冲方丁新作小説『アクティベイター』冒頭無料公開!
王様のブランチご出演でも話題の、冲方丁さんの新作小説『アクティベイター』の冒頭を無料公開します!
冲方丁『アクティベイター』
1
「シマー25、離陸(テイクオフ)」
指令(オーダー)に従い、編隊長の島津光雄(しまづみつお)一尉が、F─2戦闘機を離陸させた。
僚機と編隊を組み、百里(ひゃくり)基地から該当の海域へ、空自に割りあてられた回廊(コリドー)を通って飛んでいく。さらに二機、後続として飛び立つ予定だ。
離陸してすぐ、入間DC(防空指令所)の要撃管制官から指示が来た。
「シマー25、オフサイド、エスタブリッシュ、メインテイン・ツー・セブン・ゼロ、エンジェル・ツー・フォー、セットスピードMACポイント・ナイン・ファイブ」
最初のワードとナンバーは、島津機をあらわすコードだ。オフサイドは中部航空方面隊の入間DCのコード、エスタブリッシュは通信の確立を意味する。メインテインは方位、エンジェルは高度、そして出すべきスピード。それらを了解したと告げるため、島津はスロットルレバーの通話ボタンを親指で二度押し、じゃっじゃっと音を返した。通信内容を秘匿するとともに、いちいち言葉を返す手間を省くための慣例だ。要撃管制官はヘッドマイクのジッパー音で返すこともあった。
オーダーは、領空侵犯の恐れに備えて発される、スクランブル発令にもとづく措置だ。
領空とは、十二浬(カイリ)(約二十二キロメートル)の領海上空のことで、ここに侵入されると、本土は目と鼻の先となる。そのため、主に排他的経済水域である二百浬上空をADIZ(防空識別圏)とし、そこに侵入する相手に対し、スクランブルが実施される。
発令から五分以内に離陸すべきとされることから、五分待機とも呼ばれる任務だ。
航空自衛隊が一手に引き受けるが、厳密には軍事行動ではない。警察権の行使だ。
領土侵犯には、陸は警察だけでなく旧入国管理局の出入国在留管理庁が、海は海保こと海上保安庁が対応する。それぞれ管轄省が異なり、入管庁は法務省、海上保安庁は国土交通省の管轄だ。当然、どちらも警察権にもとづく組織であって、軍事組織ではない。
空の警察権の行使を自衛隊が担う理由は、もちろん、戦闘機を運用できる組織がほかにないからで、世界的には軍隊の仕事とされるのが普通だ。
運用に欠かせない空自のレーダーサイトは、ほぼ米軍から自衛隊に移管されたもので、対ソ陣営の名残といえた。レーダーサイトがADIZを二十四時間態勢で監視し、動向が不審な飛行体があれば、ただちにスクランブル発令が下される。
ただし他国の軍用機が示威目的で飛来するとは限らない。うっかり侵入してしまった民間航空機などは最小限の警告で済む。軍用機の多くはロシアと中国のもので、日本のレーダーやスクランブルの反応の調査や演習中の爆撃機が大半だ。当然、通信で警告して退去させるのだが、たいてい和やかでも敵意に満ちてもいない。互いにやるべきことを淡々とこなすだけだ。
過去には、アメリカが空自すら知らない飛行計画を立てたこともある。二〇〇〇年に竹下登元首相が逝去した際、ブッシュ元大統領がおしのびで日本の山陰地方に来ていたのだ。もちろんこれは特殊なケースで、アメリカ軍機が秘密裏に日本の空を飛びはしない。民間機が増えて混雑する一方の空路を確保する上で、むしろ飛行計画の提示は必須だ。
─本当に迷惑なのは、ただの物体だな。
いっそ、そうであってほしいという気分で、島津は思った。そうでないことは、この時点ですでにわかっていたのだが。
デパートにアドバルーンが付きものだった時代は、紐が切れた気球が多く見られたという。最近はコントロール不能となったドローンが難物で、気象学者が念入りに自作したものなどは意外なほど落ちてくれない。撃墜するわけにもいかず、日本国民に被害が出ない場所で、万事障りなく海の藻屑(もくず)になってくれることを願うばかりだ。
─夕暮れが近い。
島津一尉は、ちらりと不安を覚えた。
離陸時の時刻は、十七時五十七分。春先で日が長くなったとはいえ、悠長にしていたら光量がどんどん減退する。F─2には、DC(防空指令所)から送られてくるレーダーデータを表示する国産のデータリンク装置JDCS(F)というシステムが搭載されているので、たとえ暗闇でも追跡は可能だが、オーダーに従う以上、パイロットには対象を目視する義務があった。
レーダー上で発見してのち無線で警告したら相手は消えた─というだけでは警察権の行使としては不十分なのだ。相手が何者で、どの方角へ去ったか、見て確かめる。その目視に、支障をきたしかねない時間帯だった。
─なぜこの時刻を選んだ?
