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自己紹介

*要約

私は63歳男性、自営業の“主介護者(しゅかいごしゃ)”。

主介護者とは、介護する側である“介護者”の中心人物を指します。介護を受ける側を“被介護者”と呼びます。我が家の場合、被介護者は60歳、ALS患者である妻。主介護者は夫である私です。大概、”主介護者“は患者家族の誰かが担っています。

もう6年…ALSの妻の在宅介護。

私はALS(筋萎縮性側索硬化症、きんいしゅくせい・そくさく・こうかしょう)という国指定の進行性難病に罹患した妻の在宅介護を、2016年の11月から始め、現在も継続中です。もう6年が過ぎました。疲れ切っています。2013年から2017年までは地方に住む実母の遠距離介護もダブルでやりました。母を見送った直後、蓄積疲労が爆発して病に倒れました。妻の入院をいつまでも長引かせられなかったので頑張って2週間で立ち直りました。

介護に疲れている家族に語り掛けたい。

介護は先の見えない過酷なプロジェクトです。ご家族だけで介護されているお宅もありますし。一方、我が家は先輩患者の家族を訪問取材したり、ネットや関係者の知恵を駆使して情報をかき集め、公的な支援を可能な限り活用し“社会的な介護”体制を作り上げた自負はあります。それでも常に問題が発生して、私に襲い掛かって来ます。毎日気が抜けないです。メンタルはボロボロです。

介護って“家族がやって当たり前”という風潮がそこら中に充満していますよね。私はこの6年間の出来事や母とのダブル遠距離介護の経験を書くことで、今苦しんでいる、悩んでいるご家族に語り掛けたいと思っています。患者など介護を受ける側の人には、ヘルパーやナースやドクターなどサポーターがたくさんいるじゃないですか。一方、家族はどうですか?介護をしている家族こそケアが欲しい、と思いませんか?ようやっといくつかの地方自治体で“ケアラーズ・ケア”という介護者をケアするという概念に基づいた条例などが生まれ始めて来ています。でもまだまだ。

辛い思いをしている家族こそが声をあげないと誰の耳にもとまりません。患者など介護されている方たちの発信は結構あります。介護する側でもヘルパーやケアマネージャー、ドクターなどの発信も結構あります。家族の発信はあまりないですし、あったとしても美談が多過ぎるような気がします。厳しい現実を実際の私の経験を通して語りたいと思っています。コメントでもメールでも構わないので(そうだそうだ、私も同じことでたいへんな思いをしている)(それは間違いだ)など、どんどん私に対して声を上げてください。

*お時間ある方はこれ以降も読んでください。詳しく書いています。

主介護者はケアマネージャーと並走する。

介護者は家族や、“介護職”と呼ばれるケアマネージャー、ヘルパー、“医療職”と呼ばれる訪問看護師や訪問診療医師、薬剤師などです。特にケアマネージャーは“主介護者”と介護という先の見えない過酷なプロジェクトを伴走してくれる大きな存在です。

在宅介護の担い手、ヘルパー。

もちろん在宅介護の場合、ヘルパーがいなければ、すべてを家族がやらなければならなくなり、その作業は甚大なものとなり耐えきれない家族は崩壊してしまいます。ヘルパーは在宅介護に欠かすことができない重要な介護職です。

2016年からALSの妻の在宅介護。

私はALS(筋萎縮性側索硬化症、きんいしゅくせい・そくさく・こうかしょう)を罹患した妻の在宅介護を2016年の11月から始め、現在も継続中です。妻は2015年の半ば頃から頻繁に転倒を繰り返すようになり、整体やリハビリに通いましたが埒が明かず、2015年11月、大学病院で確定診断を受けました。進行性の難病ですから症状は常に進行し2015年末には車椅子の使用を余儀なくされました。

気管切開をし人口呼吸器、胃ろう造設。

2016年夏に“動けなくなる前にできるだけ遠くに旅行しよう”と話し合い、石垣島を訪ねましたが、帰宅後まもなく呼吸がしにくくなり始め、9月に入院、気管切開をして人口呼吸器を使う事になりました。口腔からの食事が困難になるため胃ろう造設、直接、胃から栄養を摂取する経管栄養という方法に切り替えました。

