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鉤の手の謎を解く鍵/信州史跡探訪File007

(旧中山道クロスバイク行)ここまでのあらすじ
朝、みどり湖駅にクロスバイクを置く。洗馬駅に車を停め、JR中央線を使ってみどり湖駅に戻り、クロスバイクに乗って旧中山道の旅を始めた。永井坂、永福寺などの史跡をめぐり、塩尻宿の中心街を過ぎる。
その1/みどり湖駅事件はこちら

鉤の手

冷たいお茶で生き返り、旧道が153号から分かれて直角に曲がる場所、その名も鉤の手にやってきた。駕籠立場とはふつう宿場と宿場の間や難所の手前で駕籠が休憩する場所を指すようだがここは宿場の中である。おそらく次の洗馬宿に向けた駕籠を「立てる」場所、すなわち駕籠乗り場であったのだろう。

跡地は村役場となってそれから現在は何やら風情ある醤油工場となっている。

醤油工場の前で道路を北側に渡ると「鉤の手跡」の碑が建っている。

ちょうど横断歩道橋があるので登ってみると鉤の様子がよく分かった。北に折れ、この先で再び西に曲がる。

さてさて直進できないいかなる理由があったのか。

先にも触れたが塩尻宿は1743(寛保3)年に松本藩預地となるまで天領であった。中山道が旧々中山道からがこの地にバイパスされて以来の要衝である。中心には陣屋が設けられ、信濃の天領約5万3000石の管理を担当した。有事には陣屋を以って街道を封鎖することになる。鉤の手は専ら西からの寄せ手に対する防衛上の役割があったと考えられよう。

阿礼神社

再び旧中山道が西に曲がる地点に阿礼神社がある。現在の社殿は1743(寛保3)年に再建したものだが、創建には坂上田村麻呂が関わり、安曇平の豪族征伐のため五百渡の峰の阿禮の神に詣でて遷座したと伝えられる。五百渡の峰は今の高ボッチ付近である。ご多分に漏れず木曽義仲も五百渡の峰に阿禮神社を参拝し戦勝祈願している。

国道を外れると、たちまち道は古道の風情を取り戻し、沿道には300年前の社が残る。自転車も走りやすい。
国道沿いでは激しく車が行き交う場所で乗り降りを繰り返すため、何度もバランスを崩して転びそうになった。ふだんから平衡感覚が少し危うい。小脳あたりに老化による血行障害でも生じているのかと検索したことがあるが、どうやら小脳の障害であることは稀でたいていはメンタル面が原因らしい。なるほど、リタイヤして老け込むとはそういうことか。

堀内家住宅

阿礼神社の隣は小学校になっていて、その門柱の横に「是より東 中山道 塩尻宿」との碑が建てられている。ここからは宿場外れということになる。

その村はずれにこれもまた風情のある屋敷が残っている。

堀之内村の名主、その名も堀内家の本棟造住宅。明治時代にほとんど改造されているにも関わらず国の重要文化財に指定されている。

本棟造は中南信に独特の建築様式で、緩勾配の板屋根による切妻造り妻入り…すなわちこのような正面に入り口が設置されていて、雀おどし(屋根の頂点に設置される鳥が羽を広げたような形の飾り)を持つ建物のことである。外観だけではなく内部構造にもいくつか特徴があり、それらを満たして現存する大型住宅はほとんどが重文ということだ。雀おどしはこの地方の新築の住宅などでも見られる。

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