生まれ育ち、人々と出会い考えてきた戦後日本という場所の歴史。それは、高度成長のエネルギーをたわわに貯め込んだ日本というピンボールマシンの、永遠にリプレイし続けるゲームにみえる。激しく衝突しながら明滅する電気仕掛けのゲーム・フィールドは、華やかでもあり虚しくもある。

   わたくしといふ現象は
   仮定された有機交流電燈の
   ひとつの青い照明です
   (あらゆる透明な幽霊の複合体)
   風景やみんなといつしよに
   せはしくせはしく明滅しながら
   いかにもたしかにともりつづける
   因果交流電燈の
   ひとつの青い照明です
   (ひかりはたもちその電燈は失はれ)
(宮沢賢治「春と修羅」序より)

 この国の近代が明け初めようとしていた時代、自己というものが一過性の、何かの仕掛けによって映し出されたものにすぎないと、すでに気づいていた詩人がいた。<自己という現象>をともしていた「有機交流電燈」という仕掛けは、それから一世紀とたたぬまに、この社会の制御を超えたものとなってしまった。
 私もまた、この時代の舞台に弾き出されたピンボールのひとつとして、その巨大な力に翻弄されながら、かすかに明滅する現象にすぎぬのであろう。しかし、この<わたくしといふ現象>である私自身の身体と精神が、近代の終わりより先にやがて消滅するのは確実だとしても、水俣、福島、そして精神医療というフィールドに生起してきたことどもの意味を、見失わないでいたい。

 

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