調べまくれ。情報弱者になるな。

この手術、入院の期間中に、私は患者会のご協力を得て、既に在宅介護をしている2家族宅を訪問させて頂き、現実の生活を勉強させて頂きました。様々な公的な支援、公的な財政手当、進化している在宅介護の機器、使いやすい備品や消耗品などをこの目で、この耳で取材し情報を搔き集めました。

ありがたい友人たちのサポート。

また私達夫婦は東京の下町に住んでいるのですが、近所で暮らす、学生時代からの先輩、同級生、後輩、友人家族が、妻が退院し在宅介護が始まった場合のサポート体制についてわざわざ集まり、話し合ってくださり、どれだけ励まされたか測り知れません。

”本読み”は妻を妻たらしめるもの。

小説の編集者だった妻は、これから本当に身体の全てが動かなくなってしまった時にどうして欲しいのか、という事について親しくしてくださっていた緩和ケアの医師と私も一緒に、傾聴してまとめた時がありました。2018年の5月頃から3か月を掛け、視線入力装置と私が妻の眼前にかざす透明文字盤を駆使して聞き取ったのです。

その中に”私が好きな小説やこれからブレークしそうな小説を読み聞かせて欲しい”という願いがありました。早速、親しく私たち家族の事を心配してくださっている近所に住まわれている大学の先輩にお話ししました。(小説の読み聞かせならできる)と言ってくださり、当初はベッドサイドに来て頂き、その場で朗読をしようか、という考えになったのですが、それでは読み手の皆さんの負担が大き過ぎます。時間的な制約も大きい。またベッドの周りで常に何かかしかのケアをしているヘルパーやナースの作業にも支障が出てしまいます。

そこでスマホで読み手の皆さんのご自宅で朗読して頂き、クラウドにアップロードして、妻は枕もとの端末にダウンロードして朗読を聞く、というやり方にしたのです。このプロジェクトは妻の命名で”本読み”とさせて頂きました。(読書好き、本の虫)という意味です。

大学の先輩、同級生、後輩、そのご友人の皆様が大勢、読み手として手を挙げてくださり約50名もの皆様が、まず書評を読んで頂いて、そこから妻が読んで欲しいと希望した作品を朗読してくださっています。朗読してくださった音源の編集を担ってくださる方もいらっしゃいます。

このお話を一番最初に差し上げた先輩が我が家にお見舞いに来てくださった時に、私が妻の前に透明文字盤を差し出すと視線が、少し難しい文章をつづり始めました。”本読みは私を私たらしめるもの”と言ったのです。

小説の編集が天職だった妻にとって”本読み”を聞く事は大切な生きがいなのだと思っています。

時間は止まらない。病気の進行も止まらない。だから走るしかない。

2016年11月に妻は退院し、在宅介護が始まりました。先輩患者家族の皆さんから直接学んだ事も多かったのですが、ケアマネージャーとも話し合いながら、自分で猛烈なスピードで様々な公的な支援、医療・看護・介護・機器購入などについて調査し、妻の病気の進行に負けまいと必死で公的な機関、介護事業所、医療機関などと打ち合わせをし、ペーパーワークをこなし申請しまくり支援を獲得し続けました。

重度訪問介護の時間獲得交渉。疲弊して倒れるのみ

しかしながら、妻は寝たきりで生活の全てに介助が必要でしたので、介護5の認定を受けましたが、その介護保険の点数を使い果たし、その後に使える障碍者支援法に基づく重度訪問介護というヘルパーを雇う公的な支援を最も身近な地方自治体から獲得する交渉にはたいへんな時間と準備、交渉が必要で疲弊の限りを尽くしました。

仕事での交渉スキルは介護にも役に立つ。

自費負担分がまったくゼロになった訳ではありませんが、約4年間をかけて24時間365日、ヘルパーに妻のそばで介護してもらえるくらいの支援を得る事ができました。重度訪問介護時間を獲得するには資料作成のスキルが活きるので、仕事の経験や知識が役立ったのだと思います。お仕事を続けながら介護をされている方も多いと思います。私とやり方をシェアしませんか。