示威目的の軍機なら視認されにくい時間は選ばない。誇示にならないのだから当然だ。
夕暮れから夜間を狙って来たなら、偵察行動か、それ以上の目的があることになる。
低高度飛行で敵艦を攻撃する。都市部を爆撃する。そう考え、心臓がひやりとするような気分を味わったとき、DCから情報が来た。
「ブラ、ターゲット・シングルグループ、スリー・ゼロ・ゼロ、ワンハンドレット、トラッキング・ワン・ツー・ゼロ、アルト・ワン・ツー、アンノウン、ワン」
ブラはBRG、ベアリングレンジ(方位と距離)の略だ。相手はシングルグループ、一梯団規模。それが方位三〇〇、距離一〇〇マイル、風速を考慮した対象機の機首方向は一二〇、高度一二〇〇〇フィートの位置にいる。島津はまた通話ボタンを二度押して了解したことを告げ、目指すべき方角へ、僚機とともに機首を向けた。
そうしながら、管制官の最後の言葉が脳裏にこだまするのを覚えた。
アンノウン、ワン。
不明の機体が、一機。
最初にスクランブル対応をしたロードリックこと那覇(なは)DCから情報が来ていたが、不明というのは、通常知られる機体のどれにも該当しない新型機らしいことを意味する。
それがたった一機で、南西航空方面隊が守る沖縄から、中部航空方面隊が守る関東まですり抜け、小笠原諸島付近でようやく峯岡山のレーダーに探知された。
西部航空方面隊が動かなかったのは、対象が沖宮間を通過し、南大東島からグアム方面へ向かうと思われたからだ。普通、そうなる。そうならなかったことが何を意味するか、まだわからない。
─西日がきつい。
視認を阻害すること甚だしい。焦りをぐっと押し殺したとき、何かが見えた。
「タリホー」
島津が声に出してDCへ報告した。発見を示す言葉だ。そうしながら、自分が何を見ているか考えた。黒い、板状と袋状のもの。それが、くるくる回転しながら落下してゆく。
─偽装部品か。
最新型の軍機の機密を守るため、あえて余計なものをつける場合があるのだ。意図的に機能を低下させ、過小評価させるために。あるいはそうすることで、もっと性能があると見せかける。なんであれ、そんなものをわざわざ付ける機体は限られている。
公表前の最新鋭の機体だ。そうでなければ偽装する必要がない。そしてその偽装を、ここにきてパージした。高度な軍事訓練か、作戦の一環かもしれない。誤ってこちらの領空に侵入したのか。それとも意図的か。何もかもわからなかった。
「タリホー、ワン・ツー、目標物(TR)、フェイクパーツ。本体を探す」
島津が言った。対象機の略号と機体数を口にすべきだが、不明ゆえそう告げるしかなかった。DCからの指示はない。目視(タリホー)のあとはパイロットに全責任が委ねられる。
思わず尻の穴に力が入った。
─げすびたの穴がすぼまっとるぞ。下手(しょま)なことすなよ。
頭の中で自分に言い聞かせた。こういうとき、なぜか郷里の訛(なま)りが出る。速やかに緊張を追い払いながら、相手が偽装を外した理由を考えた。こちらが追っていることを相手が悟ってやったのだとしたら、何を意味するのかを。
─攻撃態勢。
だとしても動揺しない自信はあった。戦闘への覚悟は日頃から抱いている。相手から攻撃された場合のオプションを。反撃か。逃走か。決断までの猶予は僅(わず)か数秒だ。
─攻撃のために沖宮ラインを抜けたというのか?
これは、沖縄と宮古島の間を抜けて太平洋側へ出ることをいう。日本の防空の急所というべき空域で、そこから太平洋側へ出た機体は、国内のレーダー網でとらえることが困難になる。レーダーサイトが米軍から移管されたものである以上、太平洋側を監視する機能をろくに持たない。アメリカの侵攻に備える必要などないというわけだ。
ここで対応しうるのは自分達だけだった。沖縄周辺を守る南西航空方面隊のスクランブル対応機は南大東島まで追跡し、燃料の残量の問題から帰投している。九州・中国・四国の西部航空方面隊、その先の中部航空方面隊は動かない。管轄を越えた活動が推奨されないのは、どんな組織でも同じだ。
ふいにレーダーにヒットするものがあったが、追っている相手ではなかった。数が違う。新たに二機、それこそ太平洋側から現れたが、こちらは友軍で、すぐ視認できた。
アメリカ軍機。F/A─18。ボーイング社が開発した特大のスズメバチ。そのG型機。つまり電子戦機(グラウラー)だ。
その直後、暗がりが降ってきた。
島津は息を吞んで見上げた。そこだけ夜が訪れたようだった。空が黒く切り抜かれている。巨大な三角形の物体。水平部や垂直部の尾翼がない、全翼型の形状。
