#99 夢半ば (槌谷大河/4年)
新年あけましておめでとうございます。
筑波大学社会・国際学群国際総合学類4年の槌谷大河と申します。
今シーズンは筑波大学蹴球部にて主務兼選手という立場で活動させていただきました。
今回、部員ブログを書く機会をいただきましたので「夢半ば」という題で自身の人生について振り返りつつ4年間を終えた今の自分について書かせていただきます。
拙い文章ではありますが最後までお付き合いいただけると幸いです。
また大変勝手ではありますがここからは自身の心から出る言葉を大切にしたいため、最低限のラインを超えないように注意しながら自由な表現で書かせていただきたいと思います。
よろしくお願いいたします。
“プロになりたい”
幼いころからそう考えていた私が筑波大学を目指しはじめたのは中学3年生の頃です。
高校に入って一つ目の模試から志望校には筑波大学の名を書き続けました。
“プロになる“
サッカーに限らずこんなことを考える、もしくは考えた人はこの世に五万といるでしょう。今までもそしてこれからも、、、、
私もその五万といるプロ志望のうちの一人でした。
僭越ではありますがこのブログはそんなことを考えている、もしくはこれから考える、今までに考えた人に向けたものになるのかなと考えています。
話は中学三年生の夏、高校選びの時です。
プロになりたい、そう考えていた私は高校の進路決めの際に父親とぶつかりにぶつかりました。
人生の中で父親にあれほど食って掛かったのはあの時くらいです。何を言われてもなにをされてもその思いは変わりませんでした。
プロになりたい
だから、
サッカーが強い高校に行きたい
と言う私。
父親は数日後、40枚ほどのパワーポイントの資料を用い一対一で二時間ほどのプレゼンをしてきました。
中学生だった当時、
「何だこいつは」
そう思いました。
しかし
22年間を生きてきて私の人生のターニングポイントはこの時であったとはっきりと感じています。
その後の“自分”に最も影響を与えた出来事であり、これがなければ今までの自分も今の自分も存在していません。
プレゼンが終わり、父親に何を伝えたかったのか、細かく真意を確認することはありませんでしたが
「見聞を広め、目標のために正しい道を選び、常にこの社会において選択することのできる人間になれ」
ということを
親として人生における最初の大きな決断をする自分に伝えたかったのだと認識しています。
父の話はこんな構成でした。
プロになりたいのは十分わかった。
そのうえで
①そもそもプロとはどんなものであるかわかっているのか
②サッカー界という世界についての理解はあるか
③そこから逆算した自分の立ち位置は今どこにあるのか
④①から③を踏まえて今後についていくつの選択肢を持っているのか、そこから最適な道を選択できているのか
二時間にわたるプレゼンのすべてに触れることはできないためいくつかの具体例を挙げながら自分が何を考えその後どうしたかについて書いていきます。
①そもそもプロとはどんなものであるかわかっているのか
父のプレゼンの切り出しはこうでした。
プロとは
「その道において高い専門性と技能を持ち、その対価としてお金をいただく存在」
このように表現されました。
またサッカー選手に限らず弁護士も、医者も、パン屋さんも、同様にプロであり、
極論、プロにならなければ生計を立てることはできないと教えられました。
他にも、プロサッカー選手になるための具体的な手段(スカウト、トライアウト、昇格?)、契約形態(C契約からA契約に至るまでの詳細とその実態)、Jリーガーの怪我の発生頻度とその重さ、引退時期、プロサッカー選手としての選手生命、引退後の道など事細かに
この時から、
自分の“プロ”の概念はサッカー選手に限らない広い意味を持つものになりました。
また、強烈にプロサッカー選手を追い求めつつもそのキャリアを終えた後や他の道に進まざるを得なくなった時のために、広義での“プロ”になれる準備を並行してする、そんなスタンスへと変わりました。
そのためには
教育課程で習う座学を含めた広い意味での勉強は必須(社会の仕組み上道を選ぶために)であり、それまでに興味のなかったサッカー以外の多くのことに関心を持ち始めました。
そんな考えのもと生きてきた最終的な結果の1つが筑波大学蹴球部での主務兼選手という今の立場であると思っています。
続いて
②サッカー界という世界についての理解はあるか
ここでは当時の各クラブの財政状況などをもとにサッカーに関わるお金の話が中心でした。
