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【反論――《小指》だっつってんだろ】批評「仁菜は誰に中指を立てるべきだったのか――《ガールズバンドクライ》について」を読んで

Mercure des Artsに投稿された「ガールズバンドクライ」に対する批評記事「仁菜は誰に中指を立てるべきだったのか――《ガールズバンドクライ》について」を読んだ。記事の筆者はnoirse氏。

私には批評の作法はわからないが、思うところがあって本批評の感想を書いてみたいと思う。


●本批評の主旨

本批評は「ガールズバンドクライ」(以下、「ガルクラ」)に「根本的な欠陥」があるとしており、それは

・アニメ制作陣の「男たち」が自分たちの好みや「反逆の神話」「敗者の美学」といったノスタルジックなロックのイメージを、若い女性キャラクターに投影し押し付けていること
作品内では女性同士の対立が主に描かれることで、「男たち」に向かうべき仁菜の怒りの矛先が意図的にズラされていること

だとしている。そして仁菜が中指を立てるべき真の相手がいるとすればそれは制作陣の「男たち」であり「仁菜が怒り泣き叫んでいるのを楽しむ視聴者」でもあるというのが結論だと私は理解した。

●「批評」か「感想」か

筆者(noirse氏)の主張は、大雑把に言えば「男たち」が「若い女性(キャラや声優/バンドメンバー)」に自分らの世代のノスタルジーを押し付けてんのキモいみたいなことだと思うのだが、その主張が妥当かどうかは別として、作品外からの視点も加えた意見としていちがいに否定できない部分があると思う。

筆者の視点よりもうちょっと手前の本作の成立という根本的な部分について言っても「おっさんが主体となって若い女性を集めてガールズバンドものアニメの声優とバンドをやらせている」という構造は事実としてあるわけで、しかもこのような構造になっている理由には「商業的な需要が一定見込めるから」という側面があるはずだ。それをどう思うかとと聞かれれば、ぶっちゃけ私も「キモくはあるっすね」と答えるだろう。(ただ、同時にそれは「おっさんが主体で作られている美少女コンテンツ」全般に言えてしまうことではないかとも思う)

しかし、それはそれとして本批評には、ところどころ論理展開が雑で、かつ筆者の感想の域を出ない記述が散見されるように思う。
「批評」ってこんなカンジでいいんですか? 「批評」の標準が私にはわからないが、それにしても本記事の大半は「感想文」と言うべきものに思えるのだが・・・
もしこれが「感想文」であるなら、明らかな事実誤認などが無い限りはそもそも反論すべきものでもない。気にいらない部分があったとしても、「あなたはそう思うのですね」で済む話だ。
しかし「批評」としてお出しされたからにはどうしても看過しがたい部分がある。ありていに言えばハチャメチャにムカついた部分がある。

そのため、ここで自分なりの反対意見を述べたいと思う。単に反感だけでこのような文章を書いていると思われたくないので、本批評における「筆者の感想の域を出ない(根拠に乏しい)記述」についても具体的に指摘していきたい。

●1「中指」と言うけれど・・・

本批評の第一段落(本文には段落ごとに1~7の番号が振られている)に「すぐに怒りに燃えて中指を立てる仁菜」とあるが、作中にそんなシーンは無い。

すぐに怒りに燃えて中指を立てる仁菜の、困り者だが嫌いになれないキャラクターや、他のトゲナシトゲアリのメンバーの魅力などにより《ガルクラ》は人気を呼び、今期の話題作となった。

太字での強調はshuheiによる。以下引用部分については同様。

第1話では二回ほど仁菜が中指を立てるシーンがある(※)が、「怒りに燃えて」というわけではない。
そして第2話以降、仁菜は中指ではなく小指を立てるようになっている。ただ、これは中指を立てることの代替行為として生まれたサインなので「同じことだろ」という意見もあるかもしれないし、筆者もそう思ったのかもしれない。あるいは、ここでは作品の紹介が主目的で細かい説明を省きたかったのかもしれない。
よって一旦置いておくが、私は本作において「中指を立てる」ことと「小指を立てること」には大きな違いがあると思っている。詳しくは後述する。

(※)一回目・・・吉野家でルパと智に向かって。これはサインの意味が「ありがとう」であると桃香にウソを教えられたことによる。
二回目・・・ラストの駅前広場で「一緒に中指立ててください」と桃香に呼びかけるシーン。これも特に「怒りに燃えて」の行動ではないだろう。

●2「ルサンチマン」ではない

第二段落では「TO-Y」や「けいおん!」と比較して「ガルクラ」がジャンル的に退行しているという主張に加え、本作で仁菜(たち)が音楽に向かうための理由がルサンチマンにあると述べられているが、それは違うだろう。

この春は《ガルクラ》に加え、《夜のクラゲは泳げない》や《ささやくように恋を唄う》と、ガールズバンドを描いたアニメが3本あった。ところが3本とも、音楽に向かうための理由が「〇〇を見返してやりたい」という感情、つまりルサンチマンにあった。

ルサンチマンの定義を「強者に対する弱者の憎悪や復讐衝動などの感情が内攻的に屈折している状態。(デジタル大辞泉)」とするならば、仁菜は確かに屈折しているかもしれないが音楽をやるにあたって自身を弱者の立場に置いてなどいない。(そんなシーンがあったのなら教えてほしい)
100歩譲って〈「◯◯を見返してやりたい」という感情〉の部分は間違いではないかもしれないが、仁菜(たち)が音楽に向かう理由はそのように一口で言えるものではないはずだ。
例えば仁菜のバンド活動は桃香に誘われたことがきっかけで始まるが、次第にその「楽しさ」にのめり込んで夢中になっていく(※1)わけだし、桃香が仁菜をバンドに誘った理由は、主には仁菜が何にも縛られず歌っているのを横で聞いていたかったというもの(※2)だから「憎悪や復讐衝動」などでもない。
やがて仁菜のバンドにおける目的意識は「桃香(と桃香の音楽)は間違っていないということを証明したい」→「ダイダスに負けてないと言いたい」と具体化していくが、その点を指して〈「◯◯を見返してやりたい」という感情〉と表現することはできるかもしれないが、だとしても一面的な見方だと言えるだろう。

さらに以下の部分だが、

ルサンチマンで創作に向かうことはあるだろうし、そうしたモチベーションを否定するつもりもない。とはいえ、音楽に限らずモノ作りというものは、それだけでは長続きしないだろう。この3本を見ていると、音楽がルサンチマンのために用意された道具に過ぎず、別の表現方法でもよかったのではないかと思えてしまう。