そんなしろものが、一切こちらの探知に引っかからず、幻のように降下してきた。
─冷静(ちん)とせんならん。冷静(ちん)とせんならん。
総毛立つほどの緊迫感の中で自分に言い聞かせ、報告した。
「タリホー、スタンバイ、20、TR、頭上にいる。新型の爆撃機と思われる。形は、B─2によく似た無尾翼機。おそらく、中国のH─20、一機(ワン)」
DCにいる人々が、度肝を抜かれているところが目に浮かんだ。目視情報を報告するという務めの一部を果たせたことで、ぐっと落ち着きを取り戻せていた。
─日本人で最初に、これほど間近で見た人間になるな。
美しいというより、不気味なほど完璧に設計された機体だった。現実の物体ではなく、CGでも見ているような気にさせられる。
護衛機なし。攻撃の兆候なし。爆撃機に上を取られているということを除けば、即時対応の事態ではないといえた。そもそも高度を下げた爆撃機は脅威とはいえない。この手の機体が真価を発揮するのは、手出しできない高高度で、死の天使として振る舞うときだ。対領空侵犯措置の規則では、不明機の全方位(三次元)二〇〇〇フィート(約六〇〇メートル)に近付いてはならないとされている。だが、攻撃される危険性は低いと判断した島津は、新型機の詳細を調べるために、下後方から五〇メートル以内に近付いた。
相手がなぜ機体をさらしたかはさておき、遭遇したからには警告せねばならない。
だが島津が中国語で相手に呼びかけようとするや、相手側から、声が届いてきた。
「日本国軍機F─2へ。聞こえているか。F─2へ。応答を願う」
流暢(りゅうちょう)な英語だった。島津は呆気にとられた。同僚もそうだろう。言語の問題ではなく、若い女性の声で呼びかけられたせいで意表を衝(つ)かれたのだ。
「聞こえている」
島津が応じると、同じ女性の声が、いささかの躊躇(ちゅうちょ)もなく、一単語ずつ区切るように力を込めて告げた。
「われ亡命を希望す(アイム・シーキング・アサイラム)。繰り返す(アイ・リピート)、われ亡命を希望す(アイム・シーキング・アサイラム)」
2
『社に到着。勤務に励む』
真丈太一(しんじょうたいち)は小さな運転席に座り、携帯電話で手早くメッセージを打ち込んで送信した。
「上官への報告みたいだな」
独りごちたところ、義弟から本当に上官じみた返事が来た。
『了解。忠勤を期待する』
そうしてくれないとこっちが困るんだぞ、という威(おど)しめいたニュアンスを感じた。
携帯電話をジャケットの懐に突っ込み、二十五万円の現金決済で買った、当座しのぎの軽自動車から降りて屋根に肘を乗せ、忠勤すべき対象を見上げた。
アネックス綜合警備保障、東京本部。義弟の紹介で就職することが出来た会社。勤め始めてふた月になるが、十階建ての立派なビルを見るたび、初めて来た気分にさせられる。
強行制圧すべき目標─なし。
攻撃の兆候を示す武装した人間─影も形もなし。
状況─きわめて深刻に退屈。
「大変な任務だ」
駐車場を横切ってエントランスに入ると、仰々しい会社のロゴマークの下にいる受付の若い女性が、今日一番という感じの微笑みを浮かべて迎えてくれた。
「おはようございます、真丈さん」
お互い、親族の意向でこのビルに放り込まれたという境遇を分かち合う思いが強いのだ。ネームプレートの『香住綾子(かすみあやこ)』の名前を見るたび、君の伯父に顔が似なくて良かったな、と口にしそうになる。あの男の親族に、どうしたらこんな可憐(かれん)な女性が出現することになるのか不思議だった。遺伝子は偉大だ。
「やあ、おはよう。夕方に朝の挨拶ってのは、やっぱり妙な感じだな」
「まだ慣れませんか?」
「すっかり慣れたよ。十時間後には、おやすみなさいだ」
「今週末から昼勤のシフトになるんですよね?」
「そうだったかな」
そらっとぼけて言った。可愛い女の子が、こっちのタイムスケジュールを把握しようとしている。悪いことではないのだろうが、歓迎すべきかどうかは考えものだ。
「真丈さん、フレンチとかお好きですか?」
話題が飛んだ。真丈はちらりとエントランスを振り返った。この子が相手をしなければいけない客が来るか、別の職員が出勤して来ないか期待したが、誰もいなかった。
「エスカルゴ以外はね」
アフリカの肉食カタツムリが凶悪な寄生虫をやどすことを話しかけてやめた。それを食おうとしたフランス外人部隊(エトランジェ)の陽気な隊員のことを話せば、きっと彼女も愛想良く笑ってくれるだろう。そしてあとで誰かに尋ねるかもしれない。エトランジェってどこのお店?
