平成最後に震災の海を見た話

「ありがとう平成」「こんにちは令和」。
世間が寄ってたかって平成を総括しにかかっていた平成31年4月末、連れの提案で唐突に車で岩手宮城の海辺を旅することになった。
しかし、10連休である。今さらホテルなど取れるはずもなく、布団と電気ポットと、連れがどうしてもというのでなぜかソーセージ焼き器を車に積んで車中泊の旅に出た。
仙岩峠を越えて盛岡を通過し、一日半かけてやっと沿岸地域である久慈に到着した。わたし自身は仙台盛岡に仕事で来ることはあっても、沿岸部を訪れるのは初めてだった。連休中ということもあり観光スポットはどこも賑わい、地元の美味しい食べ物やお酒がたくさん揃っていて、被災地であることも忘れてしまう。太平洋も見慣れた秋田の海よりも穏やかで、きれいな青い色をしていた。
しかし、道を進むにつれて風景は変わりはじめた。突然あちこちに現れた「津波浸水地域ここから/ここまで」の青看板と、海岸沿いに続く堤防。コンクリート造の防潮堤は、そこに海があることに気づかないくらい高く、分厚く、真っ白な要塞のようにそびえ立っていた。間違いなくここはかつて大津波が押し寄せ、多くのひとが亡くなった場所だったのだ。

三陸地域を海沿いに南下するにつれ、その感覚はどんどん強くなった。

釜石には、一階がガレージになっている古びたアパートが残っていた。違う。一階部分がH鋼の柱を残して跡形もなくなっていた。立ち寄る予定だった高田松原の道の駅は、おそらく被災時からそのまま、鉄骨むき出しの状態でまっ平らになった街にポツンと取り残されていた。

震災から8年が経ち、復興は着実に進んでいるように思った。被害の大きかった海辺にもすでに新しい家や店舗が立ち、あちこちでお世話になった道の駅には日本中から車が来ていた(沖縄ナンバーを2回くらい見ました…すごいな)。
それでも、町は今もなお出血しているように感じた。復興工事の重機や盛土は、いつまでも癒えない傷口に包帯を当てている姿に見えた。
平成の血の上に土が盛られ、新しい道が通り、新しい時代が始まる。それでも血は止まることはないのだろう。新しい生活の下でこれからもゆっくりと流れ続け、ふとした瞬間に包帯からわたしたちの記憶にじんわりと滲んでくるのだろう。

潮風の過ぎるホームに刻まれた地震(なゐ)の日付はだれの平成/愁愁

ソーセージ焼き器は最後まで使いませんでした。

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