自己紹介(前編)

0. はじめに

初めまして、弁護士の梅澤太郎といいます。2012年12月登録なので、弁護士12年目に突入しました。

株式会社エブリーでのインハウス時代の広報部門を見ていて、自社や自社商品・サービスを知ってもらう努力の大切さを肌で感じたこともあり、自己紹介というタイトルで自分の過去を少し振り返ってみようと思います。


1. ロースクール卒業まで

(1) 北海道帯広柏葉高校

北海道帯広市生まれです。
地方都市にありがちなルートをたどりまして、指定された学区の公立小・中を経て、高校は地元の進学校(北海道帯広柏葉高校)を卒業します。
高校の先輩は案外華やかで、中島みゆきさんやドリカムの吉田美和さん、アナウンサーの安住さんがいます。
余談なのですが、北海道立高校は、「北海道立●●高校」とは表記せず、「北海道●●高校」と表記します。たまに、北海道立と書いてるのを見かけますが不正確です(たぶん)。

幼いころから色々とスポーツをしましたが、競技歴はアイスホッケーが最も長く、10年以上の経験があります。
外に水を撒けばリンクができますので、冬は、アリーナでの練習と屋外での練習をします。屋外のリンクはめちゃくちゃ寒くて、汗をかくと髪が凍るんですよね(マジな話)。

アイスホッケーは、一時期に比べるとリーグの盛り上がりも寂しいばかりか、最近はリーグが分裂してしまい、元競技者としては思い切り冷めた目で見ております。
ちなみに、アイスホッケー界隈で、ゴシップにだけメディアが注目するのはおかしい!と文句言ってる人をたまに見かけますが、本業(プレー)で目立った成績も出せてないスポーツなんだから当たり前だろと思ってます。メディアはボランティアじゃないだろ。女子の代表見てみろよ、普通に本業で注目されてるじゃん。

(2) 神戸大学

北海道帯広市で18歳まで育ったのですが、大学は、札幌や東京をはるかに越えて、兵庫県神戸市にある神戸大学に進学します。
よく、「なんで神戸大学だったの?」と聞かれるのですが、まず、親の方針で北海道内は絶対NGでした。北大は絶対にNGというルールです。
自分自身、東京志向が強かったこともあり、頑張って一橋大学に入りたかったのですが、僕の知能だとそこまで辿り着けず、神戸大学か東北大学かなとなり、神戸大学になんとなく決まったというそんな感じです。

初めての一人暮らしで、いきなり関西圏ですので、最初はホームシックにもなりましたし、ここでやっていけるんだろうか…という不安も大きかったのですが、友人に恵まれ、神戸での4年間は大切な財産です。
神戸大学の学生は原付バイク必須なのですが、ロースクール受験勉強を始めてからは、法学部の友人たちと夜まで大学図書館で勉強して、原付に乗って帰るのですが、たまに食べる王将やラーメン(ラーメンたろう、通称らーた)が美味いんですよね。。当時は確かキムチ食べ放題でしたが、今はどうなんでしょうね。辛いことも多かったのですが、良い思い出です。

(3) 一橋大学LS

4年越し?の念願かなってロースクールは一橋大学に入学しました。
ひと学年100人の少数規模で、仲も良く、とても良いロースクールでした。優秀なのにみんなめちゃくちゃ努力するんですよね、、、あぁこいつには適わないな、と思う人にも出会い、思い切り力の差を感じた時期でもありました。
それでも尊敬できて、かつ馬の合う友人も多くできました。
実務に出た今でも、messengerやLINEで気軽に質問しあえる仲なのでとても助かってます。飲みに行っても楽しいし、刺激をくれる仲間です。

ただ、国立市には良い思い出がありません、なぜかというと、、、

2. 就職活動・司法浪人

(1) 司法試験不合格の悪夢

人生において最もつらかった時期です。

当時の一橋大学の同期は、合格率が確か70%-80%近くあり(合格率は全体トップ)、肌感、自分以外はみんな受かったという感じでした。

それまでは浪人というものを避けてきた人生で、大きな挫折もなく来てしまった中での大挫折でした。
頭は真っ白、不安で眠れない、どうしてよいか分からなくて決めることから逃げ惑う、そういう悲惨な状況でした笑。
他の人は知らないが、自分だけはなぜか受かるだろうと考えていた、あの全能感(いや、無能感)はいったいどこへ。。
笑い話ですが、「今何かで捕まったら自分は『無職』としてテレビに出るのか…」と、超どうでも良いことを考えて、凹んでいた時期です、バカすぎます。