「意外に美味しいんですよ。真丈さんならきっと好きになりますよ」
いささかも怯(ひる)まず彼女が言った。上手く休日が重なったら一緒に行こうとこちらが口にするのを期待しているのかもしれない。そうでないかもしれない。単に純粋に、美味いものを食べた感動を分かち合いたいだけという気もする。
だが彼女が、自分の休日をこちらのシフトに合わせて来そうな予感がした。
「今度、試してみるよ」
曖昧に返したが、かえって、つけいる隙を与えてしまった。彼女の目が俄然(がぜん)光った。
「じゃあ、今度─」
しわぶきが背後で響いた。綾子が口を閉じた。真丈はむしろ救われた気分で振り返った。口をへの字に曲げた、六十がらみの制服の男がいた。
「おはようございます、坂田(さかた)部長」
真丈が言った。部長が右手の人差し指を、くいくいと動かした。こっちに来いというのだ。特殊部隊における〝注目しろ〟の合図ではない。
「また今度」
一言残してカウンターから離れた。綾子が唇の端に笑みを溜めてうなずいた。
部長は、特に真丈に用事があるわけではなかった。受付のカウンターに肘をついて女の子と話していたことが気に入らないようだった。
「君の勤務態度だが、私はどんな評価を付けるべきだと思うかね?」
部長室にわざわざ連れてきて、自分だけ椅子に座って言った。
「常にシフト開始三十分前には出勤していることについてですか?」
「その後の態度についてだ」
「何かミスが?」
部長のこめかみに血管が浮かんだ。勤務評価についての会話で相手を脳溢血(のういっけつ)に追い込めるかもしれない。対象を無力化する最新の手口だと義弟にメッセージしたくなった。
「社の玄関先で私語に耽(ふけ)るなど、我が社の社員らしからぬ振る舞いだ。覚えておきなさい」
元警察官らしい言い回しに感心した。私語に耽る。どこかのキリスト教組織みたいだ。屍(しかばね)のように沈黙せよ。軍票(ドッグタグ)と同じ金属製の識別票を首からぶら下げる宣教師が、子どもをさらいに来るアフリカの民兵と自動小銃で戦う姿を思い浮かべたが何も言わなかった。
「ご教訓、感謝いたします。坂田部長」
きびきびと口にしながら、大変感銘を受けましたと顔じゅうで表現してみせたところ、部長のこめかみに浮かぶ血管の数が如実に増えた。
「では勤務に励みます」
相手が何か言う前に、踵(かかと)を鳴らして敬礼した。我ながら見事な所作。何千回も繰り返して身につけたものだ。部長が呆気にとられた隙に、回れ右をして部屋を出た。
夜勤組の待機室では、職員たちがテレビ・モニターの前に集まっていた。最も年嵩(としかさ)の男の背後に立ち、現世から撤退しつつある残り僅かな髪の上から覗(のぞ)き込むと、『緊急速報!!』のテロップが見えた。
「災害のニュースですか?」
真丈が尋ねると、何人かが振り返った。目の前にいる年嵩の男が言った。
「中国の戦闘機が、日本に飛んできたんだとよ」
すぐにテレビに向き直った。戦争でも始まったかのような顔つきだが、即応の準備にかかる様子はない。自分が戦うことは想定していないのだろう。
若い男が、比較的冷静な調子で言った。
「その戦闘機、羽田(はねだ)空港に着陸しようとしてるんですって。空港が大騒ぎですよ」
「へえ? それはないだろう」
みんなニュースに夢中で、真丈の反論に応じる者はなかった。若い男もすぐテレビに目を戻している。真丈は彼らから離れ、ロッカールームへ向かった。
─正式な発表があったな。
ニュースになるということは、そういうことだ。国民に対する説明というより、外交問題に発展させないための発表だ。自分達は間違ったことをしていないと先手を打って主張するのだが、日本政府が苦手としてきたことでもある。いちいちアメリカの意向に従って発表するせいで、自国の対応マニュアルが蓄積されていないのだ。
─アメリカが関わっている。
それが、この国で最も強い報道圧力なのだから、そうなる。
「羽田か」
それが妙だった。仮に太平洋側でスクランブルが発令されたとして、有名な民間空港が強制着陸の舞台になることなどありえない。最悪の一言だ。混雑する民間空港に混沌(こんとん)をもたらし、首都圏の空で大渋滞が起こる。空自がそんな真似をするとは思えなかった。
どんな事情があればそうなるのか。強制できなかった。警告を無視され、列島上空に進撃された。とんでもないことだ。空自だけでなく米軍も出動するだろう。
「それはないな」
退屈すぎるせいで、おかしなことを考えてしまうのだ。そう思いながら制服に着替えて待機所に戻ると、テレビの前の人数が大幅に減っていた。飽きたのではなく、CMに入ったのだ。年嵩の男と数人が、他のニュース番組を探してチャンネルを替えていた。
若い男は、パソコンで検索している。検索欄に『羽田』の文字が見えた。
民間空港に戦闘機。昔そんなことがあったな、という記憶を刺激された。何十年も前、日本で起こったことだ。当時も、自分のように「案件」に関わる者がいただろうか。
スピーカーから発される声で、考えを中断させられた。
「緊急です。緊急です。顧客番号を確認の上、担当者は至急、出動して下さい」
