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できるだけ遠くに行こう。

2016年の春頃から、夏に旅をする計画を夫婦で立て始めました。

進行は止まらない。

妻の日常的な転倒は2015年の半ばから始まり、どんどん進行し、年末には両杖から車椅子での通勤に変化していきました。進行のスピードは速く、置いていかれない様に、追いつけ追い越せ、勉強をして次のステージを想定して、それがやってきても負けない様に心構えだけではなく、具体的な準備、補助用具や私の介護スキルも磨いていました。

できるだけ遠くに行こう。

でも妻も私も、というよりも妻こそ、良く理解していたのは(いつ、とは言えないけれど、まもなく身体がもっと動かせなくなる)という事です。ですから“そうなる前に、できるだけ遠くに二人して旅に出よう”という事を話し合っていました。

バリ島に行ける?

ふたりが一番好きな“遠いところ”はバリ島(インドネシア)中央部にあるウブドゥという街です。織物や染物を地元やあちこちの村のやり方で作り、世界中にフェアトレードしている、仲良しのイギリス人とアメリカ人夫婦がいます。いつもは二人で、たまには別々で尋ねる事がたびたびありました。そのプロジェクトの共同創業者であるインドネシア人の皆さんからも、ありがたい事に“兄弟扱い”されていました。真っ先に私たち二人の脳裏をよぎったのはこの街でした。天井にへばり付くゲッコーの声を聴きながら眠り、早朝に深い霞がかかる棚田を眺めながら、鶏の鳴き声で目覚めたかったのです。

旅のよろこび株式会社。

ですが、それはまりにも無謀です。気持ちを入れ替え、以前から親しくしている、大学の後輩が、熊本で経営している、障害者向けの旅行を企画、運営している会社に頼もうと決めました。“今回は、できるだけ遠くに行くので、この次は熊本にするね”と謝って。旅のよろこび株式会社、という会社です。宣伝料は頂いていません。親しみやすい人間味あふれる素晴らしい旅行代理店です。お薦めします。

石垣島旅行へ。

ご高齢の方や障がいのある方、妊娠されている方、小さなお子様を連れた方、外国の方などへのバリアフリーツーリズム宣言を平成19年に発し、推し進めている沖縄県や、障害者へのアシスタンスがしっかりしている全日空なども頭に入れながら、往診に来てくださっているドクターにも相談し、石垣島と竹富島への旅を考え、企画してもらいました。ドクターも石垣島の病院にお知り合いがいるとの事で、何かあったら、という心配をして頂き、詳しい医療情報提供書を八重山病院の先生宛に、作成してくださいました。

日程のやりくり。

飛行機、福祉タクシー、バリアフリールーム、スタッフの4つが揃って初めて成立する旅行なので、3泊4日の旅とは決めていましたが、出発日を7月22日、29日、8月25日、30日のどれかにする事にしました。まだ妻も仕事をしていましたし、私の仕事の都合もありましたから擦り合わせは少々面倒でしたが、二人しての最後の旅かもしれません。妻もまだメールを書けましたし、おしゃべりもできたので一緒に一生懸命、旅のよろこび社さんとのやりとりを楽しみました。旅のよろこび社の皆さん、ご面倒お掛けしました。

ニッケル?リチウム?

飛行機の便の関係で、7月22日、羽田出発となりました。空港のボーディングブリッジ前で、バッテリーを搭載した電動車いすには荷札を張られ、荷物室に引き取られ、手押しの車椅子に乗り換えた妻と機内手荷物で搭乗です。充電器を入れたスーツケースはスペシャルアシスタンス、という一般とは別の搭乗手続き部屋が、羽田の搭乗フロアー2階、正面のすぐ前にあり、そこで預けます。大きく名称が掲示されているのですぐに分かります。飛行機の予約時点で電動車椅子のバッテリーがニッケルなのかリチウムか、とか充電器を持参するか、などを申し出る必要があります。

車椅子の移乗。

手押しの車椅子は空港スタッフの方が押してくださいます。シート脇で止められ、シートへの移乗は私の役目です。機内トイレへの移動は、機内通路の幅ぎりぎりの専用車椅子があり、それをCAさんにトイレまで押して頂き、トイレ内での脱衣や便座への移乗は私の担当。狭い中での格闘でしたが、良い経験になりました。石垣空港では、またボーディングブリッジを降りるところまでは、移乗以外、空港スタッフさんが手押しの車椅子を押してくださいます。

優しい福祉タクシーさん。

空港までは旅のよろこび社さんが手配してくれた、福祉タクシー、ゆいタクシーさん(ハイエース、後部からスロープで車椅子のまま乗り込みます)のお世話になり、ホテルに向かいます。無口で無愛想な運転手さんだな、なって思っていたら、それは私の浅はかさ。後で砂地を走って来て車に乗ろうとしましたら、何も言わずに車椅子のホイールやスポイラーについた砂をブラシで払ってくれていて。感激。頭が下がりました。

バリアフリールーム。

ホテルについたら部屋に入る前に売店に寄り、沖縄県ならではの、ブルーシールのアイスクリームです。サトウキビとミントチョコバーを買って、外を歩き回って、しばし暑さに浸ります。

2名1室のバリアフリールームは、特に水回り、浴室とトイレエリアが入り口を入って、細長い部屋の半分くらいまでを占めるくらい広く、妻の介助を快適に伸び伸びとできます。電動車椅子でバス、トイレルームに入りこめるので、シャワーチェアー脇に止めて移乗するという感じ。石垣リゾートグランヴィレオというホテル。お薦めです。

