なぜエラーは大事なのか?

大晦日ですね。

今年を振り返ってみて、大きな反省だなと感じたのが「失敗」「エラー」「トラブル」といったものがあまりなかった、ということです。これは一見すれば良いことのように思えるわけですが、中長期的には重大な問題となる可能性があります・・・ということで、本年最後の記事は表題通り「なぜエラーは大事なのか?」です。

なぜ自然界に「エラー」が存在するのか

私たちは一般にエラーというものをネガティブなものとして排除し、できるだけ生産性を高めようとします。しかし、自然淘汰のメカニズムには「エラー」が必須の要素として組み込まれています。なんらかのポジティブなエラーが偶然に発生することによって、システムのパフォーマンスが向上するからです。

自然界の進化の仕組みには「エラー」という要素が不可欠のものとして組み込まれているにも関わらず、私たちは自分たちのオペレーションからエラーというものを排除しようとします。これは本当に正しい考え方なのでしょうか?

エラーが生産性向上のメカニズムとして機能している事例として「アリ塚」を取り上げて考察してみましょう。

アリ塚では、働きアリの一匹が巣の外でエサを見つけると、フェロモンを出しながら巣まで帰って仲間の助けを呼び、他のアリは地面につけられたフェロモンをトレースすることでエサまでのルートを知り、巣まで手分けしてエサを運搬する、ということが行われています。

従って、巣のメンバーにとってエサの獲得効率を最大化させる鍵は、フェロモンをどれくらい正確にトレースできるかという点にある様に思われるわけですが、これが実はそうではないらしいのですね。

広島大学の西森拓博士の研究グループは、このフェロモンを追尾する能力の正確さと、一定の時間内にコロニーに持ち帰られるエサ量の関係を、コンピューターシミュレーションを使って分析するという興味深い研究を行っています[1]。六角形を多数つないだ平面空間を、エサを見つけると仲間をフェロモンで動員するアリAが移動していると設定し、Aを追尾する他の働きアリには、Aのフェロモンを100%間違いなく追尾出来るマジメアリと、一定の確率で左右どちらかのコマに間違えて進んでしまうマヌケアリをある割合で混ぜ、マヌケアリの混合率の違いによってエサの持ち帰り効率がどう変化するかを調べました。

するとどうしたことか、完全にAを追尾する優秀アリだけのコロニーよりも、間違えたり寄り道したりするマヌケアリがある程度存在する場合の方が、エサの持ち帰り効率は中長期的には高まることがわかりました。これはどういうことなのでしょうか?つまり、アリAが最初に着けたフェロモンのルートが、必ずしも最短ルートでなかった場合、マヌケアリが適度(?)に寄り道したり道を間違えたりする、つまりエラーを起こすことで、思わぬ形で最短ルートが発見されることで、他のアリもその最短ルートを使うようになり、結果的に「短期的な非効率」が「中長期的な高効率」につながる、ということです。

この研究結果は、私たちが何気なく用いている「生産性」という概念が、実は極めてトリッキーな概念なのだという示唆を与えてくれます。先述したアリのコロニーに関していえば、まだ誰も「新しいルート」を見つけていないとき、生産性を高めるためにはフェロモンを正確にトレースするのが最善の策であるように思われますね。

この状況で、フェロモンを正確にトレースできないマヌケアリが混ざれば、そのマヌケアリが偶然に「新しいルート」を見つけるまで、生産性は一時的に低下することになります。

ところがここに「時間」と「偶然」という要素が入り込んできます。マヌケアリがフェロモンをトレースすることに失敗して「偶然に」もっと効率的な新しいルートを発見すれば、生産性は飛躍的に高まることになります。つまり、ここでは「中長期の生産性向上」と「短期の生産性向上」がトレードオフの関係になっている、ということです。