みな、社から支給された携帯電話の画面を確認した。
「世田谷(せたがや)の楊(ヤン)さんです。またかよ」
担当である若い男が、ぶすっと言った。みなが共感するような顔つきになった。
裕福な中国系の顧客への反感というわけではない。むしろ上客だった。普通、通常回線が途切れた場合を想定してダブル回線で満足するところを、さらに回線を増やしてトリプルにする客だ。これに通常の二・五倍の警備保障料を払う。素晴らしい客だが、その分、気軽に助けを求めるらしい。レストランの店員を呼び止めるのと同じ感覚で、防刃チョッキを着た職員を呼びつける。担当者はたまったものではない。
「今月だけで、十二回目か」
真丈が携帯電話で記録を見ながら言った。二日に一度は呼んでいる。
「話し相手が欲しいんでしょうかね。じいさんの一人暮らしだし」
若い男が渋々といった調子で出動のために防刃チョッキを着込んだ。
真丈は立ったまま携帯電話の画面を操作し続けた。情報には最後まで目を通す癖がついているのだ。呼び出しに用いられた回線を確認すると、第三回線だった。過去一度も使われていない回線。侵入者がダブル回線を想定して両方を封じたとしても、なお助けを呼べるよう設定された、最後の命綱。
「待った。おれが行くよ」
真丈が、若い男を呼び止めて言った。
「部長に、勤務評価について小言を言われたんだ」
若い男が、にやっとした。
「お願いします」
真丈も笑みを返し、身支度を調えた。金庫室で該当住居の封印鍵を取り、所定のボタン付きポケットに入れて出動した。
自前の軽自動車ではなく、企業ロゴのついたフォードアの自動車だ。
─二人ひと組じゃない。
渋滞を避けながら、ぼんやり考えた。単独派遣。二人ずつ出動させる予算は組まれていない。危険なやり方だ。二人ひと組は鉄則といっていい。現金輸送の監視でも、スクランブル発令でも。単独では、カバーできる領域が限られ、たやすく通信不能になる。
─義弟よ、おれは忠勤しているぞ。
メッセージを送りたかったが、運転中なので控えた。
出発から八分で、該当住居の前に到着した。安全運転を心がけながらの迅速な出動。工夫すればあと二分は短縮できるかもしれない。
車を降りて玄関の呼び鈴を鳴らした。反応なし。屋内で音がしているのかも不明だ。
監視カメラに目を向けた。作動中であることを示す赤い小さなランプの光が見えなかった。カメラが切られていた。
トリプル回線を選ぶ住人がわざわざカメラをオフにするものだろうか。
庭へ移動し、電話を取り出そうとしてやめた。近くに誰かがひそんでいた場合、電話で耳を塞いだ瞬間、死角から襲う。自分なら、そうする。
相手が屋内にいる場合、こちらの声を聞かれて位置を知られたくなかった。
塀に何かがかけられているのが見えた。厚手の毛布。塀を越えるとき有刺鉄線に引っかからないように。侵入経路だ。
腕時計を見た。十八時半を回っている。黄昏(たそがれ)時だが、真っ暗ではない。侵入者は夜になるのを待たなかった。それだけ急いでいた。あるいは留守だと思っていた。
塀を越えた誰かが辿(たど)ったであろうコースを進み、キッチンにある裏口のドアへ近寄った。
棍棒(こんぼう)代わりにもなるフラッシュライトをベルトから外し、逆手に握ってドアを照らした。
サムターン錠が丸ごと外されていた。
ライトを消し、身を低めてドア枠を左手で引っ張った。音もせずドアが開いた。屋内へ入ると、暗く、しんとしていた。単独行動。またその思いがわいた。
相手は何人だ? 家のあるじは無事か?
ライトをベルトに戻し、警棒と催涙スプレーを装着するボタンがきちんと留まっていることを確認した。揉(も)み合ったときに相手に奪われないためだ。
指出しグローブをはめた両手の指を、わきわきさせた。臨戦態勢。するするとリビングへ移動した。無人だった。カーテンが大きく開いている。薄灯りの中、一人掛けのソファが倒れ、そばの床に黒いものが広がっていた。鼻をつく臭いで血だまりだとわかった。
階段へ移動し、二階に上がった。階段に敷かれたカーペットが足音を消してくれた。
二階で待ち伏せする者はいなかった。部屋が四つもあり、どのドアも閉まっていた。ドアの下の隙間から、どの部屋も灯りがついていないことがわかった。
トリプル回線。コントロールパネルの一つは三階のベッドルームに設置されている。家のあるじは三階へ向かった可能性が高かった。助けを呼ぶために。最後の命綱を求めて。
三階へ上がってすぐ、呼吸音が聞こえた。誰かが苦しげに息をしている。絶え絶えという感じだ。病気ではなさそうだった。血の臭いがした。強烈な、鮮血の臭い。
「アネックス綜合警備保障です」
声を出しながら、慎重にベッドルームに入った。
「ここだ……ここにいる」
大きなベッドの向こうから弱々しい声がした。
「楊さんですか?」
普通は本人確認のため暗証番号を言わせるが、そんな余裕があるとは思えなかった。
ベッドを回った。ガウン姿の老人が、壁に背をもたせかけていた。死因は失血死になるだろう。胸から流れ出たらしい黒っぽく見える血溜まりを確認してそう思った。
