ボクたちの冒険4/カナダ旅 中編
ノープランの旅と言ってもなにがしかの目標点は必要である。思いつくままにこれまでに設定した目的地をいくつかご紹介すると,清正公が慶尚南道に築城した西生浦倭城跡,サウンドオブミュージックのオープニングロケ地,司馬さんがバスクに訪ねたフランシスコザビエルの生誕地,若きゴッホが暮らしたオランダの写生現場…などなど。あまり一般的ではない場所をひとつふたつおおよその折り返し点としてその途中を楽しむのがボクたちの旅のスタイルである。さて今回はニューヨーク発着でしかも4泊5日だけという,かつてない制約がある。
1.折り返し点の設定
出発を前にボクは地図を見ながら折り返し点を決めかねていた。そもそもアメリカには史跡が存在しない。彼らが誇りとするフロンティアとは先住民族を根絶やしに滅ぼしてその居住地を奪い,自然を改変して植生や食物網に取り返しのつかないダメージを与えた歴史でもある。さらにアフリカから無抵抗な人たちを拉致して奴隷にしている。二度の大戦に出征した各地の英雄たちの碑も各地に多い。戦勝国にとっていつも戦争は肯定される。世界中いずれの国に於いても他民族に対しては脛に傷あるものだが,アメリカの場合,歴史が浅いだけにそのブラックさが際立ってボクの旅情は全く動かない。
銃の乱射事件などがあるたびに銃規制に反対する人々がフロンティア精神を語る。あるいは19万人の一般市民が犠牲になった広島,長崎の原爆投下はいまだに世界平和のための美談とされている。これらの大虐殺を本当に誇りに思っているのだとすれば,彼らはよほどの無知か愚か者の集団である。教育のなせる業とすればそれはそれで恐ろしい。戦争に勝つというのはどうやらそういうことだ。
ここで旅の目的地設定に戻ると「自然しかない。」という結論になる。従姉妹たちを始めアメリカからの客を苦労して尾瀬や北アルプスなどに案内してもあまり報われない。彼らは文化としてのそれら観光地を楽しんではくれるが,大湿原や山脈の威容に驚きはしない。アメリカの自然は少々規模が違っている。グランドキャニオンや西海岸の海,アリゾナの砂漠,オクラホマの大平原…それらを訪ねると呆れるほどの規模に,そもそも全容を見たいという欲望がなくなる。眼前にある風景だけで腹いっぱい胸いっぱいになってしまう雄大さがある。幼いころから遠足や家族旅行でそういう場所に行きつけているアメリカ人にとっては昇仙峡も鳥取砂丘もその辺の崖や広場に見えてしまうのは致し方ないところだろう。またもや前置きが長くなってしまったが「ナイヤガラの滝」を今回の折り返し点に決めた。これはまたウルトラ観光地ということになるが,4泊5日圏内には他に候補がなかった。
多くのツアーの観光客はニューヨーク州のバッファローから入り,観瀑船やレインボーブリッジという橋を使ってカナダ側に渡る。この際の入国料eTAは免除される。それではつまらないので,車で国境を越えて紅葉の盛りを抜けて北からナイヤガラの滝にアクセスしようという計画である。22年前のリベンジにボストン美術館に行くとか我が家の薪ストーブの輸入先バーモント州を訪ねるなどの周辺立ち寄りポイントはすべて諦めることにした。距離を実感するためにニューヨーク州の地図に同縮尺の日本列島を重ねてみた。ご覧の通りである。4泊5日ではせいぜいオタワを経由するのが精一杯と思われる。
2.モーテル
雨は止まない。国境まではまだ3時間程かかりそうだ。Wi-Fiの反応が鈍くて検問所が何時まで開いているのか,24時間通れるのか確かめられない。
「今日はこの先で止まることにしよう。」
「うん」
ハイウェイ沿いにはよく「5」とか「7」とか数字の大看板を見かける。この数字は全米に広がるチェーンモーテルの看板である。他にも「6」「8」「9」などを見かけたことがある。今度の旅で楽しみにしていたことの「一つにこの数字のモーテルでの宿泊がある。日本で言えばさしずめ格安ビジネスホテルに当たるだろう。ボクたちはこれまでに4度アメリカをドライブしたが大半はこの数字のモーテルを宿にしていた。当時,日本円に換算して一室4,5千円くらいで泊まれた。コーヒーと菓子パンだけの朝食がついていることもある。
