自分の「本当のエゴ」を正しく使う
J.D.サリンジャーの「フラニーとズーイ」は何度も読み返している大好きな小説です。
サリンジャーは「ライ麦畑」のような単作とは別に、グラス家という一家を題材にした一種のサーガ=連作を書いていますが、これはその内の一作で、主人公になっているのは末っ子のフランシス(=フラニー)と、五男のゾーイです。
前半は、晴れて一流大学に入学したのはよかったものの、出会った教員や学生の俗物ぶりにほとほと嫌気がさしてノイローゼになりかけている美貌の大学生のフラニーのうんざりぶりが描かれています。
後半は、ノイローゼになりかけて実家に帰ってきたフラニーに対して、たまたま実家に戻っていた次兄のズーイが出すちょっかい・・・・これは実は完全な「憑き物落とし」なのですが、が描かれており、その一連の会話の中に次のようなセリフがあります。
フラニーは、教員や学友がエゴに塗れており、それは学内だけでなく、世界全体がそうだということをヒステリックに批判しているわけですが、ズーイは真反対に、そんなものはエゴではない、むしろ本当のエゴを用いない人のせいで「世界のいやらしさの半分くらい」が生み出されている、と諭しています。
私はこのシーンが大好きで、もう何度も読み返しているのですが、皆さんはズーイのこの指摘をどのように読解しますか?
本物のエゴとは?
私の答えが正解というわけではないので、ぜひみなさんにも「本物のエゴ」については考えてもらいたいのですが、ここで私なりの整理を記しておけば、ズーイのいう「本物のエゴ」は次の二つの条件を満たしたものだと考えています。
人間性に根ざしている
他者への貢献を志向している
一方で「偽物のエゴ」には次の二つのような特徴があります。
経済性・社会性に根ざしている
自者への利益のみ志向している
というのがその答えになります。
ここでいう経済性とは外部的ということです。つまり「自分の内側」にあるものではない「外側にあるもの」に駆動されて、それを得ることで、自分に利益をもたらそうとするエゴイズムが「偽物のエゴ」なのです。
なぜ、このエゴが偽物だと断言できるかというと、エゴはその定義からして内部的なものであるはずなのに、外側にあるものが駆動因になっているからです。
フラニーは、大学教員やクラスメイトの多くが、経済的成功・社会的成功ばかりを目指して、それを成した人を「賢人」と称して奉っている学内の社会のあり方に辟易として「エゴ」について毒づくわけですが、上記の枠組みに照らしてみれば、それらのエゴは「偽物のエゴ」に該当することがわかります。
ズーイによれば、この「偽物のエゴ=社会性に根ざしたエゴ」によって駆動された人々が、「世界のいやらしさ」をどんどん増幅しているのです。
仏教における「偽物のエゴ」
ズーイと同様のことを指摘しているのが仏教です。
仏教では「大欲と小欲」という枠組みで、ズーイが指摘する「本物のエゴと偽物のエゴ」と同様のことを指摘しています。
仏教における大欲は、広い視野と深い慈悲心を持った欲望のことを意味します。仏教は一般に欲望を克服すべきものと考えますが、そういう意味では大欲は例外なのです。
以下に大欲の主要な特徴を説明します。
他者の幸福を願う欲望:
「大欲」は自己の幸福だけでなく、他者や全体の幸福を願う広い視野を持った欲望です。慈悲や愛を基盤とした利他的な願望が特徴です。
悟りを目指す欲望:
自己の成長や悟りを目指す欲望も「大欲」に含まれます。仏教の修行者は、自分自身の悟りだけでなく、他者をも救済するための大きな志を持っています。
長期的な視点:
「大欲」は短期的な快楽や利益を追求するものではなく、長期的で持続可能な幸福や平和を目指します。この視点は深遠であり、個人の枠を超えた広がりを持ちます。
一方で、対照的に小欲は、個人的で短期的な欲望を指します。
自己中心的な欲望:
「小欲」は自己の利益や快楽を求める欲望です。他者や社会全体の利益を考慮せず、自己中心的な動機に基づきます。
物質的な富を目指す欲望:
「小欲」は自己の内部的な成長や悟りを目指すのではなく、自己の周辺にある物質的な富や虚像を無限に増大させていく欲求です。
短期的な視点:
「小欲」は一時的な満足や快楽を求めるもので、長期的な影響や結果を考慮しないことが多いです。
ご参考までに「大欲と小欲」について書かれているテキストを紹介しておきます。
1. 『涅槃経(ねはんぎょう)』
『涅槃経』は大乗仏教の重要な経典で、釈迦が入滅する際に弟子たちに対して説いた教えが含まれています。この経典では、「大欲」について以下のように述べられています。
これは、「私は大きな欲望を持っており、すべての衆生に大乗仏教を学ばせたいと願っている」という意味です。ここで言われる「大欲」は、すべての人々が仏教の教えを学び、悟りを得ることを願う広大な志を指します。
2. 『維摩経(ゆいまぎょう)』
『維摩経』も大乗仏教の経典であり、在家仏教徒である維摩居士が病気を理由に多くの人々を教化する様子が描かれています。ここでは、「大欲」について以下のように言及されています。
この文は、「大きな欲望を持って、無限の衆生を教化し、仏道を成就させたいと願っている」という意味です。維摩居士の「大欲」は、自らの悟りに留まらず、他者をも悟りへ導くことに向けられています。
3. 『大智度論(だいちどろん)』
『大智度論』は、龍樹(ナーガールジュナ)によって著されたとされる論書で、仏教の教義を詳述しています。この論書でも「大欲」について触れられています。
この一文は、「菩薩は大きな欲望を起こし、すべての衆生を救済したいと願っている」という意味です。菩薩の「大欲」は、他者を救済するための強い意志と願望を表しています。
菩薩、いいですよね。菩薩というのはもう悟りの寸前まで来ているんです。でも悟って解脱しようとしない。なぜなら、そうすると迷っている人=衆生を導くことができなくなってしまうからです。
自分は悟る段階まで来ているのに、それをやらない。ちょっとシモーヌ・ヴェイユに似てますね。彼女も、非常な信仰心を持って、神父とも高度な神学的なやりとりをしながらも、度重なる洗礼の誘いを断り、ついに終生、洗礼を受けることはありませんでした。
ヴェイユのテキストを読んでいると、何度も「教会の門前まで来てドアを一跨ぎすればいいのに外側にずっと止まっている私を」といったような表現が出てきます。なぜ彼女は跨がないのか?ドアの外側に跨ぐことができない虐げられた人たち、貧しくてドアを跨ぐどころではない人たちを見ていたからです。僕はこの箇所を読んでいて「ヴェイユは菩薩だな」と思ったんですよね。
菩薩という存在については最近、色々と考えているのですが、ここではちょっと踏み込まず、まあつまり仏教というのは「欲を捨てる」ことを訴える宗教だと思われていますが、それは「偽物のエゴ」についての話であって、ズーイのいう「本物のエゴ」についてはそうではない、ということをさまざまなテキストが訴えているということです。
どうやって「本物のエゴ」を駆動させるか?
先述した仏教のテキストの「大欲」に関する定義を読んでみればわかると思いますが、大欲はソーシャルインパクトへと接続されているのです。
これはつまり、私たちの人生においても、またキャリアにおいても「本物のエゴ」を用いることが重要だということです。
しかしでは、私たちは、どうやって「本物のエゴ」を見出すことができるのでしょうか?
大欲を実践するためには次の三つが重要だとされています。
智慧の育成:
正しい見識や理解を深め、無知を克服すること。
慈悲の実践:
他者に対して慈悲心を持ち、苦しみを取り除くための行動を取ること。
自己の修行:
自己の成長や悟りを目指して修行を続けること。これには瞑想や戒律の実践が含まれます。
これ、面白いですよね。そのまま「知」「情」「意」に対応してるんです。智慧の育成は「知」に、慈悲の実践は「情」に、自己の修行は「意」に対応します。
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