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酒と本の日々:野口裕二「ナラティブと共同性 自助グループ・当事者研究・オープンダイアローグ」

【野口裕二「ナラティブと共同性 自助グループ・当事者研究・オープンダイアローグ」(青土社;2018)】
~「愛」の体現としてのオープンダイアローグ

シンポジウムの素案が固まったので、次の原稿の準備へ。オープンダイアローグについてはあくまで一翻訳者と言いながら、次々来る原稿依頼に応じて乏しい内容を絞り出していると、自分の頭が干からびてくるのがわかる。脳は皺が増えるのは歓迎らしいが、ひび割れができるのは困る。それでこの分野の先達の本を読んで、ちょっと潤しておくのだ。

ナラティブの専門家の目からみてのオープンダイアローグの新しさは、1)ソーシャルネットワークの再生を直接目指す点、2)物語を編むのではなく、いまだ語られたことのない経験に言葉を与えることを重視する、そして3)「愛の感情」を重視する点であるという。
前2者、特に1)は私のオープンダイアローグへの傾斜のきっかけとなったことであるし、2)は原書を翻訳するなかでそこがキモなのは理解していた。しかし、3)を「愛」という表現のままで重視したのは、おそらく野口が最初で、しかもそれにこだわり続けているのが本書を読むとわかる。
確かに、専門的な分野で「愛」などと正面切って言われるとギクッとして、ちょっと照れて、それから後ろに隠してしまいたくなるので、これがあまり注目されたり議論されたりしないのは、よくわかる。

野口は、それをさまざまにパラフレーズしていくが、最後に次のようにしたためられている。「愛が重要だというと「愛」をもって患者に接することが大事だという誤解が生まれそうだが・・・もちろんそういうことではない。「愛の感情が、専門職を含むネットワークメンバーの間で交わされ共有されるときに変化が起こる」ということである。つまり「愛」は個人に求められる属性や資質ではない。ミーティングがうまくいったときに結果としてその場に流れるものであること、そして、それが私たちにとっても大切なものであることをあらためて確認しておきたい」と。

先日、昨年 (2017年) のオープンダイアローグ基礎コースを経験したスタッフと急性期で怒りに満ちた患者のところに同行した際、いきなりリフレクティングをふられたのであるが、うろたえた私はつい、リフレクティングで患者の状態の評価をしてしまい、彼の感情に寄り添うことができなかったので、患者が怒って家を出て行ってしまうという大失態をおかしてしまった。リフレクティングの相手は上手に話をふってくれていたにもかかわらず、である。さほどにミーティングの中で流れる感情を共有し、それを信頼と安心の感情に高めていくのは難しい。おそらく私はまったく専門家の鎧を脱ぐことができていないのだ。そしてそれは私のように一翻訳者にとどまっていてはできないことなのだろう。

野口の紹介につられて、セイックラの原典である「治療的な会話においては何が癒やす要素となるのだろうか 愛を体現するものとしての対話」(斎藤環の訳がある)を再読してみた。最初あまりピンとこなかったところが、おそろしく困難な、しかしオープンダイアローグを理解するために到達しなければならない大きな意味があるとわかってきた。
ナラティブからの歴史と当事者研究や自助グループまでの射程の中でオープンダイアローグを論じている本で、これからオープンダイアローグを知りたい人たちにその一助としてぜひ目を通してほしい書物である。

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