#022 キャリアの滑落死を避けるための三つのポイント

キャリアはよく登山になぞらえられて語られます。では、登山において最も重要視されるのは何でしょうか。それは「生きて帰る」こと。これに尽きます。ところが、キャリアに関する論考の多くは「いかに速く登るか」、「いかに高く登るか」といった論点にフォーカスするばかりで、肝心かなめの「いかに生きて帰るか」「いかに滑落を防ぐか」といった論点がなおざりにされている感があります。

僕は前著の「仕事選びのアートとサイエンス」を著すに当たって、70人強のビジネスパーソンにインタビューを行いました。彼らの多くは一流大学・ビジネススクールを卒業して世界的なコンサルティングファームや投資銀行に勤務している(またはしていた)人々で、まさに「キャリア登山のファストクライマー、ハイクライマー」と言えます。しかし、そのうちの少なくない人が、キャリア登山における「滑落死」の状況に陥っていたのですね。

勝ちに不思議の価値あり、負けに不思議の負けなし。

これは江戸中期の剣術家、松浦静山の言葉ですが、この言葉はキャリア論においても通用すると思います。僕が前著「天職は寝て待て」で記した通り、成功したビジネスマンのキャリアの 80%が「偶然」によっている。つまりキャリアにおける成功というのは「不思議の勝ち」であることが多いのです。

その一方で、「ひどいこと」になっている方たちには、いくつかの明白な共通項が失敗原因として見られます。つまり「不思議の負け」はない、ということです。

本稿では、キャリア登山におけるファストクライマー、ハイクライマーが、どの様にしてキャリアの滑落死に陥るのか、その主要因である 3つの滑落死パターンを考察してみたいと思います。

1:職業上の「憧れ」に捉われすぎる

Aさんは、国立大学を卒業して政府系金融期間に就職。5年後に企業派遣で米国の名門ビジネススクールでMBAを取得した後、2年たったタイミングで外資系戦略コンサルティングファームに転職します。
ところが、短期間のうちにコンサルタントとしての適性に欠けていることが判明し、入社一年後にはやんわりと退職を勧奨されることになります。
その後、2年ほどは低評価に甘んじながらも、同じファームで頑張り続けたものの、同時期に入社した同僚が次々にマネージャーに昇進するのを見ていたたまれなくなり、別の外資系戦略コンサルティングファームに転職。
しかし、このファームでもやはり適性がないと診断され、やはり入社後一年ほどで退職勧奨を受けることになります。
Aさんはその後、国内の業務系コンサルティングファームに転職しますが、ここでもパフォーマンスを発揮できず、更に事業再生に特化したコンサルティングファームに転職したものの、このファームは業績不振を理由に日本オフィスの大幅縮小を決定、Aさんは実質的にレイオフされてしまいます。
現在、Aさんは国内の中堅コールセンター受託サービス企業の企画部門スタッフとして勤務しながら、次のキャリアを模索している状況です。

Aさんは、典型的な「憧れの近視眼」によってキャリア選択を見誤った例と言えます。私は前著「天職は寝て待て」において、「憧れ」に主軸をおいてキャリア選択を行うのは大変危険だと述べましたが、とは言えキャリア設計において「憧れ」に軸足をおいてキャリアを考察することを全否定するものではありません。

それは自然なことだと思いますし、逆に「憧れ」がまったくない中、功利主義一点張りでキャリア設計をしていくのは、それはそれで不確実性が非常に高い現在の様な社会状況では意味がないと、やはり同著の中で指摘しています。

「憧れ」は駆動エンジンとしては必要だけれども、それを軸足にキャリアを設計すると危ない、ということは、これを制御するためのカウンターシステムが必要になる、ということです。そのカウンターシステムとは「負ける技術」です。そして「負ける技術」は大きく二つの能力=「自己客観視能力」と「関心喚起能力」から構成されています。

まず、私たちは、そもそもの前提として「憧れ」の職業について活躍できる、というのは非常に稀だということを理解しておく必要があります。ごく稀に子供の時から憧れていた職業について、その職業で高いパフォーマンスを発揮している人が要ますが、そういった人は例外なのです。

多くの人は、「憧れの職業」を、どこかの段階で諦めて「そんなものには自分はなれないのだ」ということに「気付き、受け入れ、そして忘れる」ことが求められます。これが「自己客観視能力」です。「自己客観視能力」の足りない人は、引き際を見極められず「勝つまでやる」ということになるわけですが、最終的にどこかで勝てればいいものの、一生を費やして結局勝てなかったとなると目も当てられません。

よく言われる「一念岩をも徹す」とは「必ず出来ると信じて必死に努力すれば不可能なことはない」という意味ですが、「出来ないものは出来ない」と見切るのもまた一つの知恵だと言えます。いまから700年前の鎌倉時代にあって、兼好法師は次のような言葉を徒然草に認めました。

己が分を知りて、及ばざる時は速かに止むを、智といふべし。許さざらんは、人の誤りなり。分を知らずして強ひて励むは、己れが誤りなり。

兼好法師「徒然草」

読めば意味はわかりますよね。自分の手に余ると思ったときは速やかに止めることを知恵というんじゃ。分を理解せずに頑張るのはアホのやることじゃという、多少は意訳していますが、そういうことです。余談ですが「徒然草」というのはキャリアを考える上でとても有用ですね。ハッとさせられる指摘がたくさん出ているので、興味のある方は一度手にとってみると良いと思います。

