ロリコン者の自戒について

◆前置き

時折言及する事だが、オレは高校生の頃からロリコン及びショタコンを自覚している。
最近よく見かける語彙でロリペド(小児性愛)と言えばわかりやすいか。

実を言うと、自分の好みがどの括りに入るのか、高校まであまり自覚していなかったのだ。
しかも、4歳の時から自分の性別(女)は間違っている、自分は男なのだと自覚している。

本来のオレはこの形状とは違う。
赤いランドセルを買い与えられ、スカートを履かされるのは嫌なんだ。
だが、家族含めて周囲は、誰もそういう前提で生きてはおらんから、オレが何を言っても全てが糠に釘だし、何もかも無理強いされてしまう訳だ。
オレの事なのに、オレ当人には何一つ選択権は無いのだよ。
こうなると、自分が何者なのか把握しないと不安じゃないか。
お陰様で、己が疑念の答えは自力で調べる、そういう習慣や自律指向が思春期までには身についていた。

◆主題

視覚表現を主な食い扶持の技術として行きたかったオレは、中学2年生の頃からクロッキーブックとB2鉛筆と練りゴムを持ち歩き、主に学校内で勝手にヒトを描く様になった。

そして、描きたいと思う人物が特定の同級生女子一名に絞られて来て、コレは一体何なのだろうという疑念が生じたのだ。

その子は、まるでルノワールの絵画から抜け出た様なリンゴほっぺの持ち主だったのだ。

今にして思えば、見た目の好みに他ならないのだけど。
だって、そこに対人型の性欲は含まれていないのだもの。
いやいや、その同級生をどうにかしようとか、全く考えもしなかった。

さて、高校生の3年間(1981〜1983年度)が丸ごとロリコンブーム及びショタコンブームと重なっていたため、オレは小児性愛を自覚出来た訳ですが、それにしても己が性癖を多少客観的に把握しないと気が済まなかった。

それで、まずは基本をおさえなくちゃいけないと考え、原点であるナボコフ「ロリータ」を読んだ。

ニンフェットには年齢制限がある。
だが、己が欲望を最優先しヘイズ一家を破滅させたハンバート教授は、自ら定めた年齢制限まで度外視してドロレスヘイズ(愛称はロリータ)に縋り付き、最終的には全員が共倒れとなる。
文体は美しいが、主人公が余りにも自分勝手な話であった。

そして、ハンバート教授みたいに勝手な奴になるまい、その為には実物に手を出してはならないという自戒を持った。

ロリコン漫画誌レモンピープルを愛読しても、ロリコン写真誌プチトマトには手を出さなかった。

そんなお手軽に生身のお子さんを消費したらいけない。

自分個人の欲望を満たすために、他者を潰してはならない。

元々性欲を含まないロリコン者であるオレは率直にそう考えたし、だからこそ別の文脈で平然と、ロリコンエロ漫画を読んでいられたのだと思う。

◆謎解き

これは免罪符を欲していたというよりも、当時はエロ表現に鈍感過ぎて、エロをエロだと思っていなかったためである。

同時期にヤングジャンプなどの青年漫画誌も読んでいた訳だが、池上遼一先生作品について、同級生から【アンタはエロ漫画じゃないって言うけど、これはエロ漫画だよ!】と指摘されてもピンと来てなかった。

性交場面があっても、劇画はエロ漫画と思って見ていなかったのだ。
オレはそのくらい大雑把で鈍感だったのだ。

また、生身の裸体を見たいともあまり考えておらず、知らない文化や他者の表現を吸収する手立てとしてレモンピープルを愛読していた面がとても大きかった。

千之ナイフ先生の和風美少女、牧村みき先生の引用と西洋ボンデージ、谷口敬先生の物語に流れる社会問題、内山亜紀先生の守備範囲などなど、漫画表現のさじ加減のお手本でもあった。

そこに流れたのは何でかっつーと、少女漫画特有の大きな瞳がキラキラした絵柄が許容しがたいというオレ個人の問題が最も大きい。
はい、自分の好みや許容範囲の所為だから、作家先生たちの責任ではありません。

◆枝葉末節?

ところで、ショタコンの方はどこまで追求したのかと言うと、三島由紀夫作品を幾つか読み、そこから先は余り深掘りしなかった。
JUNEやアランは何冊か、一応読んだ事は読んだ。
風と木の詩もクラスで回って来た時に一通り読んだ。

この分野は性表現が扇情的に過ぎるため、かえって詰まらないと思い、当方は引いてしまった。

ショタコンの語源・鉄人28号や正太郎ともあまり関係なく、本筋から外れているとも思ったし。

三島由紀夫「仮面の告白」や「午後の曳航」や「金閣寺」の方がよっぽど意外性のある面白い作品だ、という基準も既に持っていたし。

作品に感情移入して一緒に酔い痴れていられるのか、それとも、性的な酔い痴れっぷりを滑稽だととらえるのか、その分岐点に差し掛かる度、自分に対しても疑問を持っているオレは、どうしても後者になってしまう。

本当のオレはこの形状とは違う。

この疑念から生じた探究心を内外に向ける姿勢が、どれだけ己を制し、己を守って来たのか。
その全体像については別の話ではあるけれど、小児性愛ひとつだけ抜き出すなら、オンドレを律するのに役立ったとしか言いようがない。

拗らせも防具として役立つ事があるのだろう。

◆萌えの定義

ところで、性欲のない目線で女児を愛でるあり様を萌えと呼ぶらしいですね。
萌えという概念はオレが中高生の頃は存在しなかったけれど、ロリコンとしてのオレのあり様はまさしく萌え定義に当てはまるではないか。
そのように痛感したのは先日、他の調べ物で町山さんのブログを漁っていた最中の事だった。

柳下毅一郎さんから萌えの定義を聞き、性欲を持たずに女の子を愛でる姿勢が萌えであるなら、自分の娘に対する愛で方は萌えと同じなのか?と町山さんは疑問に思い、そこでそのブログは終わっていたと記憶している。

今も漁ったけど、当該ブログはそう簡単に再び出て来てくれなかった。

未消化な感じだが、今回はここまででいいかな。

※宮崎勤の事はまた別の機会に廻します。

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【奥付】

ロリコン者の自戒について
2019年11月8日初版発行
記憶・考案・記述・権利保有
©夙谷稀

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#萌え


アテクシは一介のサブカルクソ野郎で結構で御座いますよ。