「ルサンチマンで創作は長続きしないだろう」というのはもしかしたら筆者の経験談だったりするのかもしれないが、クリエイター一般に適用できる原則とは限らないだろうし、「別の表現方法でもよかったのではないか」という意見とのつながりもよくわからない。
仁菜が音楽に向かう経緯の描写(※3)に作品内での「必然性」という点でそんなにおかしなところはないはずだし、もしメタな疑問(そもそも何故この作品の題材が音楽なのか、といったような)だというならはっきりそう書くべきだ。
なおメタな疑問だったとして本作の題材が音楽ではなく例えば行商とか鬼退治とか他の何かが適していると言うのであれば、根拠とともにそれを提示すべきだろう。「動機がルサンチマンだから別の表現方法でもよかったのではないか」という言説は意味不明と言わざるをえない。

(※1)第3話冒頭作曲アプリに熱中しているシーン、第4話冒頭で前回のライブを振り返っているシーン、第7話ライブ前のMCでのセリフなどから。
(※2)第8話でダイダスのライブ中に、桃香が仁菜とバンドを始めた理由を語るシーンより。第2話の電車内や鍋のシーンで仁菜の声や鬱屈とした部分に音楽(バンド)への「適性」を見出しているととれるセリフもあるにはあるが、あくまで副次的な要素だろう。
(※3)アニメを見てもらえれば話は早いが、全話の感想をストーリーと合わせて書いているのでこちらで確認することもできます。

●3マッチョイズムと「男たち」

第3段落で筆者は「《ガルクラ》からは端々にマッチョイズムの片鱗を見て取れる。」としている。
ところが私から見てその意見はかなりの部分「こじつけ」のように思える。

筆者が「マッチョイズムの片鱗」として例示しているのは以下の要素だ。

・ルパのベースプレイ
・ファックサイン
・各話タイトルの由来となったバンド(ミュージシャン)のチョイス

順番に見ていこう。

・ルパのベースプレイ

たとえばトゲナシトゲアリのベーシスト、ルパのベースプレイは、90年代を代表するバンド、Red Hot Chili Peppersのフリーを意識していると思われる。彼らは時代錯誤なほどマッチョなバンドとして知られていて、メンバーは筋骨隆々、初期はステージですぐ脱ぎだすので有名で、全裸で局部に靴下を付けただけのジャケットも話題になった。

まずルパのベースプレイがフリーを意識しているというのは私からすると眉唾ものの意見なのだが・・・そうなんですか?
もしルパの演奏シーンを見て有識者が大半「これはレッチリのフリーだね」と言うのであればごめんなさいなのだが・・・
一応、リアルタイム検索やXでの検索で「ルパ」「ルパさん」「トゲナシトゲアリ」「レッチリ」「フリー」といったキーワードを色々組み合わせて検索してみたが、第11話のサウンドチェックのシーンについて「指弾きであの音はレッチリのフリー並み」としている筆者寄りの意見が1件、それとまさに本批評のこの部分について私同様に疑問視する意見が1件見つかった以外、そもそも「ルパのベースプレイのモデル」という話題自体、言及されている様子が(ネット上には)ほぼない。(※本記事作成時点)

レッチリにマッチョなイメージがあることは私も否定しないが、まず「ルパのベースプレイのモデルがフリー」という点からして筆者の感想の域を出ないだろう、いうことは言っておきたい。

で、どっちにしろ筆者の意見も私の疑問も両方「感想」なのでそこは一旦置いておくが、問題は以下の部分だ。

フリーは現役最高のベーシストのひとりで、派手なプレイも画面に映えるだろうし、モデルにしたいと思うのも理解はできる。だがたとえばトーキング・ヘッズのティナ・ウェイマスのように、テクニックがありプレイも特徴的な女性ベーシストも存在する。何故ルパのモデルは、マッチョなフリーでなければならないのか。

この記述には、私は相当な違和感を覚える。
まず、筆者の主張は単なる「感想」にすぎないにも関わらず、「モデルに~理解はできる」などと何故か大上段から評している。よほど自説に自信があるからかもしれないが、最後の「~でなければならないのか」断定的な表現を用いていることは、自信とか関係なくいただけない。これには筆者の見解が普遍的な事実であるかのように読者に印象付ける効果があるだろうが、こうした断定的な表現はフェアネスを欠いているように思う。

また、ティナ・ウェイマスを引き合いに出しているあたり、あたかも「ルパのモデルにするならより自然(あるいは適当)な女性ベーシストのティナ・ウェイマスがいるのに、なぜマッチョな(男性ベーシストである)フリーなのか」という論調のように思える。
「ティナ・ウェイマスのような女性ベーシストが存在するのに」というような書き方にはなっておらず、接続が曖昧な文章なので筆者の真意はわかりかねるが、もしこのようなことが言いたいのであれば、性別によってモデルを選ぶことが適当であるとでもいうような偏った視点が含まれているように感じてしまう。
当然、ルパのベースプレイにモデルがいたとして、それが女性だろうが男性だろうがどっちでも問題ないことは説明するまでもない。
よって「何故ルパのモデルは、マッチョなフリーでなければならないのか。」という問いには「誰もそんなことは言っていない」と答えたいと思う。

・ファックサイン

次にファックサインについてはこうある。

仁菜はすぐに中指を立てる。この行為はファックサインと呼ばれるもので、サインの形状がペニスの見立てであることに由来する。もちろん女性ロッカーやハリウッド女優など、女性でも中指くらい平気で立てるが、《ガルクラ》のようにそれを繰り返し何度も強調させ、キャッチーなイメージとして押し出してくると、首を傾げてしまう。

先にも少し触れたが、仁菜は第二話からは中指ではなく小指を立てている。「中指」と書き続ける筆者の意図はわからないが、私にはかなり雑な記述に見える。この「小指を立てる」ことの重要性についてはやはり後述するとして・・・「繰り返し何度も強調させ、キャッチーなイメージとして押し出してくると、首を傾げてしまう。」という部分について考えたい。

筆者の主張はつまり「男性器の形状に由来するファックサインが繰り返し登場するのはマッチョイズムの片鱗に見える」ということかと思う。

何度も言うが繰り返し登場するのは「小指を立てるサイン」であって、そもそもあれを「ファックサイン」と呼ぶべきかどうかは判断が難しいところだ。しかしそれで筆者の意見を「間違い」だと否定するのもやや屁理屈じみているので、一応「小指≒中指を立てるサインが繰り返し登場するのはマッチョイズムの片鱗に見える」と読み替えたとして・・・やはり相当一面的な意見ではないだろうか?