相手の死因もそうなるかもしれない。老人の右手に大きなナイフがあった。鋭利なコンバットナイフが血で濡れている。キッチンにあったのを咄嗟(とっさ)につかんだのではなさそうだ。
「二人……、あと二人。家の中……捕まえろ」
今にも絶息しそうな掠(かす)れ声。だがしっかりと、日本語で、老人が言った。
─鋼鉄の魂だな。
自分を助けるより、相手を捕らえろというのだ。すごい根性だった。十二回も呼びつけた上客。襲撃を予期してコンバットナイフを常備していた一人暮らしの老人。
「わかりました」
相手に背を向けた。手当てしようとすれば侵入者たちに襲われる。単独ではすべきこともできない。どのみち救えるとも思えなかった。一分以内に絶命するはずだ。工夫すれば短縮できていたかもしれない時間が口惜しかった。
「他に伝えたいことは?」
老人を見ずに訊いた。二人いるという襲撃者達の情報が欲しかった。だが、老人は全く別のことを告げた。
「H─20が来る……。J─20のはずが……偽られた。三日月計画に、介入……」
ちらりと老人を振り返った。
「なんの計画だって?」
そのとき、ベッドルーム・サイドのバスルームの引き戸が大きな音を立てて開かれた。
身構えたが、誰もいなかった。フェイントだ。
入って来た廊下側のドアから、黒ずくめらしい人影が飛び込んできた。
相手が握るナイフが、吸い込まれるようにして真丈の脇腹に迫った。
3
黒い上下のスエットに、黒い目出し帽。いかにもな殺し屋。素人の物盗りではない。
真丈はそう確信していた。殺害目的の侵入。おそらくタイムリミットがあり、それで暗夜を待たず実行に移した。そいつが小ぶりなコンバットナイフを素直に突き込んでくれれば、一瞬で取り押さえることができる。高強度金属プレートとケブラー繊維のサンドイッチである防刃チョッキを着た者の脇腹を、ナイフで抉(えぐ)ることは不可能だ。
真丈が警備会社の人間であることは、そいつもわかっているだろう。緊急出動した警備会社の人間が、防刃チョッキなしで現れることは、まずない。だから当然、脇腹への攻撃はフェイントだ。実際そいつは脇腹を突くとみせて、真丈の膝を蹴ろうとした。
真丈が下がってかわすと、今度はナイフを持たない方の手で、裏拳とみせたスナップを放ち、指の爪で真丈の両目を叩こうとした。
体勢を崩させ、視界を奪い、馬乗りになる。そうして頸部(けいぶ)を切り裂くか、喉を突くか、脇の下をナイフで抉る。どれも無理なら股間か大腿部を刺す。防刃チョッキを着た相手にはそうするしかない。とにかく大量出血につながる傷を負わせる。それがナイフの役割だ。
真丈は、顔に向かって飛んで来た指を、ぱっとつかんだ。予測のたやすい攻撃なら、こうして防ぐことも簡単だ。
右手でそいつの左手の人差し指と中指をつかんだまま、右方向へ─相手が持つナイフとは逆側へ動いた。刃物を持つ相手に対しては円運動が基本だ。
真丈が右へ。相手も右へ。真丈はナイフが届かない距離と角度を保とうとする。相手はナイフが届く場所へ追い詰めようとする。至近距離の鬼ごっこ。周囲にある物は何でも使う。ベッド。サイドテーブル。椅子。スタンドライト。相手が足を取られて転ぶよう誘導する。そうなれば即チェックメイトだ。しかし薄暗い中、どちらも転ばず、家具を跳ね飛ばしながら、ぐるぐる廻り続けた。一方が他方の指を握りしめたまま。
相手は左手をもぎ離そうとし、ナイフでフェイントを仕掛けてくるが、真丈は離さない。尋常でない握力。目出し帽からのぞく目と口に、驚きと焦りの色が浮かんでいる。
ぐるぐる廻ることは、真丈にとって周囲を確認できるというメリットがあった。未確認のもう一人に備えねばならない。背後から組み付かれ、急所をガードできなくなるのが一番まずい。もう一人はまだバスルームにいる。引き戸を開けて真丈の注意を引こうとしたのだ。バスルームも廊下側に通じているが、一瞬で移動して廊下側のドアからベッドルームに突進することは難しい。パートナーと示し合わせての奇襲。
─義弟よ、おれは忠勤しているぞ。
相手は、真丈をベッドがある方へ追い詰めようとしていた。足を取られないためには、ベッドに乗るしかない。その一瞬で、こちらの大腿部を刺す気だ。相手の指を握っていると、そういうことが察知できる。相手が注目する方へ、無意識に指に力が入るからだ。
ベッドの反対側では、虫の息のクライアントである楊氏が、うつろな目をしている。
真丈の膝がベッドの端に当たった。相手がナイフを繰り出そうとしたが、その前に真丈が一回転した。相手の指を握ったまま、右手に体重を込め、ベッドの上で前転したのだ。
ぼくっ、と何かがまとめて弾けるような感触があった。相手の指の関節が外れたのだ。
相手が呻(うめ)き声を漏らした。いや、悲鳴を吞み込んだというべきだろう。真丈が楊氏のそばの床に着地したときには、右手に握ったものが、ぐにゃぐにゃだった。二本まとめて、関節という関節を脱臼させてやったのだ。
ベッドに前のめりに突っ伏したのは相手の方だった。真丈は手を離した。思った通り、もう一人が相棒の不利を悟り、開いたままの引き戸から飛び出してきた。
