#079 人的資本開示はビジネス界の「マネーボール」か?

人事・組織関連の仕事をやっている方には「何を今さらの話」ですが、2023年3月決算期から、決算報告に「人的資本に関する情報の開示」が義務付けられることになりました。ここであまり詳しくない、という方のために簡単に説明を付しておきます。

そも「人的資本」とはなんぞや?「資本」というのは「お金を産む元手」という意味です。つまり「人的資本」というのは、スキルや知識や創造性や人間関係などによって、イノベーションなどの経済価値を生み出す元手として人をとらえた表現だということになります。ちなみに「人的資本」と対照される表現としては、人をコストとして捉える「人的資源」という表現があります。

で、この「人的資本」に関する情報を、2023年3月期決算以降、企業は有価証券報告書に記載して、広くステークホルダーに対して公開することが義務付けられるようになりました。具体的な開示の内容については個別企業によって変わることになりますが、一応のガイドとしてISO30414を参照すれば、次のような情報を開示しなければならなくなるわけです。

ISO30414の内容

ご覧いただければわかる通り、かなり深いレベルで「人材と組織の現状」が把握できてしまうようなデータを広く開示しなければならなくなるわけです。なぜ、ここまで深いデータを開示しなければならなくなったのか?

そもそも、今回の人的資本開示は資本市場からの強い要請に応える形で義務化されたわけですが、なぜ資本市場が人的資本に関する情報の開示を強く求めたのかと言えば、まさにこの種のデータが、その企業の未来の姿を予測するのに役に立つ、ということが明らかになってきたからです。私は長らく組織開発のコンサルタントを務めましたから、ある種の組織や人材に関するデータが、その後の組織や個人のパフォーマンスを高い蓋然性で予測するのに大変役にたつ、ということを経験から知っています。

逆に言えば、企業のパフォーマンスを予測するに当たって、従来から開示が義務化されていた財務諸表や物的・知的財産に関する情報・・・つまり「ヒト・カネ・モノ」でいうところの「カネ・モノ」だけでは、パフォーマンスの予測がつかなくなってきたということです。なぜなら企業価値に占める無形資産の比率が高まっているからです。有形資産というのは工場は設備のことですが、無形資産というのはアイデアや創造性のことで、当然ながらこれらは人に備わるものです。だから「人の状態」を把握しないことには、投資先を決められない、ということです。

で、このような流れを受けて、いま人事・組織の業界はちょっとバブルっぽい雰囲気になっています。というのも、人的資本の状態を開示するということになれば、当然ながらその状態を改善するための投資が増えることが予測されるわけですが、この投資額が、現在の日本はとても少ないのですね。当然、欧米の資本市場からは「人的資本への投資をもっと増やせ」という圧力がかかることが想定されるわけで、この領域への投資額はこれから大きく伸長することが期待される。

ということで、少し浮き足だった雰囲気もあって誠にご同慶のイタリアンなのですが、ちょっとそう浮かれてもいられないんじゃないの?という気持ちもあります。本論を先出して指摘すれば、私は、今回の開示義務によって、人事・組織ガバナンスのあり方、あるいは企業と資本市場の関係のあり方に大きな変化が起きる可能性があると思っています・・・ということで、ここからが本論です。

情報がメジャーリーグにもたらした変革

唐突ですが、皆さんは映画の「マネーボール」はご覧になりましたか?

まだ観ていない、という人はぜひ観ていただきたい。さらに言えば、もし時間があるという人は原作であるこちらの本を読んでみてほしい。主題はもちろん野球なんですけれども、組織変革やイノベーションに関するいろんなヒントが得られると思います。

で、この記事を読んでいただくにあたって、マネーボールの内容がある程度わかっていないと話にならないので、ここからはネタバレを前提にして映画の内容をかいつまんで紹介します。

貧乏球団のオークランド・アスレチックスに、将来を嘱望されながら、結局は大した活躍もできずにグラウンドを去った元ドラフト一位のビリー・ビーンがGMとしてやってきます。で、彼がどうやってチームを改革するかというと、古参のスカウトをまったく信用せず、統計データだけに頼ってチームを作ろうとするんですね。

従来の選手獲得の仕方は次のようなものでした。経験豊富なスカウトが全国を飛びまわっって試合や練習を観察する。その中で「これは!」と思う選手がいたら、それをドラフトで指名して獲得する。もちろんドラフト指名にあたっては野手であれば打率やホームランの数、投手であれば球速や防御率といった数値データも参照されることになります。

で、このやり方の何に問題があったか。専門家のスカウトは専門家としての評価基準を持っているわけですが、これは別の言い方をすれば「他者と評価基準が同じ」ということでもあります。みんなで同じ評価基準で選手を評価すれば「誰がどうみても素晴らしい選手」は一部に収斂し、契約金額は跳ね上がることになります。こうなるとお金のない貧乏球団のアスレチックスはドラフトで良い選手が取れないということになるわけです。同じ構造の悩みは多くの組織が抱えていることでしょう。

で、この状況に対してビリー・ビーンはどのような手を打ったか?彼はウォール街の金融工学の専門家と組んで「本当に意味のある評価指標」を作ることにしたんですね。

確かに、考えてみれば「スカウト」と「金融投資」には驚くべき共通性があります。金融の世界においては「市場の評価と実際の評価の乖離」を発見した人が常に勝者になります。つまり「市場では低い評価で株価が低迷しているけど実際にはすごく優良」という物件があれば、それこそが「美味しい投資」になるわけで、同じ考え方を「人間への投資」・・・つまりドラフトに当てはめることを考えたわけです。