筆者自身も述べているが「女性ロッカーやハリウッド女優など、女性でも中指くらい平気で立てる」のであれば、問題は「ファックサインを男性的仕草と見る(受け取る)人間がどれくらいいるのか」ということになるだろうが・・・どのくらいいるんですか? 実際。

どうしても「感想」に対しては「感想」をぶつけることしかできないが、筆者が「ガルクラ」を「このアニメ、ファックサインが繰り返し出てくるなあ」→「ファックサインって男性器の形状が由来なんだよなあ」→「マッチョイズムの片鱗を感じるなあ」と思いながら見ていたのかと思うと、私としては「本当に?」とそれこそ首を傾げてしまう。

・各話タイトルの由来となったバンド(ミュージシャン)のチョイス

「ガルクラ」は各話のサブタイトルに実在のアーティストの楽曲タイトルがつけられており、これはシリーズ構成・脚本の花田十輝氏によるものと思われる。

<花田氏のツイート>

「各話のサブタイに思いは込めた」という花田氏のツイートから、これらサブタイトルには各話のストーリーや展開、テーマなどを象徴している部分があると思われるが、筆者はこれらの楽曲のバンド(ミュージシャン)のチョイスに偏りがあるとしている。

次は各話タイトルを確認してみよう。どのタイトルも、主に1980~2000年代に活躍したミュージシャンやバンドの曲タイトルから取られている。ところがすべて並べてみると、それも男性ばかりで統一されていることが分かる。

また、男性ばかりというだけでなく男らしい名前が目立つとも指摘している。

また、男らしい名前が目立つのも特徴だ。遠藤賢司の代表曲は〈不滅の男〉だし、情念をぶつけてくるようなeastern youthやフラワーカンパニーズを男くさいと形容しても否定する人はいないはずだ。The Grooversの骨太なサウンドもしばしば男らしいと表現されるし、THE BLUE HEARTSの甲本ヒロトやGOING STEADYの峯田和伸、神聖かまってちゃんのの子は、ステージで全裸になるので有名だ。男くささをあまり感じないバンドもあるが、それでもこのチョイスは偏っているだろう。

そしてなぜ女性バンドも存在するのに、男のバンドで統一されるのか、という疑問を呈している。

女性だけのバンドも、国内だけでも山ほど存在する。男にはできない表現に徹したり、男性主体のロックシーンで異彩を放ったものに限っても、少年ナイフ、ゼルダ、赤痢、Nav Katze、OOIOO、にせんねんもんだい、あふりらんぽ、チャラン・ポ・ランタン、おとぼけビ~バ~、CHAIなど、あまたいる。にもかかわらず、何故男のバンドで統一されてしまうのか。

「ルパのベースプレイ」のところで述べたこととも共通するかもしれないが、そもそも男のバンドで統一されてはいけない理由などない。
もちろん筆者は「いけない」などとは書いていないが、否定的な論調であることは明らかだろう。
「何故男のバンドで統一されてしまうのか。」という問いには「統一されていたら何か問題があるんですか?」と返したい。

クラブイベントに例えればわかりやすいだろうか。
ああいった場では多くの場合、DJ本人が作ったものではない既存の楽曲が流されるわけだが、あるDJが男性アーティストの曲ばかりを流したとして、そのチョイスは「DJの好み」「会場の雰囲気や客層」「イベントのコンセプト」などによるものだと考えるのが自然だろう。
そこで「男性アーティストの曲ばっかり流してるなあ」→「マッチョイズムの片鱗を感じるなあ」という感想を抱いて表明するのは・・・感想それ自体が良いとか悪いとか言うつもりはないが・・・やはり相当一面的な意見ではないだろうか。筆者が「ガルクラ」のサブタイトルについて言っているのもこれと同じようなことだと思う。

あと、細かいことを言えば筆者が「男らしい名前が目立つ」として例に挙げているのが遠藤賢司、eastern youth、フラワーカンパニーズ、The Groovers、THE BLUE HEARTS、GOING STEADY、神聖かまってちゃんの合わせて7アーティストで全体の約半分だが、このうちTHE BLUE HEARTSとGOING STEADYと神聖かまってちゃんは「(ボーカルが)ステージで全裸になるので有名」という理由で「男らしい」「男くさい」バンドにカウントされている。しかしブルーハーツとゴイステはともかく、神聖かまってちゃんに「男くさい」とか「マッチョイズム」を感じる人などいるのだろうか?はなはだ疑問に思う。

・楽曲チョイスの話から・・・

こうした楽曲チョイスの話から、筆者は次のような推論を述べている。

おそらく《ガルクラ》の主要スタッフは、90年代に10代から20代を過ごした、現在40代から50代くらいの世代なのだろう。制作陣はかつてこれらのバンドを愛聴していて、その残影をトゲナシトゲアリに重ねているのだろう。

そして「ガルクラ」のメインスタッフが全員男性であることから以下のような感想を述べている。

ちなみに《ガルクラ》の製作総指揮、エグゼクティブプロデューサー、プロデューサー、監督、脚本、音楽プロデューサー、劇伴担当者は、全員男性である。わたしにはこれは、付き合っている彼女に自分の趣味を押し付けようとする、いけすかない男のように映る。

確かに、サブタイの件含めて制作陣が自分たちの音楽の趣味を作品に反映させているということはあるかもしれない。しかし、それが「残影を重ねている(投影)」とか「押し付け」とするのは妥当なことだろうか。

ここまで見てきたように、筆者は「マッチョイズムの片鱗」という曖昧な根拠感想の上に感想を積み上げ、飛躍した論理でこのような結論を導き出しているように思う。
これは十分な論理的裏付けを欠いた、独断的な主張と言わざるをえない。
「付き合っている~いけすかない男のように映る。」の部分に至っては、感想は自由にしてもただの悪口だろう。
このようなことは、せめてアニメ本編のストーリーや描写、楽曲に対して具体的な指摘を行ったうえでそれを根拠として述べるのが批評にしても感想にしても書くにあたっての最低限必要なことであり礼儀というものではないだろうか?

・「ガルクラ」楽曲に対する評価

そして話題は「ガルクラ(トゲナシトゲアリ)」の楽曲に及ぶ。

音楽についてはどうか。トゲナシトゲアリの楽曲はボカロ以降のロックという程度の特色で、性差はあまり感じられない。とりわけマッチョということはないが、女性らしいということもない。女性だから女性らしい音楽をやるべきだとも思わないが、《ガルクラ》の制作陣は、ことさら女らしくしようとは思わなかったろう。

ちょっとよくわからない部分もあるが、トゲナシトゲアリの楽曲には新規性や独自性が無いということが言いたいのだろうか。

《けいおん!》では、ごはんについて歌った〈ごはんはおかず〉など、女の子らしい「ふわふわ」な歌詞になるように意図されている。これはガールズバンドの旗手のひとつ、少年ナイフに近い感覚で、彼女たちは食べものや猫についてなど、それまでロックとはあまり結び付くことのなかった題材を積極的に歌詞にしていった。《けいおん!》は監督や脚本など、いくつかの重要なポストを女性が担っており、音楽に関しても突き詰めて考えているが、《ガルクラ》では制作陣が好んだ音楽をノスタルジックに投影させるだけで、《けいおん!》のような意識は感じ取れない。

「女性だから女性らしい音楽をやるべきだとも思わない」と、ステレオタイプな見方を否定しておきながら、「けいおん!」の「女の子らしい」「ふわふわ」な歌詞を評価している(とも言い切れないが、そのような論調だろう)が、それはダブルスタンダードというものではないだろうか?