黒ずくめの上下。目出し帽。右手にナイフ。相棒と同じ出(い)で立ち。同じ戦術。こちらの防刃チョッキの隙間を狙う。そのために動きを封じるか視界を奪う。
そいつは、比較的わかりやすい攻め方をした。ナイフを何度も繰り出し、こちらの額を切ろうとしたのだ。上手くいけば、流血で目を塞ぐことができる。
だが上手くいくとは限らない。真丈はナイフをかわしてベッドの上に飛び乗り、指を負傷した男の頭上を、ハードル走の要領で跳んだ。
二つのナイフが閃(ひらめ)いたが、どちらも真丈には届かなかった。
着地して廊下へ走り出た。いったんの逃走。階段の手前で振り返り、腰のフラッシュライトを右手で取った。照明部の近くを逆手に握り、顎の下辺りで相手を照らすように持つ。柄の部分を肩に担ぐように構える。何も持たない左手を前へ出し、牽制(けんせい)に用いる。
世界的にオーソドックスな、フラッシュライトや警棒による構えだ。フラッシュライトなら照明部を、警棒なら柄頭(つかがしら)を相手に向ける。そうすると、握ったものの全体の長さが、相手からは見えなくなる。つまり間合いを見切ってかわすことが難しくなる。
もちろん首や側頭部のガードにもなる。良いことずくめだが、日本ではあまり見られない。警察はしないことになっているらしい。攻撃性が高すぎるからだそうだ。
また、忘れてはいけないもう一つの利点がある。フラッシュライトの場合、照らすことができる。追ってきたのは指が無事な方の敵だった。そいつが廊下へ現れるや、真丈はフラッシュライトのスイッチを押した。放たれた光が、そいつの目を直撃した。
わざわざ指や刃物で狙うよりはるかにたやすい目潰(めつぶ)しだ。四百ルーメン、つまり照明範囲が四百メートルに及ぶ光を、距離三メートルほどで浴びたとき、僅かな表面積の眼球への光束発散度がどれくらいかはさておいて、一時的に視力を奪うには十分だろう。
相手がたたらを踏み、空いたほうの手で顔を庇(かば)って光を遮ろうとした。意表を衝かれた様子が丸わかりだ。無防備に突き出された手へ、真丈がするする近寄り、スイッチを入れたままのフラッシュライトを思い切り振り下ろした。
柄頭が手甲を強打した。骨が砕けた感触があった。相手が苦痛に呻いて退いた。
これで、相手の左手のことは、ほぼ考えなくて済むようになった。
真丈はすぐまた顎下に照明を戻し、相手の顔を照らした。
相手が、光に向かってナイフを突き上げることはわかっていた。がむしゃらに、腕の動きだけで何度も切っ先を繰り出す。上から下へ向かう攻撃を受けた者が、なんとかして劣勢を覆そうとする反射的な動作。
真丈はフラッシュライトのスイッチを切り、床に胸がつきそうなほど身を低めて突進した。思ったとおり、相手は光があった場所へナイフを突き込んでいる。不自由な視界の中で、真丈が高々と棍棒を振り上げる姿でも思い描いているのだろう。
相手の右足に飛びつき、膝で顔を蹴られないよう身をひねって尻を床に滑らせ、仰向(あおむ)けになりながら両脚を回転させた。そうして相手の腰に下肢を絡みつけ、床に倒れさせた。
ブレイクダンスに似た動きだが、真丈は、この動きを人に説明したり教えたりするのが苦手だ。普通、相手の足下へ滑り込めば、踏みつけられたり、蹴られたりするリスクを伴う。どんな格闘術も、自分は倒れず、相手を倒すことに主眼を置く。なのになぜ自ら倒れるような戦法をとるのかといえば、自分にとってそれが合理的だから、というほかない。
おのれの全体重を駆使して、立っている場所から相手を引っこ抜く。その目的は、床や地面という、この世で最も硬くてでかい凶器を、最大限活用することだ。
事実、相手は前のめりに床へ落下した。胸と顔面を床に叩きつけられ、衝撃で手にしたナイフがすっぽ抜けて階段のほうへ飛んでいった。その気なら落下速度を倍にしてやることもできたが、しなかった。殺してしまうかもしれないからだ。
立ったときの高さから頭部を落下させただけで、人は死に至るほどの衝撃を受ける。床にカーペットが敷いてあっても、大したショックアブソーバーにはならない。
手加減してやった代わりに、真丈は全身を回転させて起き上がりながら、左手で抱えた相手の右足首を、おのれの体重をかけて挫(くじ)いてやった。
関節が拉(ひし)がれる確かな手応えがあった。相手が真丈の足の下でくぐもった声をこぼし、身を丸めて体を震わせた。思い切り悲鳴を上げたいのに、我慢しているのだ。
これで一人は、ほぼ行動不能となった。十秒もかかっていない。真丈はベッドルームのほうへ向き直り、フラッシュライトを先ほどと同じように構え、スイッチを入れた。
仲間を援護する気だったもう一人が顔をしかめてたたらを踏み、左腕をかざして光を遮ろうとした。既視感を覚えさせる反応。指が痛むらしく、手を庇うように肘を突き出している。その肘先へ、フラッシュライトの柄を猛然と振り下ろした。
相手が、ぎゃっと声を上げ、感電でもしたかのように身をすくませて後ずさった。
ルーチンワーク。相手が負けじと突き上げるナイフをかいくぐり、床で身を回転させて絡みついた。自分の体重を使って相手の重心を崩し、床から引っこ抜き、放り落とす。