モーテルのランドリーに行くといろいろな人たちと出会える。子どもを何人も連れて山のような洗濯物を抱えたお母さんや気のいい長距離トラックのドライバーなどと話をしながら洗濯を待つのが楽しかった。
初めてアメリカでモーテルを利用したのは1999年,ロサンゼルスに住んでいた従妹のエイミーを訪ねたときだった。いっしょにドライブしてサンタフェで宿を取ることになった。彼女はフロントでいったん鍵を借りて部屋の様子をチェックしてから値段交渉を始めた。フロントの男は渋々とメモに書いた料金を二重線で消して割引値段を書き込んだ。それがドレミにはよほどカッコよく見えて気に入ったらしい。以来,アメリカでもヨーロッパでも宿を取るときはいつも飛び込みでこれをやったものだ。そもそもがビジネスホテル並みの宿代なので値切り交渉は必要に駆られてのことではなく専ら彼女の楽しみである。
もっともエイミーが交渉したのはプールや温かい朝食がついたワンランク上のモーテルだった。ドレミが交渉するのは最低限のナンバーの宿である。それでもたいていは3ドル5ドル(当時のレートで300円500円)と値引き交渉を成功させていた。ちょうど大阪の家電品と同じく,もともとフロントの言い値には割引分が乗せられていたのかもしれない。
時代は変わり安宿にもインターネット予約が必要となった。Wi-Fiの安定したパーキングエリアを見つけて行く手の適当な町に宿を検索すると,「7」が120ドルと表示されていた。1万8千円である。これには驚いた。あせって町を変えて探してみたが100ドルを下回る宿はない。金曜日ということもあるだろうが観光地ではなく,いわゆるビジネスホテルである。アメリカの物価高は想像以上だ。それに加えてボクらがかつて旅した頃は1ドルが90円台だった。この秋,政府の目立った為替対策もないまま円安は150円を超えた。もはや宿探しは愉しみではなく真剣勝負になる。小さな町の中心街に安宿を見つけ,浮いたお金でバーにでも繰り出そうという甘い計画は見直さざるを得ない。***という町の外れにようやく**の表示を見つけた。それもbookingドットコムなどの大手ではなく,見たこともない名前の予約サイトである。サイトによる保証がなく,確約するにはオプション料金が必要となって大手よりむしろ割高になるが,ここはオプションなしの勝負を掛けるしかない。薄暗くなった雨のパーキングでスマホを使って最安値を表示するサイトに登録をした。
町に入ってiPadでGoogleナビを起動したが,反応が遅くて役に立たない。どうやらiPadOSはWi-Fi受信機能に問題があるようだ。ドレミがiPhoneを使って現在地を確認しながらナビゲーションしてようやく宿にたどり着いた。
その名もゴールデンゲートとはずいぶんと豪華だが希望通りのふつうの安宿だった。駐車している車も古ミラージュとどっこいどっこい,トラックもある。停めた車から2メートルで部屋のドア,荷物を運んで人心地がついた。問題はただひとつ,周辺で最安値のこの宿が***ドル,日本円で***もすることだ。同宿のトラックドライバーも出稼ぎらしき労働者も気軽にこの宿を取っている。一般の日本人観光客はそれよりも下層となった。これが世界の現状である。日本政府の経済政策は破綻している。
さてゴールデンゲートホテルの立地は町の外れも外れ。最寄りのマックまですら徒歩15分はかかりそうだった。
仕方ない。町のスーパーまで車で買い出しである。夜遅くても開いているスーパーのデリは安くて品揃えもいいがガソリンスタンドなどと違って如何せん量が多い。美味しそうな唐揚げも7ピースからとなっているので手が出ない。ボクたちの夕食をアレンジするのはなかなか工夫が要る。
シャワーを浴びて晩餐の始まり。サンドイッチの残りもある。ビールの栓抜きはフロントまで借りに行った。
安宿のベッド脇にデリの食べ物を並べ,瓶ビールで乾杯するのは予定していた楽しみではあったが少々の違和感を禁じ得ない。
かつてこれは旅情緒を満喫するためであったが,今夜のボクらは予算の都合で他の選択肢なくここにいる。だがコロナが喉を通ると憂いを忘れた。明日は明日の風が吹く。
