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【ネタバレあり感想】鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎

※たぶん有益な感想とか考察が世に溢れてると思いますが、この記事では特にそういうのないと思います。
あと作中のセリフなどは記憶によるもので正確とは限りません。


全体的な感想

まず「鬼太郎の映画」というと子供向けのイメージしか無かったのだが、こういうガッツリ大人向けの作品が作られたことに驚いた。そしてそのクオリティにも。こりゃ人気が出るわけだと納得。なお筆者は初視聴が一昨日で今日(2024/01/17)2回目を観てきたところです。
ところどころ涙なしには観られず、特に沙代の最期となる一連のシーンは本当にツラい。
ツラいシーンも多いが、感動も大きく、本当に怪作であり傑作だと思う。

シーンごとの感想だったり考察

●血液銀行から哭倉村へ

血液製剤Mの原料は幽霊族の血(プラス、その血を投与された人間の血)だったわけだが、冒頭で血液銀行に列をなす人々の描写も示しているように血を売って金銭を得ているのは明らかに貧しいものたちであって、水木の仕事は「搾取」側であり、構造的には竜賀一族と同じことをやってんじゃないの、というエクスキューズがある。
その水木にしたって「無意味としか思えない戦い」で玉砕を命じられ、命こそ助かったものの傷を負い、また母親は親戚に財産を奪われた、踏みにじられた「弱者」側だったことは間違いない。だからこそ出世欲、野心もあって哭倉村を訪れた。

村へ向かう汽車では咳をしている女の子が印象的だった。後半、この子が持っていたであろう日本人形が村の地下工場で捨てられているのがわかる。女の子(親子)はおそらく屍人にされたのだろう。この子かどうかはわからないが咳をしている屍人もいたと思う。なお、汽車のシーンでこの女の子(親子)をニヤつきながら見ている男がおり、裏鬼道衆の一人だったと思う(もっといたかもしれない)

村に向かうタクシーで水木の「他の者と同じことをしていたのでは生き残れない」というようなセリフがあったが、これは「社会で…」という意気込みのようなものともとれるが、水木が帰還兵であることを考えると、もしかしたらより直接的に戦場での経験を踏まえたものだったのかもしれない。つまり、彼は生き残るために人には言えないようなこともしたのかもしれない。深読みかもしれないが、そんな重みがある。

舞台挨拶に参加された方のレポで読んだのだが、カットされたシーンとして、村の手前の温泉街だかに尋ね人の貼り紙がたくさんあって、「最近この辺では神隠しが起こる」と水木が運転手から聞かされる…というのがあったらしい。
運転手のセリフだけなら入れられたのではないあとも思うが、作品全体について「思い切って説明を省いた」というスタッフ側の話もあったようなので、そういう方針によるものかもしれない。実際、作品通して映像や演出で見せるという気概みたいなものが最後まで一貫していたように思う。

<参考>
※以降、「舞台挨拶で…」という記述については以下のいずれかの記事の内容に基づいています。

●沙代との出会い

村の風景と音楽が美しくも怪しい。田んぼに二人ほどの人影が見えたが、すぐに逃げるようにいなくなっている、とか、祠?の中からの視点とか、ただならぬ雰囲気を感じさせる。

そして最初に出会うのが沙代だ。喪服を着て、下駄の鼻緒が切れてしまっている。水木は沙代(龍賀の人間)であることをしっかり認識したうえで手助けする。
ここに時弥も現れて「よそ者…」というくだりがあるわけだが、長田たち裏鬼道衆がすでに「よそ者」である水木の訪問を察知していたのだろう。(汽車のシーンでも裏鬼道衆らしき者がいたし)

沙代がこの場所にいて、しかも下駄の鼻緒が切れてしまっているのは「『よそ者』がどんな者か走って見に来たのではないか」という解釈に基づいた二次創作をTwitterで見かけて、なるほどと思った。そういう可能性はあるかもしれない。
後のシーンのセリフからだが、沙代は自分を村から連れ出してくれる「運命の人」を待ち望んでいたように思われる。タイミング的にもこれから時貞の遺言発表というところで、なぜこんなところにいたのかという疑問があるし、屋敷に戻った際も乙米から「どこに行っていたのか」的にたしなめられていた…そこに対応する一つの答えとしてあり得る解釈(考察)だと思う。