これはイノベーションマネジメントが持つ本質的な難しさのポイントです。短期的な生産性を高めるためにはエラーも遊びも排除して、ひたすらに生産性を高めるために頑張るのが得策かも知れませんが、そのようなことを続ければ中長期的な視点で飛躍的に生産性を高めるための発見はもたらされないということです。

このように考えてみれば、特に現在のように先行きの見通しが不透明で、何が正解で何が不正解なのかがはっきりしない状況において、いたずらに生産性だけを求めるのはオールドタイプの思考様式だと断じるしかありません。

このような時代にあってはむしろ、意識的に遊びを盛り込みながら、セレンディピティを通じた飛躍の機会を意図的に含ませるニュータイプの思考様式が求められることになります。

遊びとイノベーション

さて、アリ塚の研究から得られる示唆を組織論の枠組みに考えてみると、革新的な業績を数十年に渡って起こし続けている企業の多くが、生産性を求める「規律」だけでなく、絶妙に「遊び」を盛り込んでいる理由が見えてきます。

例えば代表的な会社が3M社でしょう。3M社が研究職に対してその労働時間の15%を自由な研究に投下してよいというルールを持っていることはよく知られています。これだけ聞けば「随分と自由奔放な会社なんだな」と思われるかも知れませんが、一方で、同社では過去三年以内にリリースした新商品が売上高の一定比率を上回っていなければいけないという厳しい規律を管理職に課してもいます。

つまり、同社では厳しい「規律」=「常に新しい商品が生み出され続けること」を実現するために、戦略的に「遊び」=「研究者はその労働時間の15%を自由に使って構わない」を盛り込んでいるわけです。

これはグーグルなどにも同様に採用されている仕組みですが、次々と新しいサービスや新商品を生み出す企業では、仕組みや程度は異なるものの、この「規律」と「遊び」のバランスが絶妙なのです。

通常、経営資源の投入には、投入される資源に対して期待されるリターンが想定されます。つまり「なんの役に立つのか」という問いに対して明確に答えられる活動に対して資源が振り向けられるわけです。

しかし、このような「何の役に立つのか」という問いに対して明確に回答できる試みだけに経営資源が投入されていれば、偶然がもたらす大きな飛躍は得られないということになります。今日のようは不確実な世界において、いたずらに「何の役に立つのか」ということを追求して「遊び」のもたらす偶然の機会を排除しようとするのはオールドタイプの思考様式と言えます。

一方、ニュータイプは「規律」のなかに「遊び」を持たせる余地を戦略的に入れ込みながら、偶然のもたらす大きな飛躍=セレンディピティを追求します。

過去の大発明は偶然?

これをよく示しているのが過去の大発明です。たとえば、発明王トーマス・エジジソンは蓄音機を発明するために48時間不眠不休でぶっ続けで働いていますが、では蓄音機を何に使おうと考えていたかというと、どうも本人は「これが何に役に立つのか、よくわからないな」と思っていたらしいのですね。

何の役に立つのかよくわからない、と思いながら、48時間ぶっ続けに働けるというのも常人の理解を絶していますが、どうも発明というのは「そもそも」そういうものらしいのです。

私たちは「使用目的」が想定された後に、発明という行為が行われる、と考えがちですが、過去の発明の多くは、当初の目的とは異なる領域で大きな経済価値を生んでいるんですね。

例えば「飛行機」の発明が典型例です。ご存知の通り、今の航空機につながる原理を用いて最初に動力飛行を成功させたのはライト兄弟です。では、ライト兄弟はどのような目的・用途を飛行機に見出していたのでしょうか?彼らは、文明の歴史において最も野心的なアイデアに目標を据えていたのです。

それは戦争の終結でした。彼らは、自らの作りだした小さな飛行機が、民主主義に則った政府の手によって使用されれば、敵の動きを遠く離れたところから監視できるようになるため、奇襲攻撃や熾烈な戦闘を無効化できると考えたのです。