3.ハロウィン
モーテルの朝,雨はまだやまない。部屋にサービスのコーヒーとスーパーで買ったパンの朝食を済ませたボクたちは西に進路を取った。
ローカルハイウェイの霧深い行く手からぽつりぽつりと対向車が現れる。
町に差し掛かると街路樹がため息が出るほど鮮やかに色づき,霧に包まれた周囲がいかに美しいのかを想像させてくれる。
ハロウィンが近い。ガソリンスタンド,飲食店やマーケット,そして民家も農家も思い思いの工夫をこらした飾り付けが美しい。ハロウィンは19世紀前半のジャガイモ飢饉でアメリカにたどり着いたアイルランド移民によって定着し世界に広まったと言われる。大西洋を渡ったのは数百万のカトリック教徒で北アメリカのオンタリオ湖周辺に入植した。…つまりここである。ちょうどオンタリオ湖を周回することになるボクらの旅はまさにハロウィン発祥の地を巡るということになる。
古代ケルトの新年は11月1日。毎年10月31日の夜には霊界との境界があいまいとなり,精霊たちが現世に彷徨い出てくる。飾り付けは家族や友人の霊を招くための目印となる。パーティを開き,還らぬ人たちと楽しみを共にする。言うまでもないがその切ない想いはお盆の迎え火と一致する。盆踊りの振り付けは精霊の身振り手振りを模倣している。篝火を焚き,人々が総出で輪になって踊り招く。精霊馬や提灯,花火など精霊に至れり尽くせりの日本の風習の方がより盛大と言えよう。ハロウィンの仮装やジャコランタンは一緒に現れる悪霊を退散するためのものらしい。霊界との境を冒してでも亡き人と会いたい思いは古今東西変わらない。
「停めてー!!」
ドレミがどうしても写真に収めたい飾り付けを車窓に見つけるたびに叫ぶ。ローカルでもハイウェイで停車するのはけっこう難しい。セーフティな路側までUターンして戻ったり,民家の誘導路に寄せさせもらったりする。カメラを手に雨の中を飛び出して行く妻は愉しそうである。先に進むことが旅の目的ではない。ドレミの興味に合わせてどこでも寄り道するのがボクの旅である。
「その辺にしとけ。あんまり奥に行くと住民に咎められるぞ。」
「うん!!わかってる!」
1992年,南部のルイジアナ州でハロウィンの仮装をした日本人留学生が間違えて訪れた民家の住民に射殺される事故があった。熊でも一撃で倒す44マグナムであったという。事故ではなく殺人事件だろう。銃の事件は取り返しがつかない。銃規制を行わないアメリカという国には先進国ではない別の顔もある。
4.コンウェルの国境
雨のハイウェイをコンウォルという小さな町に向かっている。
「コンウォルにシュウイチの友人でもいるのかい。」
出発の前夜,マンハッタンのアパートメントで伯父のトムがしきりに聞いた。その時点でボクらの旅程は「コンウォルの橋で国境を越える」ことだけが決まっていた。モントリオールやトロントに向かう幹線道路からはずいぶんと外れている。トムがなぜそんな辺鄙な国境を目指すのか不思議がるのも無理はない。コンウォルを選んだのは実は勘違いからである。その夜,トムが貸してくれた北米ドライビングマップをぱらぱらとめくっていたボクはコンウォル(Cornwall)の小さな文字をどうしたことかコッツウォルズ(Cotswolds)と読み違えたのである。
コッツウォルズは数年前にイングランドを旅行中に偶然立ち寄った地方の名である。コッツウォルズストーンとして知られる蜂蜜色の石灰岩を産出し,この石材で造られた家が立ち並ぶ村々の美しさは息を呑むほどだったのだ。
地図を受け取ったドレミがボクの読み違いに気づく頃にはボクの頭の中に石造りの村のイメージがすっかりできあがっていた。たけなわの紅葉の森に囲まれて蜂蜜色の建物が並ぶ。国境の川にはゴッホのアルルの跳ね橋のような木の橋がかかり,ボクらはカリオストロの城のルパンと次元よろしくクリーム色のフィアットでそれを渡って検問所の小屋を訪なう。
現実はかなり違った。重い霧の立ち込める雨の中,灰色のミラージュでセントローレンス川(湖)を跨ぐ巨大な鉄筋コンクリートの橋を渡ることとなった。橋は有料でE-ZPassは使えない。あっさりカナダに入ってしまったことにあせったドレミが料金所のお姉さんにまくしたてた。
