過剰に「正解」が供給される時代に何が価値になるのか?

ChatGPTの5がそろそろ出るそうですね。3から4にバージョンアップした時ははっきりとそれがわかるくらいにアウトプットの質が上がったので、また楽しみです。

しかし、こうなってくると、いよいよ「正解を出す能力」の労働市場における価値が激減していくことになります。

今日の日本では、いまだに「正解を出せる人=優秀な人」という人々のイメージは変わっていません。

カンファレンスなどで「優秀な人と聞いて、どんな人をイメージしますか?」と聞くと、多くの場合「東大とか、偏差値の高い大学を出ている人」といった返答がきます。

そこでさらに「東大を出てると、なんで優秀だと思うんですか?」と重ねて聞いてみると「だって、難しい問題に正解を出せるから」とくる。

つまり、いまだに日本では

優秀さ=難しい問題を解ける人

というイメージなんですね。

だから、本屋さんにいくと、いまだに「東大生の○○」とか「東大生の親の○○」といったタイトルの本がたくさんあります。

しかし、人工知能の価格がここまで低下してくると、正解を出す能力は無限供給されることになります。

経済学の基本的な原理として「過剰に供給されるものの値段は下がる」というのがありますから、これから労働市場において「正解を出す能力」・・・つまり、古典的な意味での優秀さの価値は急速に減少してくことになるでしょう。

長く評価されてきた「問題解決者=プロブレムソルバー」

優秀さの定義を書き換えなければならない時期に来ている、ということですが、これはなかなか難しい。

というのも、これまで長いこと、私たちの社会では「問題を解決できる人=プロブレムソルバー」が高く評価されてきたからです。学校の仕組み自体からして、正解を出せる少数の人を見つけて、それを国の費用で育てようという仕組みになっていますね。

なぜそうなっているかというと、原始時代以来、私たちの社会には常に多くの「不安」「不便」「不満」という「問題」に苛まれており、これを解決することが大きな富の創出に繋がったからです。

寒い冬に凍えることなく過ごしたい?ストーブをどうぞ!雨に濡れずに安楽に遠くまで移動したい?自動車をどうぞ!ということです。しかし今後、このような「問題解決に長けた人」はオールドタイプとして急速にその価値を失っていくことになるでしょう。

現在は「正解が過剰で問題が希少」な世の中

現在、私たちの社会はモノで溢れかえっており、桁外れに豪奢な生活を送りたい、ということでなければ、さしたる不満もなくいきていけるようになりました。

昭和三十年代の日本において、豊かな生活の象徴とされたいわゆる「三種の神器」とはすなわち、冷蔵庫、洗濯機、テレビという家電製品でしたが、今日ではこれらの家電はごくごく当たり前のものとなり、逆にこれらの家電を「持っていない家」をみつけることの方が難しくなっています。

ビジネスは基本的に「問題の発見」と「問題の解消」を組み合わせることによって富を生み出しています。過去の社会において「問題」がたくさんあったということは、ビジネスの規模を規定するボトルネックは「問題の解消」にあったということです。

だからこそ二十世紀後半の数十年間という長いあいだ「問題を解ける人」「正解を出せる人」は労働市場で高く評価され、高水準の報酬を得ることが可能でした。

しかし現在、このボトルネックの関係は逆転しつつあります。つまり「問題が希少」で「解決能力が過剰」になっているということです。ビジネスが「問題の発見」と「問題の解決」という組み合わせで成り立っているのであれば、今後のビジネスではボトルネックとなる「問題」をいかにして生成し提起するのか、という点がカギになるということです。

そして、この「問題を見出し、他者に提起する人」こそがニュータイプとして高く評価されることになるでしょう。

一方で、過剰である「問題の解決」に対しては今後、これまでのような評価も報酬も与えられないということになります。これまで高く評価されてきた「問題解決者=プロブレムソルバー」はオールドタイプとして急速に価値を失っていくことになるでしょう。そのような変化を示唆する象徴的な現象はすでにそこかしこに見ることができます。

AIが「正解の過剰供給」という状況を生み出す

この「正解の過剰供給」という問題にさらなる追い討ちをかけることになるのがAIの普及です。この点については前著でも先述しましたがここであらためて確認しておきましょう。

本書執筆時点から8年前の2011年、IBMの人工知能「ワトソン」が、米国の人気テレビ番組「ジェパディ」に出演し、百戦錬磨のクイズ王と争って勝利しました。

クイズ番組で求められるのはまさに「正解を出す能力」ですから、すでに13年前の段階で、人工知能の「正解を出す能力」は、特定の領域に限れば最高水準の人間の知性をも凌駕している、ということです。

そして現在、私たちは当時のワトソン以上の性能を、個人として負担できる金額で利用することができるようになっています。

1997年にチェスの世界チャンピオンに勝利したIBMのディープブルーは、その翌年、5倍程度に処理能力を増強されて一般向けに販売されました。この時の販売価格はおよそ百万ドル=一億円程度でしたが、今日、量販店で販売されている家庭用パソコンでも、メモリーやハードディスクを増強すれば同程度の計算能力を持たせることができます。

つまり、たった20年で、1億円ほどした人工知能が家電量販店で購入できるようになったわけです 。これが、いわゆる「ムーアの法則」の恐ろしさです。

ムーアの法則については、すでに半導体素子の大きさが原子レベルにまで近づいていることから、近いうちに限界が訪れるだろうという意見もありますが、仮にこの法則が今後もしばらく継続するのだとすれば、どのような変化が起きるのでしょうか。

