「文鳥 春夏/秋冬」(よしおかえり)を読んで

#文鳥短歌 のタグをご存じだろうか。
ツイッターで文鳥のかいぬし達が文鳥や、文鳥との暮らしを詠んだ歌のタグである。文鳥歌会も開催されており、わたしも参加させていただいた。
このたび、歌人で文鳥歌会の主宰者でもあるよしおかえりさんが文鳥歌集を発行したとツイッターで知り、幸い二冊とも手に取ることができた。文鳥歌集は、気まぐれに短歌を作り短歌を読むかいぬしと、この世に生をうけて五か月になる新米文鳥二羽の家へやって来た。
すごい。めくってもめくっても、文鳥短歌。拙い感想ではあるが四首ほど引いてご紹介したい。

これは柘植、これは杠、すすきの穂 思い浮かべて拾う換羽期/春夏『春』
換羽期は季節の変わり目に羽が抜け落ち、新しい羽が生え揃うのを待つ期間。文鳥たちにとっては体力を奪われて心身ともにつらい時期でもある。
掃除やお世話の最中、大小かたちも様々な羽根がいくつも出てきたのだろう。主体はそれを、四季折々の植物を思いながら拾い集めている。いつの間にか小さな鳥のからだが、なんだか豊かな森のように思えてしまう。
(「杠=ゆずりは」は特に、古い羽が新しい羽に生え変わる暗示のようにも思えた。)
主体は、小さなからだで換羽期を乗り越えようとしている文鳥をいたわりながら、一方でそこにある大きな生命力を感じ取ったのかもしれない。

水入れに水満ちていて死んでいくときは誰もがすやすやであれ/春夏『夏』
朝の水替え(水浴びや、飲み水の容器の水を交換するお世話)の情景を想像した。
全てが明るく輝く夏の朝、なみなみとうつわに注がれた水、きっと文鳥も元気いっぱいにさえずっている。そこへ唐突に「死」が現れるのは何故だろう。
命あふれる季節を眩しく感じるからこそ、そのくっきりとした影に死のまぼろしを見たのだろうか。そう思うと水入れに満ちた水は、日常の片隅にある、おそろしい深淵のようにも思えてくる。
すこやかな文鳥を見守りながら、主体はこの幸福な時間が永遠に続かないことを思い起こしてしまったのかもしれない。せめて最期の日がにんげんにも文鳥にも「すやすや」と、安らかなものであることを祈りながら。

この街の数限りない玄関のその幾つかの奥に小鳥は/秋冬『秋』
おそらく街のなかでは、犬や猫よりずっと少ない、小鳥のいる家。
「数限りない」家があるこの世界で、それぞれのにんげんがそれぞれの文鳥と出会い、家族になること。それ自体がとても不思議な縁であるように感じさせられた。
この歌の結句は「小鳥は」で止められている。その効果からか、家族の帰りをケージの中で、思い思いの姿で待っている文鳥たちを想像した。今夜もかいぬしたちがドアを開くたび、家ごとに少しずつ違うおかえりの声が聞こえてくるのだろう。あたたかな家族の風景を想像しながら読んだ。

かなしみという大きな鳥に包まれて旅立っていくきみを送りぬ/秋冬『小窓から』
文鳥との別れを詠んだ連作の一首。初句は七音で読んだ。字余りで、こみ上げてくる感情がとても強く表されているように思う。
その時、「大きな鳥」に包まれたのはどちらだろう。
初めは「きみ」を包んで遠い国へ連れていくのだと思った。しかし、「きみ」を送る主体の方を抱擁しているとも読める。
(「かなしみに包まれる」という表現は遺された者に対することが多いように思う)
主体と「きみ」は互いを思いあう、とても幸せなパートナー同士だったのだろう。最期の瞬間にそれぞれの「かなしみ」がやって来て、ふたりをそっと離してゆくように感じた。
「かなしみ」は大きくてあたたかく、そしてとてもやさしい鳥だ。読みながら、泣いてしまった。

この歌集の一首一首は、文鳥一羽一羽の物語でもあるように思った。感情豊かな、そしていつかにんげんたちを置いて旅立ってしまう小鳥たちの一瞬が切り取られている。
読後、文鳥たちとの生活をもっともっと大事にしたいという思いが強くなった。よしおかさん、すてきな歌集を読ませていただきありがとうございました。

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