「あたしたち,何の手続きもしていないのに国境を越えちゃったんだけどどうしたらいい?」
お姉さんが笑いながら指差す道の行く手に高速道路の料金所のようなブースが並んでいた。検問所はカナダ側にあったのだ。
ヨーロッパがEUとして通行フリーとなって以来,空港以外で国境の検問を受ける機会が激減した。アンドラは例外だった。スペインからアンドラへの出国はほとんどフリーパスだったが,アンドラからの入国には厳しい審査があった。アンドラは関税フリーの国だからである。ドイツ,フランス,スペイン,オランダ,ベルギー,ルクセンブルクなどEU圏の国での出入国には審査がない。高速道路を走っているときなど,日本の県境を越えるよりあっけなく国境が過ぎる。標識の文字や速度制限が変わったことでようやく気付くこともしばしばである。
かつては国境の担当職員に渡す賄賂(笑)として日本のお菓子や日本酒パックの詰め合わせを準備したものだ。東欧圏では審査に半日かかることもざらだったが,賄賂が効いたのかそれとも赤い日本のパスポートの信頼だったのか,ボクたちはたいていトランクとエンジンルームのチェックだけで通過することができた。国境を越えるとすぐに両替所があってトラベラーズチェックやドルを現地の通貨に変えた。チェコに入国したときは10万円ほどを両替すると札束を幾つも手渡されて驚いたことがあった。とりあえず次のスタンドでエスプレッソを注文する。身振り手振りで支払いをしながら通貨の相場を確かめたものだ。
さてカナダの検問所のやり取りだけはカリオストロの城のシーンより面白かった。若い審査員の男は最初こそアジア人の不法入国を警戒してか紋切り型の質疑をしていたが,だんだんと質問の内容が興味本位に脱線してきた。米国籍ではないアジア人旅行者が幹線道路を外れた田舎の国境に来たことがよほど珍しかったのだろう。
ティーチャー?何を教えてるの。音楽!バイオリニスト!わお!あなたは?数学!!苦手なんですよ。教えましょうか。遠慮しとくよ。
彼のおかげで初めて訪れたカナダの印象は決定的に良くなった。いい人たちに出会えそうだ。
5.プーティン
ボクらの目指してきたコーンウォルはそこそこ賑やかなカナダ側の町である。橋のアメリカ側が小さな村外れの畑の中だったのとは対照的だった。どちら岸にも共通するのはトウモロコシ畑の広がる風景である。まさにCorn(とうもろこし)の wall(壁)だった。トウモロコシは飼料用で一帯はどちらの国も広大な酪農地帯となっている。
カナダの道路や町の様子はアメリカ東海岸のそれと区別がつきにくいほど似ているが,注意深く見ると標識も店の看板やメニューもすべて英語とフランス語が併記されている。チケットなどの自動販売機やガソリンスタンドの機械も最初に言語を選択するステップがある。
さてボクたちが最初に車を停めたのはマクドナルドである。国内国外とも旅先でマックは避けるようにしている。ほぼ世界共通の味とクオリティは安心には違いないが,せっかくの他行である。失敗してもいいから地元の大衆食堂や屋台などを選ぶべきであろう。ではなぜに初めての土地で一目散とマクドナルドに来たのか。
プーティンである。…と言ってもお隣の困った大統領のことではない。カナダのことを何も調べていなかったので旅行に先立ってニューヨークでネット検索すると,庶民のソウルフードとしてプーティンが紹介されていた。揚げ芋に**チーズを散らし,グレービーソースをたっぷりと回しかける料理とのこと。ソウルフードとの評価はどこのサイトでも一致していた。カナダではどこでも食べられる。メニューになくても,マクドナルドでも注文すれば出てくる。ホントだろうか。それを確かめにマックに来たのだ。
…本当だった。ただし供されたのはただのマックフライポテト。トッピングとしてチーズとグレービーソースの袋がついていた。なるほど。これは一本取られた。
6.カナダ国立美術館