そいつも、呆気なく床に激突した。目は眩(くら)み、息は詰まり、頭は朦朧(もうろう)として、一分はまともに動けない。格闘中に一分も動けなくなれば、死んだのと同じだ。
真丈はまた体を回転させて起き上がり、相手が武器を手放したか確かめた。まだナイフを握っている。落下の最中、武器を手放すなと自分に言い聞かせたのだろう。
大した根性だと感心しながら、その手を容赦なく踏み潰した。かかとに全体重を込め、垂直に蹴り砕いたといったほうがいい。これまた床という凶器を活用しての攻撃だ。
そいつもショックで身を震わせながら、懸命に悲鳴を吞み込んでいる。それどころか、
「章鱼(チャンギュウ)……」
と憎々しげに呟く余裕すらあった。
何のことかわかった。蛸(たこ)だ。真丈の動き方から連想したのだろう。これまで色んな人間から言われてきたせいで、その単語だけはいろいろ知っていた。
中国語で章鱼。フランス語でピウヴル。ドイツ語でクラーケ。イタリア語でポルポ。英語でオクトパス。トルコ語ではアハトポット。元教官からはタコ真丈のあだ名を頂戴したものだし、挙げ句にはコードネームとしても使われる始末だった。
日本で蛸といえば無害でコミカルな食用の生き物というイメージだが、世界には獰猛(どうもう)で怖い存在とみなす人々がいる。どんな相手でも触手を絡みつけて食うからだ。頑丈な甲羅を持つ甲殻類や、ときには鮫(さめ)すら食う。猛毒を持つ蛸は、悪魔じみた害獣とされる。
ともあれ真丈には、またか、という以上の感想はなかった。蛸呼ばわりされても嬉しくないし、ますます蛸みたいに動こうとも思わない。自分にとって最も合理的な動作をしているだけで、世界中の人間からどう呼ばれようと気にしたことはなかった。
─なかなかの忠勤じゃないか?
むしろその点を評価してほしかった。平和な国で、退屈なほど何も起こらないはずの仕事に就いたのに、いかにも職業的な暗殺者といった連中を無力化してやったのだ。
誰より楊氏に知ってほしかった。縁も義理もなく、この二人が何者かも知らなかったが、孤独に戦わねばならなかった男に敬意を表するのは悪いことではないはずだ。
そんなことを思いながらフラッシュライトで倒れた二人の顔を交互に照らしつけた。
「立つんだ」
日本語で言ったが動かないので、ためしに英語で言い直した。
「立て。立たなければ、階段から、お前らを投げ落とす」
すると二人とも、悲痛な呻き声をこぼしながら、上体を起こした。
「そうだ、立て」
英語でまた言った。二人が膝立ちになり、よろめき立った。
「壁を向け」
二人がそうした。真丈はフラッシュライトを脇に挟み、手早くボディチェックをした。一人のポケットから結束バンドが何本かと、小さな催涙スプレーの缶が出てきた。使う機会を得られなかった品々。
真丈はそれらを自分の上着のポケットに入れ、もう一人を調べた。こちらからは携帯電話が出てきたので、それも自分の上着のポケットに入れた。
「ベッドルームに入って、ベッドに座れ」
足を痛めた男が、けんけんしながら従った。もう一人も、痛む両手をぶら下げるようにして移動した。二人ともベッドに座り、痛みで大粒の汗をかきながら、憎しみに満ちた目を真丈に向けた。真丈は頓着せず、彼らの手首を背側に回し、結束バンドで拘束した。
二人の目出し帽をひっぺがし、床に捨てた。どちらも二十代前半のアジア系らしい。むろん、被害者の楊氏が中国系だからといって、加害者もそうとは限らない。それを調べるのは自分の仕事ではないので、それ以上は何もしなかった。
真丈は気にせず楊氏のそばへ行き、屈(かが)み込んだ。楊氏は壁に背を預けたまま動くのをやめていた。首に手を当ててみたが脈はなかった。その顔に、ちょっと獰猛な、歯を剝(む)いた笑みが浮かんでいる。二人の苦痛の声を聞いたのかもしれない。
何者か知らないがこれで成仏してくれることを願いながら、自分の携帯電話を取りだした。会社と警察の両方に報(しら)せねばならない。坂田部長はまだ帰宅していないはずだ。部下の活躍を称(たた)える。クライアントの死に動転して責任を真丈に押しつける。部長がどちらの反応を示すか考えた。後者だろう。上手く説明してやる必要がありそうだった。
その前に、義弟に自分の忠勤ぶりを報せた。
『ヨッシー殿。今しがた務めを果たした。民間でも働けることを証明できそうだ』
メッセージを送って画面を見ていると、すぐに返事が来た。
『真丈殿。至極結構。有意義と知り、安堵(あんど)すること大なり。更なる忠勤あれかし』
冗談じみているほど律儀で古風。出会った頃は馬鹿にされているのかと思ったし、今でもたまにそう思うが、義弟は常に大真面目だ。むしろそうでなかったためしがない。
妹はこういうところに惚(ほ)れたのだろうか? いつも疑問に思うが、答えは出ていない。
気を取り直して会社に電話をかけた。コール音を聞きながら、部長を落ち着かせられるような上手い説明を思案した。結局、何も思いつかなかった。
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