孤独、ひとり、そして・・・自由。         妄想的松重豊論

He is back.
『孤独のグルメ・シーズン10』がまもなく始まります。
そうあの井之頭五郎さんが帰ってくるのです。
もう制作されないのでは?という噂が流れたりで
やきもきしてきたファンとしてはうれしい限りです。

そんな孤独のグルメですが、
実はここ2,3シーズンはちゃんと最後まで観ていません。
観るのは五郎さんに食事が提供される所まで、その後は観ていないのです。

心の声とともに展開される五郎さんの食べシーンは
「飯テロ」とか「夜食テロ」と呼ばれ、誰もが楽しみにしつつも、
うらやましさに苛まれ、身もだえしながら「アー食いてぇ」と呟きながら
観る、まさにドラマのハイライトシーン。

でもグルテン不耐症に加え、卵と乳製品のアレルギーで、
この番組で紹介される食べ物の多くが食べられない身には、
「飯テロ」として湧き上がる感情とは別の感情がちょっと重たいのです。
それじゃ「見なきゃいい」ということになるのですが、
途中までであっても、どうしてもこの番組は見たいのです・・・。

毎度毎度、お客さんに振りまわされ、ようやく仕事が終わりホッとすると、
ハッと「腹が減った」ことに気づき、必死の形相でスーツ姿の紳士が、
旨そうな店を求めて探し回り、やっとこさ見つけた店で、
周囲の人たちの顔色を伺いつつ、メニューと睨めっこし、
揺れる心と自問自答しながらオーダーし、ようやっと食事にありつく。
その間の、松重豊さん演じる井之頭五郎の表情のひとつひとつや、
心を覗かれたような一人言に心を引かれるのはボクだけではないでしょう。

そう実はボク、松重豊さんのファンなのです。
多彩な役を演じる松重さんの中でも井之頭五郎はもちろん別格ですが、
アレルギーの精神的悪反応(?)で食シーンを観ないのは、
ボクからすれば、「観ないのはもったいない」のではなく、
食シーンなぞなくても「松重豊の世界に浸れば充分」なのです。

そして最近、そんなボクの松重豊愛に火を注ぐ役どころがありました。
それは連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』の伴虚無蔵です。

ご存じの方も多いと思いますが伴虚無蔵は、
京都条映映画村の切られ役俳優で、ひたすら時代劇愛を貫き、
常に着流しに侍言葉を話す、決して笑顔を見せない無口な男。
初登場の後、伴虚無蔵を説明しようとする言葉が「妙で珍妙」という
表現だったことからも、いかに特異なキャラか分かります。

虚無蔵は侍のような着流しに雪駄姿。
自分を「拙者」と呼び、別れの言葉は「ごめん」。まさに「妙で珍妙」な
存在にも係わらず、笑わせることも笑われることもないシリアスな役。
ただただひたむきに現代の侍道を貫き、一生懸命な若者を応援し、
主人公「ひなた」に人生の指針となる金言を与え続けるという、
大変難しい役どころ。

ここ数年のドラマでは、『顔芸』と言われる強烈な表情の演技が話題に
なりましたが、大げさを越えてさらにモリモリ盛る『顔芸』とは対極に、
ほぼ表情は排除し最低限の言葉しか話さないという、表現を極限まで
引きに引いた、孤独と信念と気高い誇りを併せ持つ、まさに「孤高」と
呼ぶにふさわしい求道者ぶりでした。

「孤独」「孤高」「ひとり」。
これらの言葉は、松重豊という俳優にとても良く似合います。

井之頭五郎は、食事を通して自ら「孤独」を選び「ひとり」を謳歌します。
そしてその姿を通して、それまで「寂しさ」や「侘しさ」の象徴だった「ひとり飯」を、誰とも群れない「ひとり」が生む自由さの象徴へと昇華させ、
コミュニケーション過多の現代に「ひとり飯」こそが、僅かな時間で気軽に出来る心の解放なのだと示したのです。

また伴虚無蔵は、ただひたすらに高みを目指し、誰もそばに寄せつけることなく、たった一人見えない敵と、何が勝利なのかすら分からない戦いを
続ける侍。伴虚無蔵が見せたのはまさに「孤高」という生き方でした。
意味もなく他者と自分を比較し勝手に疲れていく現代の人たちへ、
豊かな「ひとり」の世界がもたらす「自由」を体現して見せたのです。

「孤独」と「孤高」どちらも「一人ぼっち」になることではありません。
井之頭五郎の「ひとり」で食事をすることで生まれるほんの少しの解放や、
伴虚無蔵が他者と自分を比べることなく「ひとり」で道を追い求める中で
到達する無の世界は、「ひとり」を乗り越えた者たちへのギフトなのでは
ないでしょうか。

確かに「ひとり」は寂しい。
秋の夜長ともなれば、なおさら寂しい。
でも、キラキラ輝く灯りをロウソクの炎に変えて、
テレビ、携帯、音楽を消して、部屋の中で「ひとり」になってみる。
またはまっ暗にした風呂に入ってみる。
こうして「ひとり」を強く感じることで、
自分と、哀しみと、喜びと、思い出と、記憶と、今が見えてきて、
やがて全く違う感覚がおとずれる。
その時、見えてくるのは、今まで思っていた自由とは全く違う、
本当の自由なのだといいます。

まだ経験がないのですが、
坐禅は、坐って無を目指す中で、
さまざまな心の声を聴き、「ひとり」を感じ、
その先に待つ「自由」の世界へ入っていく、
という経験をするのではないだろうかと勝手に想像しています。

松重さんは、そんな「孤独」と「ひとり」そして「自由」を理解し、
自身の中の「自由という宇宙」に、井之頭五郎や伴虚無蔵を出し入れする
中で、寂しさや侘しさが匂う役を、唯一無二の人物へと昇華させていったと
思えてならないのです。
「孤独のグルメ」以降、多くの「飯テロ」ドラマが作られきました。
ても未だに「孤独のグルメ」を越える作品が出てこないのは、
そんな「自由」の存在の差なのかもしれません。

松重さんにぜひ演じて欲しい役があります。
それは江戸時代の禅僧「良寛さん」です。

情報飽和社会やコミュニケーション過多社会にとって「孤独」「孤立」が、
誰にものしかかる可能性のある大きな問題となりつつあります。
そんな時代において、「ひとり」を生き、物を持つことなく、詩や句、
書を愛し、子どもを愛し、酒を呑み、そして恋までもするという、
禅僧と思えない自由さの中で、風雅に優游と生きた良寛さんの生き方が、
心豊かな暮らしのヒントのひとつになる気がするのです

そんな禅の世界にも通ずる世界を、
松重さんがどう表現するのか考えるだけでワクワクして仕方ありません。

無理でも、夢でもいいのです。
想像をして楽しむだけでも幸せなのが、ファンというものですから・・・。

まあとりあえず、久しぶりの五郎さんを楽しみますか。


これは一ファンの勝手な妄想による勝手な思いをつづったものです。
ご気分を害された方、どうぞご容赦ください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?