「批判的であること」の価値について

何が歴史を前に動かすのか?ベンヤミンの歴史の天使

ここのところずっと「クリティカル・ビジネス」というテーマでいろんなことを考えています。何度かNOTEの記事にも取り上げましたね。

いま、根性入れて執筆しているので年内くらいにはまとまりそうなのですが、昨日、鎌倉のラーメン屋さん「一風堂」で赤丸を食べた時に、ずっと気になってた論点についての答えをふっと思いついたので、メモ代わりのNOTEとして残しておきます。

それは何かというと「クリティカルであることの価値」についてです。あらためて確認すれば、クリティカル・ビジネスとは次のように定義されます。

クリティカル・ビジネス・パラダイム
投資家、顧客、取引先、従業員などのステークホルダーの価値観を批判的に考察し、これまでとは異なるオルタナティブを提案することを通じて社会に価値観のアップデートを起こすことを目指すビジネス・パラダイム

一方で、このクリティカル・ビジネス・パラダイムに対置されるのが、肯定的=アファーマティブ・ビジネスということになります。

アファーマティブ・ビジネス・パラダイム
投資家、顧客、取引先、従業員などのステークホルダーの既存の価値観や欲望を肯定的に受け入れ、彼らの利得を最大化させることを通じて自己の企業価値の最大化を目指すビジネス・パラダイム

で、何が気になっていたかというと「クリティカル=批判的であることはネガティブだ」と考える人が多いのではないか、ということなんですね。前回の記事にも書いた通り、クリティカル・ビジネスのパラダイムを実践するアクティヴィストはまず、誰もが「当たり前だろう」「こんなものだろう」と思って不本意ながらも受け入れていた現状に対して違和感を持ち、その光景を批判的に考察し、最終的に、そのような現状とは異なる別の有り様を構想し、提案することが求められます。

しかし一方で、一般的に「批判的であること」はネガティブな態度と考えられる傾向がありますから、このような態度をもつ人々が、何か価値のある新しいものを本当に生み出せるのか?といぶかしく思われる向きもあるかも知れません。

これはなかなかに鋭い疑問で、たとえば、昭和を代表する批評家の一人である見田宗介は、20世紀後半にあれだけ真剣かつ壮大に取り組まれた世界中の試行錯誤が最終的には無惨で不毛な結果しか生み出せなかった理由の第一として「否定主義=Negativism」を挙げ、それが「実現されるべき肯定的なものの明確なヴィジョンよりも、とりあえず打倒!という情念でしかなかった」と指摘しています[1]。

つまり「批判的・否定的=クリティカルであるだけでは結局、社会は変わらなかったではないか」という指摘で、これはこれでとても説得力があります。

しかし一方で、歴史を前に進めてきたのは、眼前に繰り広げられる光景への大きな違和感、強い否定であったということもまた言えるでしょう。20世紀の前半から半ばにかけて、世界的に大きな影響力を持った哲学学派の一つであるフランクフルト学派の主要メンバーだったヴァルター・ベンヤミンは、その著書「歴史の概念について」において、彼自身が所有していたパウル・クレーの絵に仮託して、歴史と批判精神の関係について、次のように語っています。

ワルター・ベンヤミンが所有していたパウル・クレーの「新しい天使」

天使は顔を過去の方に向けている。私たちの眼には出来事の連鎖が立ち現われてくるところに、天使はただひとつの破局=カタストローフだけを見る。その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐が彼を、背を向けている未来の方へ引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。

ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」

 

歴史は「前進する」ことで展開するわけではない、歴史は、眼前に展開する光景への嫌悪感や違和感から、いわば「後退する」ことによって展開されていく、というのがベンヤミンの指摘です。

人をワクワクさせるようなビジョンが社会を前に動かす、というのはよく言われることですが、しかし、そのビジョンが生まれるきっかけとなったのは、しばしば、眼前に繰り広げられる光景への強い違和感でした。

そして、さらに指摘すれば、歴史的に大きな運動を生み出すことになったテキストの多くは、目の前に繰り広げられる光景に対する批判をテキストの主軸にしており、批判を乗り越えた先に実現すべきビジョンについては、あまり具体的なことを示していないということも、私たちはすでに知っています。

人類の歴史において、最も大きな運動を引き起こすことに成功したテキストといえば、何といってもキリスト教における聖書とマルクスによる著作、なかでも共産党宣言ということになりますが、両者には共通項があります。それは「最終的にやってくるのがどのような世界なのかははっきり描写されていない」ということです。

新約聖書においては、しばしば最後の審判を経たあとの「神の国」についての言及がありますが、具体的にそれがどのような場所なのかについての説明はありません。

これは共産党宣言においても同様に指摘できる傾向です。共産党宣言では、現状の社会に対する分析と既存の社会主義への批判があったのち、ある種、唐突に「万国の労働者よ、立ち上がれ」という宣言で閉じられており、立ち上がってどんな社会を作るべきなのか?ははっきりとは示されません。

しかし、逆にいえば、だからこそこれらのテキストは大きな運動を作ることができたとも言えるのかも知れません。最終的にやってくる世界がどのような世界なのかが明確にすればするほど、そこに個々人が自分で考える理想的な社会を投影できる余白は小さくなってしまうでしょう。

なぜ「社会彫刻」であり、「社会芸術」でないのか?