各クラブの収益からそのクラブが抱えられる選手の人数やその年俸の配分や上限、移籍の話など、野球界や海外のサッカーリーグと比較しつつ日本でプロとしてサッカー界に入るということ、またその後のキャリアについてお金と人生という視点から学びました。
わずかではありましたがお金について教えてもらい考えたことで
大学生になってまでも自由にサッカーを続けさせてくれること、外で一人暮らしをさせながらお金のことは気にせずお前はサッカーを頑張れといってくれること、それがどれだけありがたいことか、その価値を理解することが出来ました。またそんな親を持てたことの幸せを感じ、それをエネルギーに大学の4年間を過ごせました。
そして
③そこから逆算した自分の立ち位置は今どこにあるのか
当時の自分は福岡県のトレセンに選ばれていました。
しかし、その現状がまだまだで、いかにプロから遠いかを思い知らされました。
大よその同学年のサッカー人口と新卒Jリーガーの人口から何人に一人の割合でプロになれるのか、その中から活躍しプロとして生計をたてられる人はどのくらいいるのかを数字で見ました。
またプロになる人はどのような道をたどっているのか、各高校や大学、クラブの下部組織などのプロ輩出数などをもとに具体的に実現性という観点からどの道を選ぶか、その考え方について説明されました。
思っているより遠く、感じるより厳しい世界であることを理解したことはその後のサッカーへの姿勢を大きく変えました。
曖昧だったサッカー界のイメージに色が付き、自分が進むべき道をより具体的に描き、それに自分を当てはめ、ズレと違和感を明らかにする。そしてまた自分を道に近づけようとするそんな日々を送るようになりました。
最後に
④①から③を踏まえて今後についていくつの選択肢を持っているのか、そこから最適な道を選択できているのか
①から③を踏まえて考えうるプロになれる道を出し尽くした後に、結果的に私は筑波大学蹴球部を目指すことに決めました。
国公立であるか(三人兄弟であるため)
サッカーが強く実績があるか(調べた時はJリーガー輩出数2位)
勉強ができるか
国際系の学部があるかどうか(もともと海外に興味があったので)
サッカー以外のことに触れることのできる環境はあるか
などなど多くのことを考慮すると自ずと筑波大学蹴球部の名前が出てきました。
さて、中学生のころにこのようなことを考え、ひたすらに毎日を生きてきた私ですが
先日、自身の選手人生を終える引退の日を迎えました。
19年の時間をかけて目指した道が途絶えた瞬間は自然と涙が出てきました。
親をはじめとするお世話になった方々への申し訳なさなのか感謝なのか。表現することのできない想いは涙を止めることを許してはくれませんでした。
五万といるプロを目指している人の中で、五万といるプロになれなかったものとして
私のサッカーは終わったのです。
夢を叶えるために夢を叶えることがいかに難しいかを理解し走り続けた日々。
何かが足りなかったのでしょう。
結果的に目標へと導いてはくれませんでした
が、自分が予想していなかった“力”と呼ぶにふさわしい何かを私にくれました。
考えに考えた毎日、心の中で何かが爆発するゴールの瞬間の記憶、悔しくても毎日歯を食いしばりながら共に走った仲間、コロナに狂わされた今シーズン、、、
そのすべてが、4年間のすべてが
夢を断たれても、どれだけ悔しくても、自分が明日へと向かう活力になっています。
ありがとうございました。
今はこの言葉しか出てきません
長くなりましたが最後に、
実際に会って話をしたことはありませんが早稲田大学より来シーズンザスパクサツ群馬へ加入しプロになる阿部隼人選手がこうおっしゃっていました。
「そして何より、私と同じようにプロサッカー選手という夢を歩み、その道半ばで諦めることになった同志たち、そんなサッカーに生きてきた多くの人の想いを背負ってプロキャリアを歩み出していきます。」
早稲田大学ア式蹴球部公式サイトより引用
http://www.waseda-afc.jp/news-men/99391
このコメントには心打たれるものがありました。
これからプロを目指す人がその歩みをより一層強くする。そんなプロになってほしいと陰ながら心より応援しております。
そして自分も
サッカーという世界から戦いの場を変えて
また“プロ”になるために走り出します。
大学時代、負けそうな試合の時にも何回も言ってきました
まだまだこっから
まだまだ夢半ば
拙い文章ではありましたが最後までお付き合いいただきありがとうございました。
今後とも筑波大学蹴球部をよろしくお願いいたします。
筑波大学蹴球部 主務
社会・国際学群国際総合学類4年
槌谷大河
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