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耕雲斎墓所~一万円札の人はこの裁定に無関係だろうか…

敦賀に来たらここを訪ねたいと思っていた。場所は来迎寺野。

幕府に投降した水戸天狗党353名がここで斬首された。尊王攘夷の志を一橋慶喜に託すために京を目指し、一橋慶喜に降伏し、一橋慶喜に処刑された。理解できないというより理解したくない。憎悪と復讐の連鎖を生む元凶となったこの過酷すぎる処刑の判断は一橋慶喜の保身以外理由がない。かの「一万円札の人」もこの裁定に無縁ではないはずだ。同じ頃に慶喜の命を受け、水戸藩内で農兵募集をしていて天狗党とは対立する立場にいた。

あるいは耕雲斎らは挙兵したときから覚悟の死だったのかもしれないが、水戸の家族も連座して処刑されている。耕雲斎の妻武田ときは刑場で夫の首を抱かされ、子どもたちとともに斬首された。彼女にどんな罪のありや。

うたたねの 夢ともわかず契りしを さめてぞしたふ 夜半の手枕
武田とき

15年ほど前だったか、天狗党のことをネットで調べているときに、耕雲斎とときの夫婦仲がよかったと記されたサイトを見つけた。今回、ときの和歌を引用しようと思って探すとそのwebサイトはもうなくなっていた。そこで当時セーブしておいた全文をここに引用しておくことにする。

武田耕雲斎夫人と子供たちの悲劇
武田耕雲斎は藤田小四郎と行動をともにし、一橋慶喜を頼って朝廷に尊皇攘夷の大義を訴えるべく京都を目ざしますが、その途上で慶喜が天狗党の追討を命じたことを知って絶望し、加賀藩に投降します。幕府側の投降者への処罰は過酷をきわめ、耕雲斎をふくめ約400人が斬罪に処せられました。武田家は屋敷を没収され、家族は捕われて赤沼の獄に入れられました。耕雲斎の夫人はとき(人見氏の娘で、もとの名はのぶ)と言い後妻でしたが、大変夫婦仲がよかったのはときが残した「うたたねの 夢ともわかず契りしを さめてぞしたふ 夜半の手枕」という歌からもうかがい知ることができます。
ときは獄舎のなかでも子供たちの教育を熱心にしていました。娘のとしには裁縫を教えたのですが、針がないので代わりに松葉を使用したようです。耕雲斎が敦賀で斬殺されたのが元治2年2月4日。同年3月24日には家族が処刑され、ときは塩漬けにされた夫の首を無理やり抱かせられて斬首されました。享年40歳。辞世の歌は、
かねて身は なきと思へど山吹の 花に匂うて散るぞ悲しき
夫人の無念の想いが伝わってくるようです。耕雲斎には七男四女がありましたが、四男は夭逝し、敦賀から救出された五男以外の男子は全員死罪となり、長男の妻と子も斬首されました。六男で10歳の桃丸は「痛くないように斬れ」と太刀取りの役人を一喝して、立派に死んだといいます。でも末っ子の金吾はまだ3歳で、母親にとりすがって泣きました。さすがに首切り役がとまどっていると、「俺が料理してやる」と立合いの町与力が金吾をひったくり、膝に組しいて短刀で刺し殺してしまいました。その後、ときと子供らの首は吉田の原にさらし首にされました。
なお、四女のよし子は永牢に処せられ、明治元年に赦免となり出獄しましたが、すでに下肢はなえて歩けなくなっていたそうです。
天狗党とその家族の処刑に対する幕府や佐幕派への激しい批判はちまたに満ちました。尊攘志士たちの憤激はすさまじく、この大量虐殺が倒幕運動を激化させる結果となったのです。

木戸孝允館より

空模様が俄かに悪くなって来たのでホテルへの道を急いだ。

ぎりぎり濡れずに間に合った。米原でも余呉でもボクらが車から降りて歩いている間だけ雨がやんでいた。今日のボクたちはやっぱりついている。


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