「女性らしさ」を表現することが評価に値するのであれば、「ガルクラ」の音楽性に対しても、別の解釈が可能になるはずだ。例えば「ボカロ以降のロック」程度の特色で中性的(マッチョでもないが女性的でもない、という筆者の言にならえばそうなるだろう)という評価は、逆に男性優位の音楽シーン(※)において、あえてジェンダーにとらわれない音楽性を志向しているという捉え方だってできるかもしれない。

なるべく好意的に解釈して、筆者が「けいおん!」の女の子らしい歌詞(楽曲)を評価する(ような論調で引き合いに出している)のは、単に「女性らしい」からではなく、それが作品の独自性として機能しているからだと言いたかったのかもしれないし、それに対してトゲナシトゲアリの楽曲は新規性や独自性が感じられないという指摘をしたかったのかもしれないが、だとしたら意図が明確に伝わらない書き方だろう。

そして最後の「《ガルクラ》では制作陣が好んだ音楽をノスタルジックに投影させるだけで、《けいおん!》のような意識は感じ取れない。」という部分については、前段と同様根拠の不十分な、飛躍した論理で導き出された結論だと思う。

あと気になったのだが、
「《けいおん!》は監督や脚本など、いくつかの重要なポストを女性が担っており、音楽に関しても突き詰めて考えているが、」
と書かれているが、ここでの「いくつかの重要なポストを女性が担っており」という話題にはやや唐突な印象を受ける。
「女性が担っている」から「(作品の)音楽が突き詰めて考えられている」と言いたいのか何なのか、またしても接続が曖昧な文章なので筆者の真意は図りかねるが、まず何をもって音楽を「突き詰めて考えている」とするのか、その基準が明確ではないし、この文脈では、「けいおん!」と「ガルクラ」の違いとして「けいおん!」では「いくつかの重要なポストを女性が担って」いると示すことで、「ガルクラ」のメインスタッフが男性ばかりだからこそ、音楽に対するアプローチや表現が「けいおん!」に比べて浅く、ノスタルジックな投影にすぎないのだと暗示しているように読めてしまう。
筆者は、女性が「けいおん!」の独自性に寄与した点を強調したかったのかもしれないが、このような書き方は性別と作品の質を直接結びつける危険な一般化を行っているように見える。

(※)こちらの記事を参考とした。

●4「男女」という図式

第四段落では「ガルクラ」作品内の図式が作品外の現実にも反映されているという筆者の主張が展開される。

こうした図式は作品内に留まらない。トゲナシトゲアリのメンバーの声優は、すべてオーディションで選ばれた新人だ。全員楽器が弾けるのが特徴だが、16歳から23歳とまだまだ若い。つまり《ガルクラ》の制作陣は、彼女たちに活躍の機会を与える代わりに、自分たちが享受したノスタルジックなロックのイメージを付与したことになる。

前項で指摘した通り、そもそも「ガルクラ」制作陣が作品内のトゲナシトゲアリに自分たちの世代の好み(ロック)を投影しているとか押し付けているという言説自体が筆者の根拠の薄い感想なので現実のトゲナシトゲアリについてのこの見解にしても同じことだと思う。

続いて筆者は現実のトゲナシトゲアリのメンバーがオーディション方式で選ばれていることについて言及しつつ、「男たち」の問題について続けている。

こうも言い換えられよう。《ガルクラ》のオーディション手法はロックバンドというよりアイドルのそれで、実際脚本を手掛けた花田十輝はアイドルアニメ《ラブライブ!》シリーズで知られた人物だ。人気ゲームの《アイドルマスター》シリーズでは、プレイヤーが男性プロデューサーとなってアイドルを育成し、その見返りとして彼女たちから好意を持たれるという構図になっている。《ガルクラ》にはそうした男性プロデューサーのような存在は出てこないが、「その男」は透明人間のように、トゲナシトゲアリの背後に貼りついている。

《アイドルマスター》のプロデューサーの存在は、わたしにはやや気持ち悪く感じられるのだが、そこに存在するだけで男の加害性が可視化されるため、最低限の誠実さを留めているとも言える。少なくとも気配を消したまま少女たちに影響を与えたいと願う《ガルクラ》の「男たち」ほどは不愉快ではない。

脚本の花田氏が「ラブライブ!」シリーズを手掛けていることにも触れられているが、それをもって「ガルクラ」のストーリーや構成が「ラブライブ!」のようなアイドルものと同じ手法である・・・みたいな話ならまだわかるのだが、ここで話は「アイドルマスター」シリーズに飛び火する。じゃあなんで「ラブライブ!」の話出したんだよ。

で、「アイドルマスター」シリーズの「男性プロデューサー」の話からは、この存在によって男の加害性が可視化されるため「アイマス」はまだマシだが、「ガルクラ」にはそれもなく、「気配を消したまま少女たちに影響を与えたいと願う《ガルクラ》の「男たち」は不愉快」という感想が述べられているが、これも説得力に欠ける意見だ。

そもそもトゲナシトゲアリのオーディション手法の話を引き合いに出しているがそこから現実とアニメの話が混同されていないかとか、「ガルクラ」の音楽プロデューサー(つまりメインスタッフの一人)である玉井健二氏はトゲナシトゲアリのライブドキュメンタリー顔出しで出演していたりもするので、そもそも「気配を消したまま」うんぬんが当てはまるのかどうかも怪しいのではないかとかツッコミどころは多々あるのだが、アニメの方に「男性プロデューサー」的存在が出てこないのは確かだ。

で、アニメの方に関してだが、筆者は「男の加害性」というテーマを唐突に導入しているがこれは非常に抽象的な飛躍ではないだろうか。別に「〈男の加害性〉なんてものは無い」とか言いたいわけではないが、「男性プロデューサー」の存在が「男の加害性の可視化」とされる論理的な根拠が曖昧に思える。
したがって、「ガルクラ」における男性プロデューサー的キャラクターの不在が不誠実であるという意見は、論理的な飛躍と説明不足が目立ち、納得し難い。「不愉快」と感じるのは自由だろうが、そのお気持ちに曖昧な理屈をくっつけないでもらいたいものだ。

「男たち」の意図についてはもうひとつ気になる点がある。仁菜の怒りの対象は女性ばかりだ。トゲナシトゲアリのメンバーを抑圧するのも 、ドラムの安和すばるの場合は祖母であり、キーボードの海老塚智にとっては母親。桃花も脱退したダイヤモンドダストに複雑な感情を抱いているが、このバンドのメンバーも全員女性だ。