「打率」はどうでもよい指標だった

そこでチームの勝利と最も相関の高い指標を分析してみたところ、実は古参のスカウトが用いる打率やホームランの数よりも、別の指標の方がはるかに説明力があることがわかった。

野球というゲームを究極に単純化すれば、それは「守る側はアウトを取る」で「攻める側は塁に出る」の戦いだということになります。野球ではアウトカウントが取れなければ無限に得点が入り続けることになります。アウトカウントが一つ増えるごとに得点の期待値は減少し、アウトカウント三つで得点の期待値はゼロになり、敵側の得点の期待値が上がることになります。

つまり、チームを勝たせたいのであれば、とにかく「アウトカウントにならない」ということが重要になる、ということですが、では「アウトカウントにならない確率」は、どのようにして定義されるかというと

1 - アウトカウントになる確率

ですから、これはつまり「出塁率」として定義されている数値ということになります。

チームの勝利に貢献する選手を見つけたければ「出塁率」こそが重要で、古参のスカウトたちがずっと頼ってきた指標である打率やホームランの数よりも、はるかに重要だということがわかったわけです。

もちろん打率と出塁率には高い相関があり、全般に打率の高い選手は出塁率も高い傾向があるわけですが、稀に「出塁率は高いのに打率はイマイチ」という選手が出てくる。アスレチックスはこういう選手に目をつけてドラフトで獲得していったわけです。

ちなみに実際のデータではこうなっていますね。

実はマネーボールでは、野手と同様に投手の評価指標にも革命的な転換が描かれているのですが、ちょっと冗長になるのでここでは割愛します。

データがあればスカウトは要らない

さて、このストーリーから何を抽出するか。こと「人的資本の開示」という文脈で僕が重要だと思うのは、この一連のイノベーションによって、古参のスカウトの価値が大きく減殺されてしまった、ということです。数値データと統計による分析だけで選手の期待値が把握できるのであれば高いコストを払ってスカウトに目利きをしてもらう必要はありません。

この変化には二つの社会変化が大きく影響しています。

一つは目は、インターネットが普及したことで大学野球のスコアデータが簡単に集められるようになった、ということです。それまで各大学の所属選手のスコアデータはそれぞれの大学に分散して記録されていたわけですが、これがデジタルデータとしてインターネット上で共有されるようになり、わざわざスカウトが出向いていて現地・現物を確認せずとも、少なくとも定量的なデータについては確認できるようになった、ということがあります。

二つ目は、それらのデータを集めて統計的な解析をするためのコストが劇的に安くなったということです。従来であれば一定量のサンプルを統計的に処理するためにはシンクタンクや大学のコンピュターを使うしかなかったわけですが、それが非常に安価かつ容易にできるようになった、ということがあります。

このような二つの変化によって「野球選手の潜在力を評価をする専門家」であるスカウトの価値が大きく減殺されてしまったということは、これから人的資本開示によって起きる「人事の世界の変化」について、いろんな示唆を与えてくれると思うのですね。

権力は情報のある場所に生まれる

人的資本開示が進めば、人材に関するデータが社内だけではなく、社外にも広く共有されることになります。これは「組織に関する権力」の移動を示唆する状況です。なぜなら「権力は情報のあるところに生まれる」からです。

僕は人的資本に関する情報の開示の進み方を図1で示したような3ステップで起きると考えています。その上で、人的資本開示が本格的に浸透した社会においては、これまで人事と現場が持っていた人的資本の管理権力が、やがては経営へ、そして最後は資本市場へと移行してしまう可能性があると思っています。

図1:人的資本開示の進み方

こうなってくると、人事の役割も、従前の

  • 各種制度の設計・運用

  • 採用・育成・配置・退職の管理・実施

といった役割から、

  • 資本市場との対話

  • 企業価値向上に資する人事・組織改革の計画・実行

に変わっていくことになるだろうと思います。当然、資本市場は企業価値の上昇を求めるような人事・組織面のプラクティスを要請してくる・・・もっと言えば圧力をかけてくることが想定されるわけですが、この要請や圧力に対して、株価を低下させるリスクをミニマムに抑えながら、むしろ資本市場側を味方につけ、企業価値評価を高めさせるような対話ができるかどうか?ということが人事領域のリーダーに求められることになります。

資本市場と戦うのは生半なことではない

しかし、これは生半なことではありません。なぜなら、先述した「データのあるところに権力は集まる」という前提を踏まえれば、個別の企業よりも資本市場の方が「人的資本の状況と業績・企業価値の関係に関する統計データ」ははるかに早く蓄積が進むからです。(図2)

図2 個別企業よりも資本市場の方がデータを早く蓄積する

業績がまとまるのは年に一回ですから、個別の企業の打ち手がどのように業績に影響を与えたかを判定するには少なくとも一年の時間がかかることになります。当然ながら十年分のデータを集めるためには十年の時間が必要だということになります。

一方で資本市場の側は、例えば千社の取り組みに関するデータを分析すれば、どのような打ち手が業績を高めるのか、企業価値を高めるのかについてのデータ・・・もちろんその逆も含めてですが、を集めることができるようになります。このような状況で、資本市場側から「我々の分析によると、あなたのやっている打ち手は企業価値向上にあまり貢献しない」と言われたさいに、この要請に対して、企業価値評価の低下を招かないような形で説得力を持って抗弁することは非常に難しいと思われます。

投資銀行もコンサルも組織データをネタに食ってきた

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