傷病手当と障害年金にタイムラグはNG。

妻は会社員でしたので傷病手当を頂きながら休職し、その支給が切れるまでに、障碍者年金の申請を済ませ、在宅介護に必要な収入が途切れない様に社会労務士と組んで作業もしました。また一般の生命保険を障害年金としてもらう方法も取りました。その他に障害者向けの、見つけにくい、地方自治体から支給される各種手当もいくつかあります。その種類と取得の仕方もシェアしませんか。

知らない方がたくさんいます。

会社員を長年続け、優良大企業に勤務しがらも、傷病手当の存在すら知らない方もいました。その方には傷病手当の仕組みと申請方法をお話して無事貰えることができました。ましてや障害年金は申請の文章次第で年金機構から突き返される事も多々あり、不幸な思いをしている方が多いと聞きます。それを社会労務士と組んで最高の条件を引き出した経験もお話できると思います。介護を支える収入について様々な事をシェアしませんか。

福祉機器を探しまくれ。介護生活の質が爆上る。

ALS患者は、身体のあちこちが続々と動かなくなる事と気管切開し、人口呼吸器を使っているので声を出すことができません。ですがコミュニケーションを取る最新の機器をリサーチし、福祉機器メーカーや販売会社と打ち合わせをして公的な支援をもらいながら在宅介護生活に導入する作業もこなしてきました。

寝たきりなので、体圧を常に感知して分散するマットレスを患者会の会合で発見し、いち早くメーカーと連絡を取り、公的な支援を得られる、福祉機械販売会社と組んで我が家の現場に導入した事もあります。

パソコンに接続した視線入力装置を駆使し、モニター上の文字盤を視線で操作し文章を書き上げ、それを喋らせる装置。その装置を使ってWi-Fiにつながっているパソコンに接続されているロボットで患者の目と耳になる事ができ、世界中どこに移動してもベッドのパソコンで操作できる装置も導入しました。そのロボットを落語の会に連れて行ったので、妻はベッドの上で落語を楽しめました。進化よ、バンザイ!

この導入には自治体の公的支援も受けましたが、妻が通っていた合気道道場の仲間の皆さんのファンドレイジングも大きな助けになりました。そして現在は、脳から身体を動かすための指示である生体信号をセンサーで検知する装置も導入し、練習に励んでいます。コミュニケーション支援の装置には様々な種類があったり、公的な支援も受けられたり受けられなかったりと様々です。その辺りの事もシェアしませんか。

プライベートへの第三者の介入。尋常ではないストレスフルな日々。

在宅介護とは、ご自身の家庭という非常にプライベートな空間に、個性も価値観も行動パターンも出自も知らない、ひょっとしたらどう頑張っても理解しあえないかもしれない第三者、赤の他人が入り込んで来て作業する環境に変化してしまう事を意味します。

この業界では”介入する“と言います。”軍事介入“という言葉はニュースで耳にはしましたが、まさか自分の家庭ごときで”介入“という用語を使うとは夢にも思いませんでした。でも正にプライベートな生活に”介入“されて、普通の家庭生活はできなくなるのです。どう説明してもこの現状を理解できない妻に怒鳴った事があります。”我が家はもう我が家じゃない。ただの作業場になってしまった“と。

私は耐え切れず双極性障害になり睡眠障害に悩まされています。メンタルクリニックに通院し大量の服薬、週1回のメンタルヘルスの看護師の訪問を受けています。自傷行為もしてしまいました。自殺未遂も試みた時があります。でもこの様な厳しい状況にいるからこそ、どうやったら危機を回避し良い方向に転換していけるのかのお話もシェアできると思います。

生業は貿易業。

”主介護者”は2021年7月時点で63歳、男性。法人成りはしていますが貿易業を“ひとり親方”で多くのパートナー会社の協力を得て20年以上、生業としています。世界17か国のメーカーやお客様と、主に趣味手工芸で使う道具や工具を輸出輸入しています。