ここに至っては、筆者は本当に作品を全話通して見たのか?と疑問に思うほどなのだが、まず仁菜の怒りの対象は女性ばかりというのは端的に間違っている。仁菜は父親の宗男をはじめ男性相手(※1)にも普通に怒っている。

さらに他のメンバーを抑圧するのも女性、と言うがこれもどうかと思う。
すばると祖母の関係を「抑圧」と表現するのはかなり違和感がある(※2)し、智は母親との不和というなら間違いなくあるだろうが、母親側からの抑圧ととれる描写は少なくとも作中では描かれていないだろう。
桃香がダイヤモンドダストのメンバーに複雑な感情を抱いているというところは同意するが、どちらがどちらを抑圧したということでもない(※3)はずだ。

続いての部分だが、

かつてフェミニズム作家のケイト・ミレットは、女性同士で非難し合うのではなく、互いに手を組み連帯することで状況を変えていくべきと説き、それをシスターフッドと呼んだ。《ガルクラ》の「男たち」は、女性同士いがみ合うことでドラマが駆動するように仕向けており、その矛先を男に向かわせようとはしない。

「かつて~シスターフッドと呼んだ」から何だと言いたいのだろうか?
例えば「かつて~シスターフッドと呼んだ。女性同士のドラマとは本来そうあるべきだ。それなのに《ガルクラ》の「男たち」は・・・」といった文章になるのであれば、まだ言いたいことはわかる。しかし、またしても接続が無いためにここは一見して意味がとり難い・・・が、論調としてはシスターフッドを引き合いに「ガルクラ」のドラマの構造を批判していると見ていいだろう。
ともかく、前述のように「女性同士いがみ合うことでドラマが駆動するように仕向けており」の部分がそもそも間違った前提のもと立脚されているように思えるので、「その矛先を男に向かわせようとはしない。」についてもにわかに首肯できない。

極め付きは次のくだりなのだが、

唯一、仁菜が父親と向き合う場面だけは例外だが、全面対決は回避され、彼はすぐに娘の支援者に転向してしまう。「男たち」は、仁菜が父親を乗り越え、屈服させるところは描きたくなかったのだろう。ただし、仮に父親が敗れたとしても、「男たち」は痛くもかゆくもなかっただろう。何故ならば仁菜が反抗すべき真の「父」は、《ガルクラ》の制作者たちだからだ。

この作品において父・宗男との問題は例外として矮小化していいようなものではないどころかかなり大きなファクターだし、前述の通り仁菜が怒りの対象とした「男」は父親が唯一でもない。
そして筆者の主張は「「男たち」は、仁菜が父親を乗り越え、屈服させるところは描きたくなかったのだろう」という飛躍した推論を経て、「仁菜が反抗すべき真の「父」は、《ガルクラ》の制作者たち」であるというかなりメタ目線の結論に至っている。
メタ目線そのものがいけないというわけではなく、どうも筆者が「男女」という二項対立の図式ありきでこの結論に至っているように見えるのが気になってしまうのだ。筆者の見解は色々な要素を単純化しすぎではないだろうか。

(※1)第二話で「うるせえ!」と言ってきたサラリーマンや第五話で登場した川崎セルビアンナイトの林氏や、そこでのライブで桃香に絡んできたバンドマンの男、第八話でルパに差別的なことを言った客二人組は全員男性だが仁菜は普通に怒ったり、立ち向かったりしている。そもそも仁菜は相手が男だろうが女だろうが関係なくおかしいと思ったことには真剣に怒るキャラクターだろう。
(※2)第四話を見るとわかるが、すばるは自分が役者をやっていることを心から嬉しく思って(笑って)くれる祖母のことが好きで、一方で役者を本気で目指す気にはなれない、という葛藤を抱えているのであって、その関係性を祖母からの抑圧と表現するのは無理がある。
(※3)桃香とダイヤモンドダスト周辺で何らかの「抑圧」があったとすればそれは彼女らのデビュー目前でアイドル路線への転換を迫った事務所なりレコード会社ということになるだろうが、その人たちが男性か女性かは知らない。

●5「エモ」と「敗者の美学」

第五段落では音楽ジャンルとしての「エモ」の話になっているが、私は音楽ジャンルの話は詳しくわからないので、筆者の分類が妥当かどうかは判断がつかないがとりあえず正しいものとして読み進めたい。

ここで注目したいのは「エモ」である。前述したeastern youth、サンボマスター、GOING STEADY、 GOING UNDER GROUNDは、エモというロックのサブジャンルにまとめることができる。エモの代表的バンドであるウィーザーは、負け犬ロックとでもいうようなイメージを持たれている。たしかに「ぼくらは負け犬なんだ」(〈The Underdogs〉)と歌うウィーザーは、ロックが持つ敗者のイメージを引き継いでいるだろう 。
(中略)
ウィーザーやエモ・バンドの歌もこうした「敗者のロック」の系譜にある。

先の4つのバンドだけでなく、フラワーカンパニーズや神聖かまってちゃんも、エモバンドと見ていいかもしれない。トゲナシトゲアリの楽曲も、エモに寄せて設計されていると考えていいはずだ。実際に彼女たちの音楽をエモと評するキャッチも目にした。

つまり「ガルクラ」のサブタイに使用されたバンドのうち6つ(eastern youth、サンボマスター、GOING STEADY、 GOING UNDER GROUND、フラワーカンパニーズ、神聖かまってちゃん)はウィーザーを代表とする「エモ」ジャンルに分類されるので「トゲナシトゲアリの楽曲も、エモに寄せて設計されていると考えていいはず」だということかと思う。そしてこれら「エモ・バンド」は「敗者のロック」の系譜にあるらしい。

「ガルクラ」のサブタイトルの約半分が「エモ・バンド」の曲だからトゲナシトゲアリの楽曲もエモ寄りだろうというのは論理の飛躍だろう。楽曲そのものやその構成要素(サウンド、歌詞)といった個別の要素を無視した非常に雑な話ではないだろうか?だが、かといって「エモではない」と決めつけることもできないので、一旦置いておく。

仁菜は執拗に数字や勝負にこだわるのだが、こうした「敗者のロック」の系譜と、エモ好きと思われる制作陣の趣味を考えると、それは妥当なのだろう。「男たち」はトゲナシトゲアリを勝ち負けの世界に誘い込み、しかしけして勝たせることはせず、敗者の美学を押し付けていく。最終回も、いわば「試合で負けて勝負に勝った」というような展開になるのだが、ここにはそういったレトリカルな「敗者の美学」を若い女性に噛み締めさせたい という欲望を感じる。