ムーアの法則によれば、半導体の集積度合いは、18ヶ月毎に2倍になりますから、2年後に2.52倍、5年後に10.08倍、10年後に101.6倍、20年後には10,321.3倍となります。ディープブルーという実例を引けば、1998年に一億円だったものが、20年後の2018年には数十万円にまで下がったわけですが、計算上は1億円の人工知能も、10年経てばその百分の一、つまり百万円で購入できることになります。

ワトソンがジェパディ!で優勝したのは今から13年前の2011年のことです。仮に当時のワトソンの価格が1億円だったとしてムーアの法則を当てはめて考えてみれば、同等の性能の人工知能が実質、月に数千円〜数万円で購入できる時代がすぐそこまできつつあるということで、実際にそうなったわけですね。

今回、あらためて新著の「クリティカル・ビジネス・パラダイム」を書くにあたって、ChatGPT4を本当に「使い倒した」のですが、個人的な感想は、とても優秀で知的なアシスタントで、もう少し気の効いたアウトプットを出してくれるといいのにな、と思うことは多々あれ、普通に優秀とされる若手よりもはるかに使い勝手は良かったですね。

僕のように、インディビジュアルの立場で知的生産をやる人にとっては、本当に良い時代が来たな、と思います。

「正解を出すタンパク質のコンピューター=人間」を雇うのか?

さて、あらためて考えなければならいのは、採用の問題です。

人間の世界では最高度とされる正解を出す能力が、すでに月に数万円〜数千円で調達することができ、しかもおそらくは価格性能比がこれからも10年で100倍というスペースで続いていくのだとすれば、正解を出すのが得意な人=タンパク質でできたコンピューターを、年に数百万円ものコストをかけて調達することは合理的なのか?

しかも、このタンパク質でできたコンピューターは、一度調達すると数十年にわたって固定費として費用を負担せねばならず、その癖、1日にせいぜい8時間程度しか働けず、週に2日の休みを要求し、年に2回は長期休暇を取らせないと、すぐに「ブラックだ」などと批判し出す始末です。しかも、しょっちゅう機能不全を起こしますしね。

一方で、石でできたコンピューターは、一日24時間、一年365日、ずっと働かせ続けても文句を言いません。僕は執筆を朝の3時くらいから始めることが多いのですが、その時間にいろんなサポートをお願いしてもなんの文句も言わないんですね。

例えば次のようなやりとりは、朝の4時にやっていますね。

山口
最近の世界では、共感力のある若い人たちが増えてきているという話がありますね。この共感力のある人たちと言うのは、マルクスが言うところの「類的存在」としての目覚めと言えると思いますか?

ChatGPT
共感力が高まっている現代の人々について、マルクスの「類的存在」の概念を適用することは興味深い視点です。カール・マルクスは、人間の「類的存在(species-being)」という概念を提唱しました。これは、人間が単なる個体としてではなく、自分自身を種として意識し、集団の一員として行動する能力を指します。共感力が高まるとは、他人の感情や状況を理解し、共感する能力が高まることを意味します。
マルクスの考え方を現代の共感力の増大に適用すると、人々が他者の立場に立って考え、より広い社会やコミュニティに対する自己の位置を理解する傾向が高まっていると解釈できます。このことは、マルクスがいう「類的存在」の自覚、つまり人間が自分自身を集団の一部として認識し、その中で行動する能力の向上を示唆しているかもしれません。
共感力の増大が必ずしもマルクスの「類的存在」の自覚に直結するとは限りませんが、人々がより社会的な存在として自己を位置付け、他者との関係性を重視する現象として捉えることは可能です。このように見ると、共感力の高まりは個人と社会の相互作用の深まりを示していると言えるでしょう。

山口
マルクスが類的存在について述べていたのって「ドイツ・イデオロギー」だったっけ?

ChatGPT
カール・マルクスが「類的存在(species-being)」という概念を詳細に論じたのは、彼の初期の著作『経済学・哲学草稿』("Economic and Philosophic Manuscripts of 1844")においてです。この著作は、マルクスが経済学と哲学に関する自身の考えを発展させ始めた時期に書かれました。
『経済学・哲学草稿』では、マルクスは人間の本質的な特徴として「類的存在」を議論し、人間が自然との関係、労働、社会的な関係性を通じて自己を実現する過程を探求しています。彼は、人間が単に個別の存在ではなく、自己と他者、そして自然界との関係性の中で自己を理解する類的な存在であると考えました。この概念は、後のマルクス主義思想の発展において重要な基礎となりました。

朝の4時に電話で部下を叩き起こしてこんな質問をして「すぐに調べて」などとお願いしたら上司としての僕はすぐに注意勧告でしょうけど、AIはなんの文句も言わずに付き合ってくれるわけです。

このような状況が明白に見えているにも関わらず、今日の企業の採用の基準を見ていると、いまだに「正解を出すのが得意な人」を求めて、高い偏差値の大学を出ている人を採用することに粉骨砕身しているように思えます。

このような時代にあって求められるのは、もはや「正解を出せる人」ではないでしょう。むしろ求められるのは「無限に供給される正解」に価値を与えられる人です。

どういうことでしょうか?

需要と供給のバランスが狂うとボトルネックが移動する

イノベーションによって需要と供給のバランスが崩れると、ボトルネックが移動し、経済価値を生み出す場所が変化します。

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