見出し画像

「私たち」は思ったよりいる

「え…!すごいわかる…。そういう風に感じて生きてる人、ほとんど会えなくないですか?」
「こんなに大事にしてるポイントが自分と同じ人、初めて会った…!」
そのようなことを、縁あった人たちによく言われる。
確かに、私たちみたいな感覚で生きている人はそんなに多くないのかも。そしてみんなどれだけ孤独を日々感じながら生きてるんだろう…!
あったかい豆スープを差し入れたくなる。

そう、裏を返せば、私は「私たち」みたいなタイプの人が、常に何人か周りにいたのだ。
それがほんとにめぐまれていることなんだ、とみんなの話を聞くと思う。

みんな悲しみを1人じっと受けとめながら、自分の守りたいものを密かに大切にして。誰にも共感されないポイントで1人傷ついて。清潔に関する考えが1本あって。
だから「分かる」がほんとに分かちあえると「孤独だった」と思い知る、それがまだならそんな出会いに恋い焦がれる、見ているとそんな感じだ。

私は、思ったこと(そしてそれは多くの人が思うわけではないこと)をそのままぽんと口から出しても、ある程度まで理解し、分かってくれる人が近くにいた。少ないことはよく分かっていたが、たまにいるよ、くらいにはいた。
人に全部分かられなくても、星と海と樹は全部知っていた(分かるとかではなく、ただ知ってくれているだけ)。
そして「私の大事にしているものにピンとはこないだろうけど、私は勝手にあなたの生きてる様子を見るのが好き。そしてなぜか知らないがあなたも私を好きなのね」という人たちが、いた。
基本は人ってみんな違う、でもその人の美しいものが分かる瞬間がある、ほんのちょっとだけでもお互い目が合う瞬間がある、それだけで嬉しい。

だから、感覚的に近い人と会えたとき
「やっぱりいた!そうだよね、ああ嬉しいなあ、やっぱ人生ってすごい」
という気持ちになる。
気持ちの一極集中の有無と切実さのレベルが、目の前の相手よりももう少し軽い感じだ。

そのことには本気で感謝している。めぐまれてるんだ、私の今回の人生は縁にすべての持てるものを注いでくれたんだと思う。
会うことになっている人にはちゃんと会える人生だと信頼できる。

でもきっと、大きな目でみるとみんなそうなんだとも思う。
今は多くなくてもこれから少しずつ会えるから。
今は「うわー」って思う人たちのことも、意外と良いとこあるなってほころんだり、もっと「うわー」って思うようになったり、どうでもよくなったり、するから。
言葉はうまく使えなくとも、目と目だけで通じ合う何かがある人が、なぜか出てくるから。
そういうもんじゃない?じゃないときっと人生って説明つかないよ、という気がする。

昨夜はTさんと一駅歩いて帰った。
たくさん話を聞いて、して、
神さまよくこんな真っ直ぐ育つのを見守ってくださいましたという気持ちになりながら、
業務中私語はあまり交わさないのにお互い交換してきたものの多さに驚きながら、
とても夜道がきれいだった。

「このまま真っ直ぐ生きてると、会えるようになってるんだと思う」
と下手くそにいった私、
「今夜はその言葉を持って帰りますね」
と乗り換えで降りたTさん。
神さま、何もしなくていいんでTさんのことこれからも見守っててください、と心から祈った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?