この点を考えた時、どうしても避けて通れないのが、ドイツ出身の現代アーティスト、ヨーゼフ・ボイスが提唱した「社会彫刻」というコンセプトです。ボイスは「あらゆる人間は芸術家であり、自らの創造性によって社会の幸福に寄与しうる。すなわち、誰でも未来に向けて社会を彫刻しうるし、しなければならない」と呼びかけます。

ボイスのこのメッセージ自体は、クリティカル・ビジネスを実践しようとする人にとって自然に染み入るものだと感じられると思います。

しかし、私自身は、ボイスのこの言葉に触れた時に、ふと考えてしまったのですね。それは、ボイスはなぜ「社会彫刻」という言葉を用いて、「社会芸術」という言葉を用いなかったのか、ということです。

社会芸術。
社会彫刻。

ボイスのいう通り、もし「すべての人は芸術家であり、自らの創造性によって社会の幸福に寄与する」のであれば、私たちが携わる営みは「社会彫刻」ではなく、むしろ「社会芸術」と表現される方が自然に思えます。

しかし、ここでボイスは、敢えて芸術の世界では明確に限定的な領域を指し示す「彫刻」という言葉を用いています。なぜだと思いますか?

あるテキストが本当に何を言おうとしているのか、を掴みたいのであれば、そのテキストが何について語ろうとしているのか、を考えるよりも、何については決して語ろうとしていないのか、を考えることがしばしば有用であることがあります。

おそらく、ボイスは無意識的に、芸術という言葉が喚起する「何かを足していくニュアンス」を避け、彫刻という言葉が持つ、「何かを削っていくニュアンス」を求めたのではないでしょうか。

あらためて確認すれば、絵画をはじめとしたほとんどの芸術が、「何かを加えることによって」成り立つのに対して、彫刻は真逆に「何かを削り取ること」によって完成へと近づいていきます。彫刻は、余分な部分を削り取ることによって形を創造する芸術です。

クリティカル・ビジネスのコンテキストでは、この行為は、既存の社会やシステムにおいてヒューマニティを毀損する要因となっている要素を取り除き、より人間的で持続可能な形態へと変性させていくプロセスの象徴となります。

ボイスがこの点についてどれだけ意識的であったかどうか、本人がすでに鬼籍に入った現在は確かめようがありません。しかし、私自身は、ボイスがなぜ「社会彫刻」と表現して「社会芸術」とは言わなかったのかの理由の核心が、ここにあると思っています。

ボイスの生きた20世紀後半の時代において、すでに、私たち市民の役割は、現状の社会のあり方に批判的眼差しを向け、個々人がそこに嫌悪するものを見出したならば、それを削り取ることによって、望ましい姿を彫琢していくことだという確信が、ボイスにはあったのかもしれません。 

否定によるアーティキュレーション=社会における否定神学

大きなインパクトを伴って世に登場したブランドや企業が、「何かを肯定する」よりも「何かを否定する」ことによって、多くの人々に、そのブランドや企業が「何者であるか」を印象付けることに成功していることは、私たちが「強い肯定」と「強い否定」のどちらに惹きつけられるのか?という問題を考えるにあたってのヒントを与えてくれます。

例えば、アップルが最初に制作した伝説のCM「1984」では、ジョージ・オーウェルのディストピア小説「1984」を模したと思われる全体主義的セレモニーを、乱入したハンマー投げの女性が粉砕するというシーンだけが描かれています。

アップルは当時、創業8年目のベンチャー企業でした。そのようなベンチャー企業が、社運をかけて開発したパーソナルコンピューターの新発売を告知するためのCMなのに、機能や性能の説明はおろか、商品カットさえ映っていないのです。

このCMでは

  • マッキントッシュにどれだけ便利な機能が備わっているのか?

  • マッキントッシュによってユーザーの能力はどのように拡張されるのか?

  • マッキントッシュによってどのような社会がやってくるか?

といった点には、まったく触れられていません。
描かれているのはただ一つ、 

  • マッキントッシュによってどのような社会がやってこないか?

ということだけです。

要するにこのCMは「我々の敵は誰か?我々は何と戦うか」という一種のマニフェストであり、一言でいえば「敵の宣言=宣戦布告」なのです。世界中の広告関係者が「史上最高のCM」と激賞するCMの内容が、何も肯定していない、逆に「全面的な否定」しか描いていない、というのは非常に。

このアプローチは神学における否定神学を思い起こさせます。キリスト教における神学理論の一つである否定神学では、神に関する知識や理解を「神とは何か?」という論点に基づく考察ではなく、「神とは何でないか?」という論点に基づく考察を通じて把握しようとします。

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