同期の日記を読んだ日記

同期(全然話さない)の日記を読んだ。
リンクを普通にポストしていたので、勝手に読んでどうぞ、ということだと解釈している。

私は彼、仮にA君とする。A君とは普段微塵も話さない。
A君は比較的活動エリアが近かった気もするし、そうではなかった気もする。かつて聞いたはずの自己紹介のかけらを手がかりに会話をしている。
そんなA君が日記のリンクを、それもかなりコンスタントに投稿しているのを見かけた。
ところで、私は人の公開された日記を読むことが、もっといえば日記を書く人のことが大好きである。
日記を書いて掲載する人というのは大変無責任だ。私も含め。
お店やさんごっこのように自分の話を並べて置いておき、興味があれば持って帰ればいいよとほったらかしているたくさんの皆さん。

私はXのポストですら「だれ」が「いつ」「どんな」状態なのかを四六時中追っており、友達が「最近ハマってるのが」と口を開こうものならカルタのように「Xでいってたこれ?」と打ち返せるからだになっている。
ほとんどご飯も食べたことのない相手ですら、投稿を舐め回しているせいでアレルギーや食の好みがわかるし、相手に興味があれば尚更のことだ。

Xよりも好物とするのが日記(ブログ)である。
日記(ブログ)としたのには理由があって、これが日記(エッセー)になるとやや好きではなくなってしまうのだ。
その違いを問われても難しいのだけど、個人的にはあまり研磨されておらず、あくまで自分のかけらをぼろぼろ落としてしまっているものが日記(ブログ)であり、他人の眼差しを意識したり、主題を設け始めると日記(エッセー)になるように感じられる。

前者は本当に無責任で適当で最高だ。
何かの話をするときに、あまり仔細に、詩的に説明なんかしなくて結構。
情景の描写なんて、ましてや美しい世界のことなんてまるで語らなくていい。自分の記憶の外付けデバイスのようにして存在する日記(ブログ)が一番に面白い。

その点、同期の日記はかなり、日記(ブログ)で嬉しかった。
彼のポストを見た方のアカウントは清らかで、同僚のFFもおり、間違っても就活にしくじった終焉の話などを載せられるところではない。なので一方的に私がA君のブログを楽しんでいる状態にある。
とはいえ、責任感もなくお店やさんごっこをしているお前が悪いので、仮に読まれたことに文句を言われたって知らないが。ばーか。
そんなことを思いながら過去分を見ていけば、普通に私より遥かに日記を書いており、やや悔しくなった。負けたよ。毎日書いてたの就活んときだけだわ。

ただ、一個、すごく嬉しくなることがあった。
私はこうしてブログを書く意味について、「無責任である」と同時に「責任を果たしている」と考えている。
私は私の自己紹介をしているので、もしも興味をもったのに読まなかったのなら、それは読まなかった方が悪い。私は自分自身の説明責任をいつも果たしていている。Xにだって何でも書く。
それは「お気遣い頂かなくて結構です」ということだし「つかいたいなら勝手にしてください」ということだ。
私の好物なんか気にしなくていいけど、気にすんなら書いてるから読んでください、ということ。ちなみにトムヤムクンと、コーヒーです。

嬉しくなったことに話を戻すと、A君もどうやら似たような思想で日記を書いているらしい。共通項を探したいし、みんなにも日記を書いてほしいのだそう。イイネ!

残念ながら私とA君の共通項はそんなになかったんだけど。
でも、君が読んだというその本は中学時代の私を京都の六角堂まで、下鴨神社まで、六道珍皇寺まで導いてくれていたし、私もイヤホンを洗濯しました。他にも幾つかあるよ。少しだけ話せるかもと思ってきたよ。


まあ、彼にここは読めないのだが…..(説明責任)。


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