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〈禅寺・修行道場の台所=典座〉

今日は私、キー坊の本山での修行中のお話しをしたいと思います。
以前の記事でも投稿致しましたが、わたくしキー坊は昨年3月より横浜市鶴見区にある曹洞宗・大本山總持寺に7ヶ月間「雲水」、つまり修行僧としてお世話になっておりました。



ご存知の通り曹洞宗は鎌倉時代に道元禅師をご開祖様として広く普及された、坐禅を修行の根幹とする日本の禅宗の一つです。
他にも禅宗と呼ばれる宗派は幾つかありますが、曹洞宗の大きな特徴は「日々の生活の所作、一々が修行そのもの」という教えを大切にしている点ではないでしょうか。

朝目が覚めて、夜布団に入るその瞬間まで、例外なく道場内の雲水全員に日々厳しい作法と戒律が課せられています。
起床時間は勿論のこと(概ね4時振鈴)、歯磨き、洗顔、東司(とうす=トイレ)、浴司(よくす=入浴)、食事、着替え、就寝に至る全ての行いに事細かな作法が決められていて、それらに則って1日の生活がすすめられていきます。


その中でも曹洞宗が最も重要な行と位置付けているのが「飯台」と言われる一日三回の食事タイムです。
いわゆる精進料理と聞くとどうしても「肉・魚を殺傷しないで古来の調理法で作る料理」というイメージが先行しがちですが、修行道場内では頂く側の「頂き方」も精進料理の大切な要素として考えられているのです。
つまり禅宗では、食事=投薬(療養)と捉えていて、単に自分の空腹を満たす為にとどまらず隣人他者から受け継いだ命を繋げていくための〈供養〉という精神が「精進料理」の大きなテーマになっています。
道元禅師自身も飯台中の作法については坐禅とほぼ同じモチベーションで弟子達に厳しく語り継いでいる様子が伺えるのです。

修行僧にとってそれくらい重いウェートを占める「食」という供養。
当然ながら毎食それを提供する作り手側の厨房にも、極めてハイレベルな作法や規律が設けられているのは言うまでもありません。

修行道場の料理番(台所)を司る役職、すなわちそれが「典座」であり、そこに携わる者達の心得や作法を事細やかに記した著書。
これが冒頭の〈典座教訓〉になります。

その内容は食材の扱い方や調理法だけにとどまらず、衛生管理や調理器具の管理法、季節ごとのレシピの作り方に至るまで信じられないほど多岐にわたっての教えが記されており、現代の料理人にも通ずる基本的かつ普遍的な「料理人バイブル」と言える内容のものになっています。

典座教訓の冒頭の一節に「典座の一職は是れ衆僧の弁食を掌る 若し道心無くんば徒らに辛苦を労して崋竟益無し」とあります。
意味は「典座の職に就く者は仏道を求める心に篤く、師と仰がれるような立派な努力者でなくては務まらない」
「仏道を求める気のない者が典座の職についても、いたずらに骨を折るだけで、つまるところ何一つ得るものはない。」などと訳されています。
つまり道元禅師いわく、
「食べるのも修行、料理するもまた修行」といったところでしょうか。

前置きが長くなりましたが、上山してまだ一ヶ月も経たない時期に、この典座のお役目を私が仰せ付かった時には、つくづく食に縁がある宿命だなと感じたものでした(笑)。
「粉骨砕身、修行に打ち込む雲水達の心と身体を供養して、その功徳を生きとし生けるもの達へと廻り巡らす。」
ある意味恵まれた修行環境にある大本山という道場内では当たり前のことかもしれませんが、これを雑念の多い実社会で日々実践するとなると返って至難の業かもしれません。

しかしその厳しい環境下で達成してこそ真の修行が成就する、という考えが釈尊から脈々と続く仏教の大幹ではないかとキー坊は受け止めています。

すぱいすキッチンゆいま〜るの約一年ぶりの本格再開が、満を持していよいよ4月9日に迫って来る中、心身共に機は熟した、という高揚感に満ち溢れている今日この頃です。

禅寺の典座という、滅多に携われない経験をもとにして、さぁいったいどんなスタンスで、どんなメニュー構成で再開の舵をきるのか?
それとも何も変わらないのか?

次回の投稿でそのあたりをお伝え出来たらな、と思います。

最後までお読み頂きありがとうございます🙇‍♂️
      聖人   九拝

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