そして屋敷に向かう水木を見送る沙代は何か決意したような表情を見せる。

●バルコニーのシーン

沙代が水木に「この村から連れ出して」と頼み、水木が了承するシーン。沙代が水木の胸元に飛び込む。夕日が沈む最後の一瞬、オレンジから紫に変わる空の色。「沙代は幸せ者です」「ようやく出会えた運命の人…」美しく、しかし残酷なシーンだ。ここは作品通しても白眉だと思う。沙代の真剣な想いがあり、同時に水木の打算と裏切りがある。この瞬間を境に沙代は「水木さま」から「水木さん」と呼び方を変える。

しかし水木は別に(少なくともこの時点では)真剣に沙代を村から連れ出してやろうとか恋仲にとかは考えていない。このシーンの最後でも、沙代の言葉に「ん、んん…」みたいな煮え切らない返事をしている。

●ゲゲ郎敗北後のシーン

長田の操る狂骨にゲゲ郎が敗れ、乙米の前に引き出されているシーン。
乙米が「沙代が時貞の子を宿さなかった」旨の話で「竜賀の女は当主に身を捧げるという栄えある役目が…」みたいなことを言うとき、長田がわずかに身じろぎしたように見えた。舞台挨拶やパンフでも言及されているが、乙米と長田は「そういう仲」らしい。であれば、長田からして想い人である乙米のその言葉には思うところがあるのだろう。そういう含みを持たせた非常に細やかな演出だと思う。(やはり乙米も時貞に「身を捧げ」ていたのだろうし、後述するが沙代は時貞と乙米の子だろう)

●ラストバトルのシーン

水木が手斧を引きずって時貞のもとに至るシーン、他の方の考察で気づいたが序盤のゲゲ郎が屋敷の前に連れてこられるシーンの下駄の音と斧を引きずる音、階段を上がってくるアングルといい、合わせてあるのがグッとくる演出だ。

水木は時貞から「ワシを殺せば狂骨はお前たちも殺して飛び出し、日本中を襲う」と言われるが時貞の持つ頭蓋骨(狂骨を操るためのアイテム)を叩き割り、「ツケは払わなきゃな」と言い放つ。この時点で、水木に勝算というか「時貞だけを倒して自分たちが助かる」算段があるとも思えない。このセリフは時貞だけに向けたものではなく、龍賀一族、哭倉村、沙代を裏切った自分、搾取する側(血液銀行)の自分、幽霊族や多くの人々を犠牲として生まれた「M」を使ってきた、またこれからも使って発展の礎としようとしていた日本という国そのもの…すべてに対する言葉だったのではないか。つまり水木は自分を含めて「すべて終わらせようとした」のではないか。

それと時貞は水木に出世と富も約束する。それは水木が求めていたはずのものだが、水木はこれも突っぱねる。映画初見のときは「この選択に至った水木の心理の変化はどこにあったのかなあ」とか思っていた。それは「ゲゲ郎との交流を経ての変化」ということもあるだろうが、おそらく「もともとそういう人間だった」。水木は根っからの善人というわけではなく、打算的な面ものぞかせる、野心も野望もある人間だ。しかし冷酷になりきれない。そうでなければそもそも沙代を利用することにためらいを見せたり、ゲゲ郎を助けに戻ってきたりしないだろう。

●依代となるゲゲ郎

怨念をその身に浴びながら、ゲゲ郎は「ワシ一人では無理か…」と思考する。
一方水木は鬼太郎母を抱えて走っている。その時点で水木に着せられたちゃんちゃんこは鬼太郎母に着せている。
水木はゲゲ郎にちゃんちゃんこを着せられるときに「これで狂骨に襲われても記憶を失うことはないだろう」と言われていたはずなので、これは自分よりも鬼太郎母を優先して守ろうとしたことのあらわれだろう。
作中、ゲゲ郎は水木に「お前にもいつか自分より大切なものができる」と言った。まさに水木はこここで自分が犠牲になったとしても、「自分を犠牲にしてこの世界と大切な人を守ろうとしたゲゲ郎」に託された鬼太郎母(とお腹の中の鬼太郎)を守ろうとした…そういう意味では、もうこの時点でゲゲ郎の言葉の一面は証明したことになる。

