成すもの。遺すもの。
人生の終わりと、サッカー選手人生の終わり。
どこか少し似ている気がする。
どちらもいつ終わりがくるか分からず
もっと生きたいと願っても生きられないことだってある。
その人生を終える時に『幸せだった』と思えれば
きっとそれは素敵な人生だったと言えるけど、
誰しもがそういう人生を送れるわけではない。
終わりが少しずつ近づいてくることに怖さを感じる。
選手としてベテランと言われる年齢になった僕は
もう先が長くないことを十分理解している。
30代に入ってからはいつ終わりがきてもいいように準備してきた。
後悔はないか?やり残したことはないか?
やれることは本当に全てやりきったのか?
と、何度も何度も自分に問いかけて。
いつか死ぬその日までに、あれはしたい。
これはしたい。と成したいことを思い描き、
追い求め、日々努力をした。
でも、自分の中でどこか物足りない。
なぜか分からなかったがずっと物足りなかった。
この夏。
大分トリニータの高木駿が札幌に移籍し、大分の
サポーターに向けて挨拶をした。
その中で少しだけ僕の名前が出た。
内容は触れないが、
高木の中で修行という選手の姿が確かに存在していて、彼の中にはのこっているものがあった。
僕が大分から離れてもう何年も経つというのに。
なんとも言えない嬉しさが僕の中に込み上げた。
自分が死ぬまでにしておきたいことはこれなんじゃないかと思った。
ずっと成すことばかり考えてきたけど、
何かをのこすという事も同じくらい、もしかしたらそれ以上に大事なんじゃないか。
自分の中での物足りなさはこれだったんじゃないかと気づかせてくれた。
生きている間にどれだけ素晴らしい事を成し遂げたとしても、いなくなった時に何ものこらないような人生の終わり方はしたくない。
どうせなら誰かの背中をそっと支えるような何かをのこしてからいなくなりたい。
そう思うようになった。
もし今、僕がいなくなったらこの今治に一体何が
のこるんだろうか。
このFC今治というクラブに。
応援してくれた人たちの心に。
そしてこの街の子どもたちに。
少しでも何かがのこるんだろうか。
そして共に戦う選手たちに、何かをのこせているんだろうか。
そう考えるとこのままじゃだめだと思った。
もっと、もっとだ、と欲が出てきた。
のこすものは
決して目に見えるものではないし
のこそうと意識したところで人の心に簡単にのこせるものではないんだと思う。
だからこそ自分のサッカー人生での大きなやりがいになるはずです。
今シーズンはあと残り3試合。
成し遂げたい事もありますし
この今治に少しでも何かがのこればと思いながら、自分らしく長生きしたい。
いま、そんなふうに考えています。
FC今治 修行智仁
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