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『京都・六曜社三代記 喫茶の一族』を読んだ。後日談

さて、前回書いた『京都・六曜社三代記 喫茶の一族』読んだことから書いた話には続きがある。

未読の方は良かったらこちらからどうぞ。

「店の名前は忘れたけど、お母さんとは千本中立売にあった東映の助監督が夫婦でやっていた無許可営業の喫茶店に良く行ったで。ロックが流れてて、なぜか料金はカンパ制でな。講義が終わって、その店に入ると銀のラメの入ったタンクトップを着た20歳のお母さんがタバコ吸いながら待ってて…」

父とこの話をした翌日に今わかっている情報から、父と母が行っていた喫茶店はどこだったのか検索して調べてみた。すぐに何件かヒットした。

「どらっぐすとぅあ」

多分ここだ。時代、場所、カンパ制だったことまで合致した。どうやら知る人ぞ知る伝説のロック喫茶/コミュニティで、この店に通っていた方々の思い出話を綴った記事やブログが何件か出てきた。

この店で出会った人々によって70年代後半に非常階段などのバンドが結成され、京都から日本のアンダーグラウンドミュージックやノイズミュージックのシーンの形成の一端を担っていたようだ。店は80年代前半にクローズしたが、当時ここに出入りしていた人々は活動を続け、世界でも評価され、その音楽は今でも脈々と受け継がれている。

店に通っていたのはこういった流れが生まれるより少し前だろうか。ふたりがプログレや前衛音楽が流れるディープなスポットに出入りして、当時の”ヤバい”カルチャー前夜の空気を思いっきり吸っていたと思うと嬉しいような心配なような、複雑な気分になる。いや、母はもともと西部講堂などで村八分の当時の公演を全て現場で観ていたような人なので、特に驚く事でもないのだけれど。

ここまで調べて父にLINEで確認すると返信が来た。

「正解。1972から74年頃やな、行ってたのは。今出川通りの郵便局の裏に下宿していた立命館の友達に連れて行ってもらって、そこでお母さんと知り合った。」

知り合った⁈これもまた初耳。

「そうや。ここの暗い絨毯の2階や。入口で靴脱いで。どらっぐすとぅあが無かったら、修平と由佳(妹)はこの世にいなかった。」

僕は父に😵の絵文字だけ送りつけた。

その日その時間に、その場所にふたりがたまたま居合わせたから、自分がいるということ。改めて考えると不思議で仕方がない。いや、あらゆる物事はそんな偶然が折り重なって成り立っていることもまた、わかってはいるつもりだけど。

『京都・六曜社三代記 喫茶の一族』にも奥野一家のもうそれは運命としか言いようのないような素敵な出会いの場面が綴られていて、この本の中でも大好きなエピソードなんだけれど、うちの両親のはちょっとアングラの匂いがするな…。まあそれもいいよね。

当時の京都に行ってみたいな。そんな気持ちで”どらっぐすとぅあ”で検索すると出てくる写真や、内装についてや、どんな雰囲気だったかなどの当時を知る人々の思い出話を読んでいると、イメージはどんどん輪郭を持ち、しまいには両親の運命の出会いの瞬間に立ち会ったような気すらしてきた。

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のマーティー・マクフライみたいな気分だ。


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