ま、それはともかくとして、日本人は「一意専心」とか「この道一筋」といった態度・生き様を妙に評価する一方、変わり身が早くて要領の良い人を蔑む様な風土があります。

リンゴの無農薬栽培を成功させて一躍有名になった木村秋則さんは、10年間近くほぼ無収入に近い状態を過ごしながら、最終的に成功したことで、その執念・努力が称賛されたわけですが、私自身は、一個人の立場としては木村さんのひたむきさや粘り強さに感服しつつも、キャリアについて公的な発言をする立場からは、その様な態度や考え方は、非常に危険なものだと思います。

さて、次に指摘したいのが「関心喚起力」です。「憧れ」に基づくキャリアの暴走を防ぐためには、「負けを認める」ことが重要だと述べましたが、単に負けを認めるだけでは、ひたすら絶望を繰り返して生きろ、ということになってしまいます。そこで大事になって来るのが、別の仕事の中に面白さ、やりがいを見出していく発見力です。

「関心喚起力」を鍛える上で重要になって来るのが「引き出し」です。未経験の仕事に対して、それがどのような面白さややりがいをもたらしてくれるのかを皮膚感覚で理解するには豊かな想像力、多面的に物事を捉える価値観、いわゆる「引き出し」が必要になります。ところが学生時代から憧れの職業に向けて一直線で準備をしてきた、というような人生を歩んできた人ほど、この引き出しが少ない。

「憧れの職業に就き、活躍する」ということに対して「役に立つか、立たないか」だけで学習機会を峻別してしまうからです。ところが学習というのは本来的には予定調和しない時にこそ深い学びが得られわけですから、そのような浅薄な目的合理性だけで駆動されてきた学習というのは引き出しの拡大に貢献しないのです。

2:不条理を受け入れられない

ハイクライマー、ファストクライマーが滑落死する二つ目の主要因として「不条理を受け入れる力」が足りない、という点を指摘したいと思います

Bさんは、国立大学を卒業して外資系IT企業に勤務後、欧州の名門ビジネススクールでMBAを取得。帰国後、外資系戦略コンサルティングファームへと転職し、順調にマネージャーまで昇進しました。固定顧客もついて販売責任を負うパートナーよりも多くのフィーを稼ぐエース格として活躍するに至ります。
しかしそのうち、自分より売上金額が少ないパートナーが居座り、自分がなかなかパートナーに昇進できないのはおかしいと考える様になり、ことあるごとにその不満を公然と口にするようになります。
また「自分の方が優秀」と小馬鹿にしていた同僚が、自分より先にパートナーに昇進することになるという「事件」も発生して、いよいよモチベーションが低下していた時期に、別の外資系コンサルティングファームから誘いの声がかかります。
このファームに居ても正しく評価してくれないと考えたBさんは、このオファーを受けて転職することを決意します。転職直後は移籍したファームで水を得た魚の様に活躍したBさんですが、一年もたたないうちに以前のファームと同じような状況にやはり不満を募らせ、このファームも辞めてしまいます。
次に移ったファームでも同様の状況に陥り、ここも短期間で退職せざるを得ないことになってしまいます。
その後、Bさんは個人でコンサルティング事務所を開設しますが顧客獲得のために平均睡眠時間4時間の生活を続けていたところ心身のコンディションを崩してしまい、現在は御実家で療養しながら次のキャリアを検討しています。

Bさんは典型的な「不条理に耐える」ことが出来なかったケースです。
 
世の中には、「世界は公正だ」あるいは「世界は公正であるべきだ」と考えている人がいます。この様な世界観を社会心理学では「公正世界仮説=Just World Hypothesis」と呼びます。公正世界仮説は、もともとは正義感の研究で先駆的業績を挙げたメルビン・ラーナーでした。

ラーナーはその著書の中で、「一般的に、人は世界が予測可能、理解可能であり、従って自分の力でコントロールできると考えたがる」と述べています。公正世界仮説の持ち主は「世の中というものは、よい人は報われ、悪い人は罰される様に出来ている」と考える傾向があります。

そして、ここがポイントなのですが、いわゆる受験エリートは、とてもこの仮説に支配されやすいのです。なぜかというと、自分たちが、そのような単純でわかりやすいルールや因果律が支配するシステムの中で競争して、そこで好成績を収めてきたらです。

神学や哲学といった学問と比較すると経営学は極めて単純で見通しの良い学問ですから、こういった「底の浅い知性が試される競争」の中で好成績を修めてきた人にとってはとてもなじみが良いのです。ところが大変困ったことに、世界というのは公正には出来ていない、いわば不条理の塊なわけです。

1995年に地下鉄サリン事件が世間を震撼させた際、最難関の大学を卒業した多くのエリートがオウム真理教に帰依しているという事実が社会を困惑させました。この際、多くの論者が、なぜあのような優秀な若者が、あのような殺人教団に帰依してしまったのか、ということについて論じていますが、複数の方が指摘していたのが、オウム真理教の教義の「シンプルさ、わかりやすさ」でした。

受験という「わかりやすいシステム」の中で好成績を収めてきた若者が、世界という「不条理なシステム」に辟易して、オウム真理教が唱える「わかりやすい教義」に心理的な安堵をおぼえて帰依して行った、というのが彼らの分析です。エリートは「わかりやすいシステム」になびきやすいのです。

私は、昨今の新卒学生間での戦略コンサルティングファーム人気にも、この「不条理忌避傾向」が働いているのではないかと考えています。戦略コンサルティングファームの階位制度と評価制度は極めてシンプルで、運用も「成果を出せば昇進し、出せなければ去れ」とこちらも単純極まりません(実際には前述した通り様々な不条理が存在しますが)。

語弊を恐れずに言えば戦略ファームのシステムというのは、外形的には非常にシンプルでメカニカルに見えるという点で極めてオウム真理教的なのです。このシンプルさに、不条理を嫌う若者が惹かれているのだろうな、というのが私の仮説です。

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