ところが結果はご存知の通り、飛行機はむしろかつてない程の大量殺りくを行うための道具になり、最終的には米国による東京大空襲や原爆投下、ベトナムへの枯葉剤散布といった人類史に例を見ない残虐行為に使用されました。

弟のオービルは、生まれ故郷である米国によるこれらの蛮行を直視するに及んで晩年には飛行機を発明したことを悔いていた様ですが、それは本人が本来意図した目的とは真逆の方向に飛行機が使われてしまったからです。実際にオービルは、1943年に参加した米国特許局設立150周年において、最近100年での10大発明は何かと問われて、あえて飛行機をその中から除外しています。

これらの事例は、よく言われる「用途を明確化しない限り、イノベーションは起こせない」ということが、間違いとは言わないものの、誤解を招きかねないミスリーディングな主張であることを示唆しています。多くのイノベーションは、「結果的にイノベーションになった」に過ぎず、当初想定されていた通りのインパクトを社会にもたらしたケースはむしろ少数派なのです。

では「何の役に立つのか」という点を明確にしないまま、興味の赴くままに野放図に開発をすればいいのかというと、それで成果が出るとも思えません。コンピューターの歴史について学んだことのある人であれば「用途市場を明確化せずに研究者の白昼夢に金をジャブジャブつぎ込み続けた結果、すごいアイデアが沢山生まれたけれども一円も儲からなかった」という悪夢の様な事例、ゼロックスのパロアルト研究所の話を聞いたことがあるでしょう。

パロアルト研究所は、マウスやGUI、オブジェクト思考プログラミング言語といった、現在のコンピューターでは常識となっている様々なデバイスやアイデアを先駆的に開発したにも関わらず、何一つそれらを商業化できず、挙句の果てにそれらの発明がもたらす果実をすべて他社に取られてしまいました。

ここに、我々は非常に大きなジレンマを見出す事になります。つまり、用途市場を明確化しすぎると大きな価値創出の機会を逃すことになりかねない一方、用途市場を不明確にしたままでは開発は野放図になり商業化は覚束ない、ということになります。

イノベーションに求められる「野生の思想」

ということで、ここで重要になるのが「何の役に立つのかよくわからないけど、なんかある気がする」というニュータイプの直観です。これは人類学者のレヴィ・ストロースが言うところの「ブリコラージュ」と同じものと言えるでしょう。

レヴィ・ストロースは、南米のマト・グロッソのインディオ達を研究し、彼らがジャングルの中を歩いていて何かを見つけると、その時点では何の役に立つかわからないけれども、「これはいつか何かの役に立つかも知れない」と考えてひょいと袋に入れて残しておく、という習慣があることを「悲しき熱帯」という本の中で紹介しています。

そして、実際に拾った「よくわからないもの」が、後でコミュニティの危機を救うことになったりすることがあるため、この「後で役に立つかも知れない」という予測の能力がコミュニティの存続に非常に重要な影響を与える、と説明しています。そしてこのブリコラージュこそが、予定調和を過度に重んじるオールドタイプと対比される、ニュータイプの思考様式ということになります。

この不思議な能力、つまりあり合わせのよくわからないものを非予定調和的に収集しておいて、いざという時に役立てる能力のことを、レヴィ・ストロースはブリコラージュと名付けて近代的で予定調和的な道具の組成と対比して考えています。

レヴィ・ストロースは、サルトルに代表される近代的で予定調和的な思想(つまり用途市場を明確化してから開発する、といった思考の流派)よりも、それに対比されるより骨太でしなやかな思想をそこに読み取ったわけですが、実は近代思想の産物と典型的に考えられているイノベーションにおいても、ブリコラージュの考え方が有効であることが読み取れるのです。

こういった「何の役に立つのかよくわからないけど、作ってみたら後で莫大な価値を生み出すことになった」という発明は、先述した蓄音器や航空機の他にも枚挙に暇がありません。 

「野生の思考」の事例=アポロ計画

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