さて水木が消防隊?の人たちに発見されたとき、近くに鬼太郎母の姿はなく、ちゃんちゃんこも無い。鬼太郎母はどうなったのか?
ゲゲ郎の「ワシ一人では…」というセリフを思い出してみると、おそらく鬼太郎母はゲゲ郎の元に駆けつけ、二人がかりで怨念の依代となったのではないだろうか。
二人のその後は、本作ではエンドロール部分で描かれておりセリフでの説明は無いが、原作通りだとすると鬼太郎父と母は一緒におり、そして二人とも病に冒されている。
この「病」が「狂骨の依代になったこと(で身体を蝕まれてしまうこと)」だとすれば、原作の設定に対しても見事に整合性がとれる。

そして水木は髪が白くなり、記憶を失いこそすれ、心が破壊されず命も助かっている。
これは心が破壊されていないこと以外は孝三と同じ状態だ。すると、おそらく逃亡中に狂骨に襲われてしまったのだろう。
しかし命は助かった。心も破壊されていない。その理由もなんとなくわかる気がする。(舞台挨拶でも、孝三は「龍賀の者だから」狂骨に襲われても命だけは助かった。ではなぜ龍賀でない水木が助かったのか?作品をよく見て考えてみてほしいというスタッフの発言があったようだ)正直「こうに違いない!」という自信があるわけではないが、おそらくこういうことだろう。
「凶骨に襲われはしたが、ちゃんちゃんこを着せられた鬼太郎母がそれを撃退し、水木を助けた」

そういえばゲゲ郎が依代になろうとするシーンでは、初めて前髪で隠れていたゲゲ郎の左目が見える。
ここでのゲゲ郎のセリフは「おまえ(水木)が生きていくこの世界を見てみたくなった」というようなものだったと思う。
この世界のことを「片目(半分)隠して見るくらいがちょうどいい」と言っていたゲゲ郎の「両目」があらわになるシーンでこのセリフである。さらに深読みするならば、ゲゲ郎はこの後「左目」に自分の魂を宿して目玉親父として鬼太郎と鬼太郎の生きていく世界を見守っていくことになるわけだから本当に考えられた演出だと思う。

●目玉親父のセリフ

ラスト、現代の廃村となった哭倉村で山田記者を襲った狂骨(時弥)を見送ったあと、目玉親父が「見ているか水木」というようなセリフを言うが、このセリフは作中の水木に向けて言われているのはもちろんだろうが、ややメタ的な響きを感じた。まったく的外れかもしれないが、なんとなく「見ていますか、水木しげる先生」という、作り手側というか作品から水木先生へのメッセージのようにも感じられる、そんな響きを含んでいたような気がしている。

登場人物について

●沙代

沙代は水木に恋をしていたのか?というと、正直わからない。誰でも良かったのかもしれない。水木でなければいけなかったのかもしれない。本当にわからない。

狂骨を操るシーン、映画初見のときは「そんなに強いなら村での生活なんてどうとでもなったのでは…」とかふと思ったが、そういうことではないだろう。時貞が死んで、窖の結界が弱まったことで漏れ出した怨念が、(おそらく)村でもっとも強い霊力を持った沙代に取り憑いたのだ。
これも憶測だが、時麿を殺したのは意図したことではなく、偶発的な事故のようなものだったのだろう。しかし、その後の殺人を経て徐々にコントロールを身につけていったのではないか。そして同時に考えざるを得ない。彼女の殺人はどこまでが彼女の意思で、どこまでが彼女に取り憑いた怨念の仕業と言えるのか…

「本当は東京に行っても同じだとわかっていた」「わたくしは道具じゃない」というようなセリフもあった。つまり、村を出ることは本質的には重要では無かったのかもしれない。ただ、彼女は彼女自身として、ひとりの人間として見てもらいたかった。そんな誰かを求めていたのだろう。

●乙米

当主に身を捧げることを「栄えある役目」と言った彼女は、本気でそう考えていたのか、それとも、そう思い込まなければ自分を保てなかったのか…
ともかく、乙米の言葉通りとするなら、沙代は時貞と乙米の子供だろう。強力な術士である時貞の実子だからこそ沙代はあれほど強力な霊力を持ったのだ。