「仁菜は執拗に数字や勝負にこだわる」という表現にはそもそも違和感(※1)があるが、「仁菜が執拗に数字や勝負にこだわる」ことが「敗者のロック」の系譜および制作陣の趣味に由来するものだろうという推論と「男たち」がトゲナシトゲアリに敗者の美学を押し付けているという話は、文脈的に直接関係していないように思える。
そして「敗者の美学を押し付けていく」とか「「敗者の美学」を若い女性に噛み締めさせたい という欲望を感じる」という意見もやはり一面的な見方であり単純化だろう。最終回で仁菜たちの敗北が描かれていることは事実だが、その解釈の根拠は「アニメのサブタイが半分エモ・バンドの曲→ガルクラの楽曲はエモ→制作陣はエモ好き→エモは敗者のロックの系譜」という綱渡りの連想ゲームから導き出されており、説得力は感じられない。

負けること自体は悪くない。しかし《ガルクラ》の場合、「敗者の美学」に誘い込まれること自体が罠となる。
敗者の美学は、ある時代までの文化的特徴だった。ロックと同じように60年代に勃興し、「反逆の神話」に一役買ったアメリカンニューシネマもまた、敗者や負け犬を率先して描いた。こうした美学は、少なくとも40代以上の音楽好きや映画好きには強く共有されているものだ。

「反逆の神話」「敗者の美学」が少なくとも40代以上の音楽好きや映画好きには強く共有されている、という意見については、私はその世代ではないので一旦置いておく。

かつて江藤淳は《成熟と喪失》で第三の新人の作品群を取り上げ、第二次大戦における「父の敗北」が母を狂わせ、息子への抑圧となって表れるとし、そうした状況下において息子はあえて父としてふるまうことで、治者として成熟すると論じた。

「成熟と喪失」は読んだことが無いがそう書かれているということで一旦置いておく。

また批評家の内藤千珠子は『「アイドルの国」の性暴力』において、男たちは自らが引き受けるべき敗戦などの敗北体験を、アイドルや慰安婦などの女性に押し付けることで忘却しようとすると説いた。

『「アイドルの国」の性暴力』も読んだことがないが、そう書かれているということで一旦置いておく。

《ガルクラ》における敗北とは、内藤の指摘そのものなのだろう。《ガルクラ》制作陣の個々のパーソナリティは知らないが、世代的な共通認識として「敗者の美学」が刷り込まれており、それが心の何処かで共鳴したままくすぶっていて、出口を求めて噴出した結果が《ガルクラ》だったのだろう。そうでなければあのような最終回にはならない。

筆者は、江藤淳や内藤千珠子の主張を引き合いに出して、「ガルクラ」の制作陣が世代的な共通認識として「敗者の美学」を若い女性キャラクターに押し付けていると主張しているが、これも根拠の薄い推論である。要するに世代論の押し付けではないだろうか。
世代論それ自体は多様な観点のひとつとしてあっていいと思うのだが、それが個別のケースに当てはまるかどうかは当然別の問題だ。

さらに言うと「そうでなければあの最終回にならない」とあるがこれも決めつけが過ぎるように思う。筆者自身「制作陣の個々のパーソナリティは知らない」と書いているわけだが、ならば筆者の主張は「あなた方ひとりひとりのことは知らないが、ああいう最終回にするということはどうせあなたがたがこういう世代だからでしょ」と言っているようなものだろう。

そしてそれは、江藤が論じた「成熟」でもあるのだろう。《ガルクラ》の「男たち」は、トゲナシトゲアリにエモくロックさせることによって、父としてふるまい、治者として君臨することを欲望し、そしてそれに成功したのだ。

したがって、この結論も根拠の薄い推論と言えるだろう。

(※1)確かに「ダイヤモンドダストに負けたくない」という仁菜のモチベーションは重要なものだが、それは根底に「桃香(と桃香の音楽)は間違ってないと証明したい」気持ちがあり、勝負そのものに執拗にこだわっているとまで言えるかどうかは疑問に思う。最終話においても勝負より自分たちの信念を優先したからこそ、ダイヤモンドダストの両日出演を蹴ったわけだし・・・あとは数字にこだわる場面、あったかなあ・・・第六話でSNSのフォロワー数という話題が出て、仁菜もそこを意識する描写があったが、あれもダイヤモンドダストに比肩するためという目的意識があってのことだし・・・あとは12~最終話の新曲の再生回数のことくらいだろうか。だとしてもメジャーデビューして初めてリリースする曲なのだから再生回数を気にしない方がおかしいと思う。

●6川崎と「反逆の神話」

第六段落では、まるで行きがけの駄賃とばかりに川崎という物語の舞台設定についても批判の的になっている。具体的には、筆者は川崎がBAD HOPキャロルが生まれた地であることを挙げつつ、ここまで同様推論をもとにした感想を述べている。

川崎を象徴する存在として、貧しい環境から日本を代表するラップグループにまで上り詰めたBAD HOPがよく知られている。《ガルクラ》の舞台の選択には、トゲナシトゲアリを反抗的なイメージで売り出したいという意図が感じられる。

感じるのは自由だろうが、その理屈が通るのであれば「川崎は世界的スターとして知られた坂本九の出身地だから、トゲナシトゲアリに世界に羽ばたいてほしいという制作陣の願いが感じられる」とでもなんとでも言えるだろう。

続いて川崎がキャロルの誕生の地であることと、メンバーのジョニー大倉のことが説明される。

キャロル全盛期、大倉は、自らが在日韓国人2世であることをカミングアウトした。幼い頃に父親が死に、川崎に移り住んで母親の手ひとつで育った大倉は、貧しく、差別やいじめに晒される少年時代を送った。キャロルの歌詞は大倉が担当していて、バンド名やバンドのコンセプトを決めたのも大倉だ。大倉がいなければ、彼らの成功はなかったかもしれない。
(中略)
だが一方で大倉は、生い立ちも関係するのか破滅的な性格で、ドラッグに手を出し精神病院に入院、バンドは解散してしまう。大倉は矢沢と対立、関係が回復しないまま、10年前に病死した。

何の話なのかと思いながら読んでいたら、結論が以下の通りだった。

ルパの母親は日本人だが父親は南アジア人らしく、この辺りに大倉やBAD HOP、川崎の多文化共生への目くばり を利かせているようにも思える。しかしその実質的な効果はあやしい。トゲナシトゲアリは誰ひとりとして川崎の出身者ではなく、貧困に耐えながら川崎で育ったわけではない。もし《ガルクラ》に川崎の貧困問題や移民問題を重ねたとすれば、それは都合よく借り受けられた偽りの意匠に過ぎない。

