こころ花火を見よう!

なぁ!!!
いま!こころで花火を見れているか!?!
炎色反応がどう、みたいな、しゃらくさい小ネタを意気揚々と語っていないか!?!

大前提、知識が見えるものの数を増やすよね!とか、楽しめるものの数を増やせるよね!
ってのはメチャクチャ同意してるし、だからこそそれを手助けする仕事に就いた。それに後悔もない。

でもいざ「花火を見る!」っていう時に「炎色反応」が強く入りすぎると、
せっかくの花火大会が「炎色反応という情報を反復する場」に成り下がらないか?

本来得られたはずのどぉんと身体に響く音だとか、色の弾ける光だとか。
ああ言ったものへの純粋な感動がこぼれ落ちてしまうような感覚が最近、ある。

もちろん知識で花火を見ていい。
それも楽しい。
でも、その前にいちど「心で花火を見る」を意図的にやらないと、もう「知識」を見ようとするスコープでしか花火を見れなくなり、本来得られたものをごっそり取りこぼしてしまう。

またそうして知識の「復習」として機会が与えられてしまうと、
今度はその場で本来得られたはずの問い、
たとえば「花火はどうしてまっすぐ上がるんだ」とか「なんで音は体に響くんだ」みたいな疑問の獲得さえ損なわれてしまう。ような気がする。

そしてこの「復習」性を外すのは、結構意図的にやらないと難しい。人はどうしたって、知ってるものを見出そうとしてしまうから。

だから一度、炎色反応とか全部無視して花火を見たほうがいい。
炎色反応のことなんて、ナイアガラあたりのダレてきたときに考えたらいい。
こころで花火を見ろ。


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