彼女の壮絶な最期は、なんというか見事だった。自分はグロいのは苦手で、したがってあの最期がグロ的なベクトルで素晴らしいと言いたいのではないのだが、うまく言えないがアニメ的、映像的に言って圧巻だった…

●丙江

駆け落ちして連れ戻されたということだが、相手の男がただで済まされたとは思えない。
宿に男を連れ込んで酒に溺れている描写もあったが、彼女は徹底的に「希望」を砕かれてあのようにダメになってしまったのではないだろうか。
そして彼女には子供はいないようだ。
彼女も時貞に「身を捧げ」たのかは分からないが、ひとつ想像することがある。
乙米によると沙代は時貞の「お気に入り」だったということだが、もしかするとどこかの時点で時貞の相手が丙江から沙代に移った…つまり丙江は沙代のおかげで時貞の魔手から(完全にかはわからないが)逃れられたのではないか。
そうすると、沙代が丙江を手にかけたのは、沙代の言葉によると「脅されて」ということだったが、自分のおかげで時貞から逃れられている丙江に対する恨みのような感情もあったのかもしれない。

●克典

どこか呑気な感じもあり、乙米からも見下されてる感ありあり(設定でも明示されているし、乙米のセリフからも伝わってくる)で夫婦愛とかも無さそう。下手したら沙代が実の子ではないということ(つまり龍賀の因習)も知らなかったりするんじゃないか?と思える。
ラストで村が狂骨に襲われるシーン、妻や娘を探しに行くでもなく一人車で逃げようとするあたりがこの人物を物語っていたように思う。

●時弥

ひたすらかわいそう。水木との会話シーンで咳きこみながら「おじいちゃんが死んでから(体調あるいは咳が)ひどいんだ…」と言っていたと思うが、時貞の呪い(マブイ移しの外法)のせいだったのではないかと予想する。
で、時弥はおそらく時貞の子だろう。沙代と反対側に泣きぼくろがあるのは、時弥と沙代が単に親戚ということではなく、腹違いの姉弟だということを暗に示すキャラクターデザインなのではないだろうか。
ラストで狂骨となった彼が天に召されるときに見えた光景からも二人の強い繋がりが感じられる。

その他の部分への考察

●左目

本作では「左目」に非常に重要な意味が込められているように思う。
時麿、乙米、丙江、庚子ら沙代(狂骨)に殺された者たちは皆左目を失っているし、窖の結界に立てられた頭蓋骨の塔は左目の部分が槍?で貫かれていた。
前述したが、ゲゲ郎はのちに「左目」(パンフのキャラクター紹介にもわざわざ書いてある)に魂を宿して目玉親父となる。
そこを基準に考えるならば、「左目」は「未来を見ていくこと」「生きること」もっと言えば「命」を象徴しているのではないか。
そのため、死者たちは左目を失っている(奪われている)。
そして水木は、戦争で左目を負傷して傷がある。しかし、失明には至らなかった。つまり「傷ついてはいるが、失ってはいない」

●龍賀一族の名前

十干(じっかん)というやつがある。というアレだ。
乙米、丙江、庚子の三人にはこの字が使われている。女性の名前には十干を使うのだろうか?にしては間が抜けていたりする。男子は、時麿や時弥を見ると時の字を受け継ぐようでもあるが、男子には十干は使わないのだろうか?
では孝三は?時の字も十干も使われていないことからすると、克典のように婿入りしてきたのだろうか?(多分違うと思うが)
次男なのに「三」の字が与えられているのも妙だ。
決定的な答えは作中の情報からは得られ無いように思うが、色々と想像は膨らむ。
昭和31年当時は今より難産、死産も多かっただろうから、時貞の子には他にも十干を使った名を与えられたが早くに死んでしまった兄弟姉妹がいたのかもしれない。
いわゆる近親相姦で生まれる子は、先天的な病気や障がいを持つリスクが高くなるというし…。
孝三の場合、上にもう一人男子がいたが、亡くなってしまっていて、その名前が例えば「甲二」だった。「甲」の字はもうその代では使えないみたいな決まりがあって、音だけ同じ「こう」にして「孝三」とした、とか…

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