「目くばり を利かせているようにも思える」と言うが、大倉(キャロル)もBAD HOPも川崎出身のアーティストであることには違いないのだろうが、筆者が勝手に例に挙げただけで、そこへ対して「目くばり を利かせているようにも思える」などと言うのは論理の飛躍だろう。
「もし《ガルクラ》に川崎の貧困問題や移民問題を重ねたとすれば、それは都合よく借り受けられた偽りの意匠に過ぎない」という部分も、筆者が勝手に例に挙げたジョニー大倉を引き合いに出した上での言いがかりと言っていいレベルだろう。「もし~すれば」とつければ済むと思っているのだろうか。

今さらだが、こういう自分の言いたいことのためにBAD HOPなりキャロルなりを例に挙げるようなやり方をチェリー・ピッキングと言うんじゃないだろうか。そうやって挙げた例を根拠に感想を言っているのだから、実にマッチポンプ的なやり方と言わざるをえない。

もちろん《ガルクラ》にもっとヘヴィでシリアスな社会問題を絡めるべきと言いたいわけではない。川崎という舞台のチョイスにおいても、「反逆の神話」というノスタルジックなイメージに寄りかかっていることを指摘したいのだ。

なのでこれも、私には川崎と「反逆の神話というノスタルジックなイメージ」のつながりが説明されていたようには全く思えないのだが・・・

●7勝手に決めるな

最後の第七段落だが、冒頭にも語られたカート・コバーンの話が再度出てきて、「フェミニズムにも理解があったと言われている」彼について、「そうした繊細さが商業主義と衝突した結果、自死を引き寄せたのかもしれない」と述べられており、そこからこう続いている。

仁菜の怒りは概ね間違ってはいない。しかし周囲の人間とのしがらみなどが立ちふさがると、怒りだけではどうしようもなくなるものだ。まだ十代ということもあるが、抑圧的な家庭で育った仁菜の精神は、常に不安定だ。「わたしは間違っていない」と繰り返す彼女を見ていると、トランプ主義者やネトウヨを想起してしまう。ひとたび心のハンドルを切り損ねれば、陰謀論やドラッグにハマッたり、悲劇的な人生を送ることも考えられるだろう。ジョニー大倉やカート・コバーンのように。

筆者は仁菜の感情や行動を単純に「トランプ主義者やネトウヨ」と結びつけて乱暴な類推に基づき、カート・コバーン(とジョニー大倉)を引き合いに出して仁菜の行く末を案じている。しかし、これも唐突で論理的な飛躍を伴っていると言わざるをえない。
私はカート・コバーンに詳しいわけではないが、彼と仁菜は置かれている状況も抱えている問題も全く異なるだろう。仁菜をカートのような悲劇的な結末へと結びつけるのは、あまりにも短絡的過ぎる。また、結びつけるにしても彼のフェミニズムへの理解うんぬんを持ち出すのは意味不明(※1)だ。

さらに、筆者は「仁菜の怒りは概ね間違ってはいない」としながらも、「ひとたび心のハンドルを切り損ねれば」と、まるで彼女が破滅に向かって突き進む可能性を示唆しているかのようだ。
筆者は作中で描かれた仁菜の成長や、トゲナシトゲアリの仲間を含む周囲の人間との関係性の広がりや変化、何より彼女の未来の可能性を無視し、自身の都合の良いようにカート・コバーンの悲劇と結びつけようとしているように思えてならない。

桃香と仁菜を見ていると、共依存関係にあるように感じられてくる。仁菜は桃香とのバンド活動によってなんとか精神の安定を図っているように見えるし、桃香にもそうした傾向が漂っている。ルパと同居生活を営む智にもそのような気配がある。閉鎖的で濃密になりがちなロックバンドという人間関係は、共依存に陥りやすい環境ではあるだろう。果たしてロックが仁菜を救ったのか、わたしは疑問に思っている。

共依存だったらどう問題なのか、という筆者の意見が書かれていないが、否定的な論調であると思われる。
その論調に対して言うならば、彼女らの関係性を「共依存」などと単純な一言で片付けるのは簡単だが、仮にそのような関係性であったとしても、それが彼女らの今後にどのように作用するかは誰にもわからないはずだ。と言うか、どのように作用するとしても他人にどうこう言われる筋合いは無いはずだ。
「ロックが仁菜を救ったのか疑問」という意見については、もちろん解釈は自由だと思うが、私はそもそも作品側はことさらに「ロックが仁菜を救いましたよねェ!」みたいな描き方はしていないと思うので、ズレた話ではないかなと感じてしまう。

「反逆の神話」は、しばしばミュージシャンを追いつめる。仁菜に必要なのは、ルサンチマンとかセールスではなく、もし桃花やトゲナシトゲアリが彼女の前からいなくなったとしても、安定した心でいられることだ。仁菜の歌には一定の魅力があるのだろうし、それは彼女の怒りのゆえかもしれないが、それでも彼女は《ガルクラ》制作陣から押し付けられた「反逆の神話」という古めかしい観念から解き放たれ、本当の自分の音楽を掴み取るべきなのだ。

仁菜に何が必要とか、勝手に決めるなと言いたい。ましてそれが安定した心だなどと言うのは押し付けもはなはだしい。「反逆の神話」が仁菜を追い詰めているだの、彼女を単なる「神話」の犠牲者かのように言っていることも含めて、筆者はキャラクターの主体性というものを全然認めていないように見える。
「本当の自分の音楽を掴み取るべき」という主張もまた、筆者の価値観の押し付けに過ぎないだろう。仁菜にとって「本当の自分の音楽」が何かというのは仁菜自身の選択と成長に委ねられるべきものであり、第三者が定義すべきものでは決してない。

仁菜は中指でなく、しばしば小指を立てることがある。これは男性的なファックサインの女性からの組み換え、再解釈と考えていいだろう。彼女に本当に必要なのは、周囲の人間に怒鳴り散らすことではなく、そうした彼女らしい抵抗なのである。

ここの違和感はかなり強烈だ。すでに言ったように、仁菜は第2話以降は中指を立てていないので「しばしば~ある」という表現は明確に間違いと言っていいだろう。筆者は本当に作品を通して全部見たのだろうか?見た上でこの表現はまったく不可解だと言わざるをえない。

そして「これは男性的な~彼女らしい抵抗なのである」の部分についてだが、小指のサインが「ファックサインの女性からの組み換え、再解釈」という意見は一つの視点として否定するつもりはないが、本批評の他の部分同様、ことさらに「男性・女性」という視点で論じる必要性は私は感じないし、ここでも「彼女に本当に必要」とか言っているが、繰り返し言うがマジで余計なお世話だと思う。

その点において、仁菜の怒りを楽しんでいる視聴者にも多少の問題がある。《ガルクラ》がヒットした要因のひとつは、怒りを爆発させる仁菜の姿にある。それが楽しいのは分かるし、やめるべきとも思わないが、少しでいいから仁菜の怒りが彼女の苦しみから生じたものであることも忘れないでほしい。