雨は止まない。紅葉たけなわのカナダならば,調べるまでもなくどこへ行っても美しい風景に出会えるだろうとの目論見はもろくも崩れた。こんなときは美術館である。検索すると首都オタワにカナダ国立美術館がヒットした。ドレミのご機嫌を取れそうな旧市街のマーケットも近くにある。観光地らしい。気が進まないが雨では仕方ない。ぎりぎり町中にB&Bの民宿を予約した。土曜である。B&Bでもなかなか強気な値段だ。
首都と言ってもオタワは小規模な地方都市である。大都市モントリオールはフランス移民が多く住む東部の中心,トロントはかつてイギリス領だった地域にある。建国に当たってその境界付近の町が首都に選ばれたとのことである。従って国立美術館のコレクションもそれなりだった。モネやマティスなどわずかばかりの客寄せパンダ的印象派やポスト印象派の作品を観終わると,あとは退屈するばかりで早々の退散となった。
小雨模様だが休日の午後とあって,旧市街のマーケットでは駐車場探しに苦労した。市営駐車場に停めようとすると20カナダドルもする。空いているわけである。
ようやく路上の駐車〼をゲットしたが料金の支払い方法が分からない。地元のデビットカードがデフォルトのようでクレジットカードの挿入口が見当たらない。しばらく通行人を物色し,二人連れの女子高生に声をかけた。狙い通り,年令からしてパーキングメーターの操作は初めてだったようだが,二人は困っている外国人夫婦のためにわいわいと賑やかに機械を操作して支払いを助けてくれた。
旧市街は見物する価値があるほどの旧な建造物はない。
屋台の土産物屋が取り巻く観光センター的建物は田舎のショッピングモールか道の駅といった風情である。2階では婦人会による手芸品の特別展が開催中だった。路上にあふれるように駐車している観光客たちはいったいこのうちのどこを観光しているのだろうか。
こういう場所で値の張らない土産物や衣類などをショッピングするのが大好きな妻は手芸品展覧会場のベンチにボクを置いて勇躍出撃して行ったが,ほどなく手ぶらで戻ってきた。買い物大好きのドレミですら鼻白むほどのローカル感である。
それでもメインストリートに出て他の外国人観光客たちに倣って記念撮影などするといちおう観光した気分にはなった。晴れていればまた印象が違ったのかもしれないがこれもまた旅の一興である。
7.オタワの夜
予約していた宿を見つけるのはなかなかの苦労だった。それは住宅街の中にあって玄関に小さな看板を掲げているだけの民家だったからだ。これぞ民宿である。ボクたちは海外では滅多にバス,トイレ共有の宿は取らないが土曜の夜の観光地。ここが周辺で最安値だったのだから仕方ない。
だがこの民宿はアタリだった。部屋はもちろん,廊下もバスルームも掃除が行き届きとても気持ちがいい。小物やインテリアもかわいらしくて,手書きのメッセージがベッドの上に置かれていた。細やかな心遣いは若い女性に人気がありそうだ。
「『おやじと三人の息子たち』っていう名のバーをご存知ですか。」
玄関先で幼子をあやしている宿の女性に聞いたが要領を得ない。どうやら女性は娘さんで宿はお母さんが切り盛りしていると見える。ボクたちは「おやじと三人の息子たち」を目指し夜の町を中心街に向けて歩き出した。徒歩15分,宿を決めるときから地図で確認してあった。頑固おやじと武骨な息子たちの居酒屋を想像していたが,たどり着いたバーは老若男女が陽気に飲んでいるありふれたバーだった。テーブルに案内してくれたのも武骨な息子ではなく学生アルバイトらしききれいなお姉さんだった。リリたちと同じくらいの年令だろうか,外国人にも物おじしない。
「初めてなら揚げ物の盛り合わせがいいわ。」
それに手羽先8ピース。ビールとシードルは地物である。よきかなよきかな,グラスを合わせて乾杯すればザ!旅の夜。
「チアーズ!!」
運ばれて来た揚げ物盛り合わせの量を見てプーティンはあきらめた。ピクルスまでフライになっている。
千鳥足の帰り道。ボクのオハコは「遠くへ行きたい」。ハンガリーの国境の町ショプロンでも仏バスクのサンジャンピエドポーでも百済の古都扶余でもこうしてドレミに介抱されながら宿へ歩いた。
知ーらない街を歩いてみたい♪どこか遠くへ行きたい♪