ラジオからコード理論、フォークデュオ、合唱全国優勝、作編曲夜学通い。


一人っ子で、生まれは北海道の炭鉱町、育ちは高卒まで仙台です。

大学の正門近くに実家がありましたので副業で下宿も営んでいて学生2名に住んでもらっていました。そのうちのひとりに小学5年から英語と算数を習っていたのですが、彼はジャズピアノも弾けてステレオを自作する腕前でした。

ほだされた私はすぐに見様見真似でラジオ作りに励み、無線工学と電波法を学んでアマチュア無線の免許を取ることになります。なんとその頃の志望大学はマサチューセッツ工科大学でした。

一方、音楽についても彼の影響を受け、自作のラジオを通して洋楽にのめりこみ、音楽話しを彼とする合間にコード(和音)理論についても学ぶ事ができたのです。

その音楽の知識を使って、中学生になるとフォークデュオを組みます。友人にメインボーカルを担当してもらい、私はサイドボーカルとギター。サイモンとガーファンクルをロールモデルにしていました。

その後、メインボーカル担当の友人に勧誘されて合唱部に入部しました。男性パートの人数が足りず青田刈りをしていたのです。NHKの合唱コンクールで何度も優勝したことがある伝統校でしたが、ここ数年、勝利から遠ざかっていたので指導陣はかなり焦っていたらしく、朝練、昼練、夜練、夏休み返上という猛特訓でした。おかげで歌唱力はメキメキ上達し、ついに全国優勝を果たします。現在では“N(エヌ)コン”と呼ばれるコンクールです。

私の音楽愛はこの時点で大きな達成感を得て、決定的なものとなりました。大学生の頃、夜学で作曲編曲を学びに通っていたのもここが出発点です。できはしませんでしたが、その頃は村井邦彦や筒美京平の様な作曲家に憧れていたのです。

国産広告代理店、外資系広告代理店、外資系商社、独立。

学卒で日本の広告代理店に入社し営業、販売促進、イベント運営などに携わりました。ただ広告代理店で仕事を始めたのに、社長秘書という役割を与えられた時に、つまりは総務や経理に回される事もあり、日本企業では広告の仕事という専門性を追求できない事に気づきました。

そこで外資系の広告代理店に転職しました。おかげさまで国際的にも巨大なヘアケア製品や食品を扱う顧客の営業担当に着けさせてもらいマーケティング、プレゼンテーション、英語でのコミュニケーションを叩き込まれ一気に成長できたと実感しています。

その後、外資系の商社にマーケティング、広告、PR、製品開発の担当者として招かれ、それまでの経験を一気に開花させる事ができました。もうひとつ別の外資系商社にもお世話になり、欧州の本社に勤務しながら日本の政府開発援助関連の仕事を経験させてもらいました。その後、貿易とマーケティングを取り扱う個人事務所を立ち上げて独立しました。

随分と以前の事ですが、事業がうまく行かなかった一時期があり、アルコール依存症に陥り、リハビリ施設にお世話になった瞬間に、“本来は良くない出来事なのですが結果的には私にとって良い事件”が起き、一気に立ち直れた事がありました。事故で大腿骨頸部骨折、3か月も入院した事もありました。癌を疑われた胃潰瘍で手術入院をした事もあります。ちょうど妻の弟にフィアンセができた頃で、私に彼女を値踏みをさせようと、病室に連れて来た事が懐かしいです。

あらなえる縄の如し。

何度も病気にかかりましたが、いつも妻が励ましてくれました。妻が今現在の難病に掛かって面倒をみなければならないと分かった時に、私は妻に“人生はあらなえる縄の如し”と言いました。今度は私が恩返しする番だと言う意味で口にしたのです。

もう十分お腹一杯。でもまだ続く。

最初の自己紹介の要約に書いた通り、介護に苦しんでいる、悩んでいる家族に“主介護者”はこれから続く、noteの記事で語り掛けていきたいと思っています。

始めはまずこの6年間を一気に振り返ってまとめたい、と思っています。その後、いろいろな事をピックアップして語って行こうと思っています。

話が、あちこちに飛び回ると思いますが、どうぞお付き合いください。

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