別に「キャラクターの感情の動きを楽しむのはエンタメ作品なのだから普通のことだろ」などと開き直るつもりもないのだが、筆者に訳知り顔で苦言を呈される筋合いだってない。

冒頭でも述べたように、わたしも《ガルクラ》はおもしろいと思うし、キャラクター全員に幸せになってほしいと願っている。その前に立ちふさがる者がいるのであれば、そして仁菜が中指を立てるべき真の相手がいるのだとすれば、それは女性ではなく、制作陣の「男たち」であり、仁菜が怒り泣き叫んでいるのを楽しむ視聴者——もちろんわたしも含めて——に対してのはずだ。もし続編があるのであれば、仁菜を抑圧する真の権力が撤廃され、彼女が怒りから解放されることを期待してやまない。そして男たちも、「反逆の神話」や「敗者の美学」に囚われた自己を見つめ直し、解き放たれるべきなのだ。

最後にタイトル回収、ということで「仁菜は誰に中指を立てるべきだったのか」に対する答えとして「制作陣の「男たち」であり、仁菜が怒り泣き叫んでいるのを楽しむ視聴者」だということが示された。
各ブロック同じような結論で申し訳ないのだが、ここでも言いたいのは、筆者の主張は証拠が乏しく一方的な意見だということになる。
筆者は制作陣が「男たち」であることを強調し、そのために彼らが若い女性キャラクターに古めかしい観念を押し付けているとしているが、性別が決定的な要因であるかのような意見は一面的で強引な解釈によるものだろう。

(※1)一応言っておくと私はフェミニズムそのものについてはどうとも思っていない。ここで持ち出される意味がわからないと言いたいだけだ。

●「小指」の重要性

「後述する」としていた「小指」についてここで書いておきたい。
「ガルクラ」において「小指を立てるサイン」はかなり重要なものとして象徴的に描かれている。と言うか「小指」はこの作品の「発明」と言っていいものだと私は思う。

最初、「中指を立てるサイン(ファックサイン)」の意味すら知らなかった仁菜が桃香からその意味を教えられ、中指を立てたくなったら小指を立ててほしい、と提案したことがきっかけで、このサインは仁菜と桃香の間でだけ通じるサインとして使われ始めたものが、やがてトゲナシトゲアリ全員に共有され、ダイヤモンドダストやトゲナシトゲアリのファンといった他者にも伝わっていく。
その過程で、最初は「反抗」や「抵抗」、「クソくらえ」といった意味を持つ「ファックサイン」の代替でしかなかった「小指のサイン」は「約束」や「結束」の象徴としての意味(※1)も帯びていく。あとまあサムズアップみたいに使われているシーン(※2)もあったりしますが・・・

このように作品の中で独自性を獲得し、また作品の独自性を示す要素としてもかなり重要なはずの「小指のサイン」を、中指のファックサインと意味的にも表層的にも「どちらでも同じ」と言わんばかりの書き方をしている筆者の態度には、私はかなり疑問がある。

(※1)第11話で仁菜とすばるは「(バンドを)ずっと続けよう」という約束の「指切り」を小指で交わしており、ライブの本番直前には円陣代わりにメンバー全員で小指を寄せ合っている。また第12話では、仁菜の「トゲナシトゲアリの物語を作りたい」「これからずっと同じ夢を見ていきたい」という願いに応じてメンバー全員で小指の先を合わせるシーンがある。
(※2)第7話と第11話で仁菜はミネさんに対してそういう使い方をしている。けっこうフレキシブルなサインなのかもしれない。

●私がムカついたのは

本批評に対して私が一番ムカついたのは、文章の端々から感じられるキャラクターへの無理解、特に第七段落での仁菜に対する押し付けのあたりなのだが、それ以外に本批評の全体についてムカついたことがもう一つある。

注意深く読むと、筆者は本批評のあらゆる部分で「提示した話題についての価値判断を避けて論を進めている」ように私には見える。
例えば、「マッチョイズム」や「女性らしさ」といった言葉を用いながら、それらを作品においてどのように評価すべきか、明確な立場を表明していない。にも関わらず、文脈から否定的ないしは肯定的な「論調」は読み取れるような書き方になっている。

好意的に見ようとすれば、読者に自分の結論を導き出してほしいという考えや、議論を促進するという意図があってのスタイルであるという可能性も考えられるが、これがそのように意図的なものなのか、それとも筆者の単なる文章のクセなのかは断言できない。
しかし、結果として以下のような効果を狙っているのではないかという疑念が生じる。

読者への先入観の植え付け
明確な価値判断を避けることで、読者に先入観を植え付け、特定の結論を導かせようと誘導している。
・反論、責任の回避
明確な価値判断を避けることで、自身の主張に対する明確な反論をかわし、論理のすり替えや責任の所在を曖昧にしている。また、議論を喚起しつつも、その議論の中心から身を引く手法ともとれる。
・「正論風」の演出
客観的で中立的な立場を装い、「正論」のように見せかける効果が狙える

特にこういった手法(あるいは文章のクセ)が「男女」というジェンダーの話題において頻繁に出現しているのは引っかかる。これがもし、上記のような効果を狙ってそうしているのなら、そんな姑息な態度でデリケートな話題を取り扱うべきではないだろうと思う。

と言うか、単純に文章が前後で接続されていなかったり接続が曖昧だったりすると、言いたいことが分かりづらくて読みにくく、イライラする。
筆者は単に文章がヘタクソなのか、それとも上記のような姑息な戦略によるものなのか、はっきりしてもらいたい。

●仁菜は誰に中指を立てるべきだったのか

本批評は「ガルクラ」をロックの歴史やジェンダーの枠組みを通して解釈しようと試みており、そういったアプローチ自体は興味深い視点を提供していると思うのだが、その解釈が一面的であり、論理的な飛躍や根拠不足が目立つことは明らかだったと思う。

最後に「仁菜は誰に中指を立てるべきだったのか」という本批評が投げかける問いへの私なりの答えを言うならば、それは「仁菜は”~べき”とか言われるの一番嫌がるんじゃね?」ということになる。本記事では詳しい説明を省くが、「ガルクラ」で描かれた井芹仁菜とは、一貫してそういう人物だったように思う。

だが、もし「中指を立てるべき相手」がいるとしたらそれは本批評のような「幸せになってほしい」などと言いながら彼女(たち)の信念を「こうあるべき」と規定し、何が必要とか必要でないとかいったことを押し付けてくるような何者かということになるんじゃないだろうか。

もしそんな者が彼女(たち)の前に立ちはだかるとしたら、それが男性であろうと女性であろうと仁菜はそいつに向かって怒り、小指を立てることだろう。

追伸:
記事内に桃香さんの名前が「桃花」になってるところが2箇所あったのでちゃんとチェックした方がいいと思います。

【2024-07-27追記】
批評記事を書いたnoirse氏からの反応をまとめました。


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