妻はまだ普通に口から食事できましたので、レストランで食事と地ビールを楽しみます。真っ赤になるくらい呑んでいましたね。その後、ホールで三線(さんしん)のと太鼓、子供たちの踊りに合わせて大きく腕を振っていました。もう一度一緒に騒ぎたいです

タクシーで走り回る、石垣島から竹富島へ。

翌日は、また、ゆいタクシーさんのお世話になって川平(かびら)湾、やいま村、唐人墓を回り、石垣御神崎(おかんざき)灯台で降りて、白い灯台があまりにもきれいだったので写真撮影会。石垣港離島ターミナルからフェリーに乗り、竹富島の東港に向かいます。ジャパン・コースト・ガードの巡視船が多く並んでいる情景に初めて出会いました。前線なのです。障害者手帳の所有者は一般のほぼ半額です。竹富島に持ち込む荷物以外は石垣島のホテルに預けました。

竹富島東港ターミナル横に、福祉タクシー、友利(ともり、ボクシー)観光さんがネームカードを持って待っていて下さいました。そのまま、ホテルピースアイランド竹富島へ。カジュアルな民宿のような感じのホテル。小さなコテージがいくつか分立している感じです。この日は私の誕生日。旅のよろこび社の後輩が、たくさんの飲み物とキャンドルライト、うちわを差し入れしてくださいました。ありがとうございました。壮観な夜空である話を伺っていたので降ってくる様な星屑を眺めながら頂く事に決めました。ホテルには、大口径のビクセン望遠鏡も設置してあるくらいでした。

眩しい日の入り。

日の入りは午後7時32分との事で、ホテルの方に、今は使わなくなった桟橋が近くにあって水平線に沈む夕日が綺麗だから見に行って、と誘われ、二人で向かいました。イラストはその時の様子です。私の楽天イーグルスTシャツを着て夕陽をじっと見つめていましたが、妻は何を考えていたのかな。

水牛車にも乗れる。

翌日は、水牛車を楽しむために、ホテルに竹富観光センターの福祉タクシーさんがお迎えに来てくれました。牛車ですが、車椅子でも乗車できるのです。大きなスロープをかけてくれて乗り込ませてくれます。こちらもフェリーと同様に障害者手帳の所有者は一般のほぼ半額です。街の通りをゆっくりと運んでもらった後、妻の田舎へのお土産替わりの記念撮影写真を撮り、星砂海岸を回って、竹富東港からフェリーで石垣島に戻りました。

ゆり福祉タクシーさんが待っていてくれて、ホテルに帰る前に、しばし石垣島商店街を散策。商店街をひやかし、島パインが送料込みで4玉、2,180円なのだね、などとつぶやきながら歩き回りました。路地を入るとライブハウスを見つけ、入りたいよね、と思いつつも車椅子では入れなかったので諦めました。タクシーに戻って乗せてもらおうとしたら、ゆいタクシーの運転手さんが、星砂海岸でついて砂を小さなブラシで払ってくれたのです。優しい。

石垣旅行最終日の夕食。妻は大ジョッキで生ビール。大きな笑顔で呑んでいました。綺麗な夕焼け。日の入りはやはり午後7時半以降。

機側での車椅子乗り換え。

翌朝は早くにホテルを出て空港へ。ブルーの、かりゆしシャツの空港スタッフにご面倒をかけて、カウンター前で車いすに荷札貼り。ボーディングブリッジを渡って機体乗り口前で機内用の車椅子に乗り換え。電動車椅子は荷物室へ。通常はボーディングブリッジからターミナルビル、そしてターンテーブル辺りで自分の車椅子に乗り換えるのが通常らしいのですが、“機側(きそく)に持って来てください”とリクエストするように、と言われました。その通りお願いしたところ、羽田空港では機体の横に病人や怪我人が使うストレッチャーも入る様な大型の車両をつけてくださり、それでターミナルビルまで運んでくださり、そこで自分の電動車椅子に乗り換えました。

帰宅したら、もう夜でした。帰りがけに空港で買った小さなケーキで、もう一度、二人で誕生日を祝ってもらいました。

呼吸が難しくなる。

同月時点で既に呼吸機能の低下を示していたので、顔をマスクで覆うタイプの人口呼吸器を使い始めていました。ドクターの言い方ですと“包括的呼吸リハビリテーション”と言うのだそうです。旅行から日常生活に戻り、通勤も再開しましたが、まもなく、そのマスク型呼吸器を手放せなくなってしまいました。就寝中はずっと使いたい、となり、次には昼間もずっと頻繁に。

そして9月13日には、激しい呼吸苦を訴え、人口呼吸器なしではいられなくなり、確定診断を受けた、大学病院に駆け込みました。16日には気管切開をし、人口呼吸器を接続しました。以前の資料を見直していましたら、次の様な記述を見つけました。“2016年5月12日当科外来受診時に、患者ご本人と夫と相談し、今後、胃ろう造設と挿管・気管切開(人口呼吸)を行っていく方針である事を確認しましたので、万一呼吸不全など急速に進行する場合、ご連絡お願いします”。人口呼吸器との併走が2016年9月、スタートしました。その前に二人して、できるだけ遠くに行けて良かった。


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