(2) 友人のアドバイス

怖くて司法試験を受けられるような精神状態にはなく、司法試験から逃げる選択肢をひたすら探していたというのが正直な状況です。

その中で、大きな転機だったのが、神戸大学時代のゼミの友人でした。
彼も異色で、京大LS在学中に某鉄道会社の内定を取得し、京大LS卒業後、一度そこに入社し、在籍したままで司法試験を受けて合格、その後退社というルートをたどっていました(今は京都で弁護士やってます、I君ありがとう!)。
その彼から、「梅ちゃんの気持ちはよく分かる、自分もそうだった、就職してセーフティネットを張った方が良い」とアドバイスを受け、なるほど!と単純にその案に乗り、就職活動を始めることにしました。

(3) 侮るなかれ、民間企業の就活戦線

ということで、何も分からないまま就活を始めますが、思い切り壁にぶち当たります。
当時は、第二新卒という言葉もなく、卒業後●年までは新卒として扱う的なものもない時代です。特にリーマンショックの煽りをもろに受けた時期でしたので、就活環境としては最悪でした。
新卒採用に応募しようとして連絡すると、「既に卒業しているならキャリア採用で応募してください」と言われるような環境です。キャリア採用でとおるわけないだろ。。

なかなかなコンディションですが、当時はこれしかない!と思ってましたので、TOEICの勉強を進めつつ、手あたり次第採用部門に突撃していました。

就活の中で思い知ったのは、学部生との歴然とした力量の差でした。
集団討論も参加しましたが、学部生すごいんですよね。そもそも熱意も違うし、その分準備もしてくるし、場慣れもしてるし、こんなにも自分ができないやつなのかと落ち込んだりもしました。
マジな話、この時代によく聞いていたのが、帯広柏葉高校の先輩である中島みゆきさんの「時代」です。余計暗くなりそう。。

ただ、何回か面接をやってると、次第に面接やエントリーシートのコツみたいなものが分かってきました。
あぁ、これ法律と一緒だと思ったのです。
エントリーシートや面接は、自分がどういう人間かということを立証するための作業であって、分解すると、①どういう人間かを明確にして、②①を裏付ける証拠や事実を整理して、アピールする作業なのだと気づいたのです。
もちろん、①は企業が欲しい人物像にする必要がありますけどね。

ここに気が付いてからは、めちゃくちゃ楽になり、なんで自己分析が必要なのか?ということもようやく腹落ちしました。ただ、自分の振り返りしてても意味ないんですよね、あれ。②のための自己分析なんですよね。

そして、連戦連敗の中、神様のような会社に出会います。
株式会社ブリヂストンです。

3. 株式会社ブリヂストン

(1) 秋採用で滑り込み

リーマンショック後の大不況、文系大学院の既卒、という思い返しても引くほどの悪環境の中ブリヂストンの秋採用でようやく滑り込みです。
何回か面接しましたが毎回手応えがあり、これは受かりそうだなと思っていたところ、なんとか内定をGetすることができました。

このとき、当然、人事には司法試験を受けたいとは言っていません。人事からも特に聞かれなかった気がします(聞かれたかも)。
個人的にも、こんな自分を救ってくれた会社をたった数か月で辞めてよいのかなという気持ちが強く、受験を決めていたわけではありませんでした。

ただ、時間が経つにつれて、入社後に受験するなら初年度しかないだろうという気持ちが芽生えてきて、やはりチャレンジしよう!と決め、改めて、数か月後の司法試験に向けて勉強を開始しました。

(2) 入社直前の東日本大震災

2011年4月1日入社を控えた、3月11日、大学図書館で勉強中に発生したのが東日本大震災です。
生まれ育った北海道は地震が多い地域ですので、それなりに大きな揺れも経験してきましたが、それをはるかに上回る揺れで、本棚からたくさんの本が落ちまくる光景は今でも思い出されます。

入社予定のブリヂストンは大量の電気を消費するメーカーですので、計画停電などの影響を受けており、本当に4月1日に入社できるのか、そして、そもそも司法試験は行われるのか、不安な日々でした。
ただ、不安に思っていても何も変わらないので、できる範囲での勉強を続けていました。
当時は、大学図書館と渋谷駅前にある本屋隣接のカフェを使ってたのですが、震災後は両方全然使えなくなり、本当に不便でした。

(3) 無事に入社、そして受験

2011年4月1日に、無事、広尾にある研修センターでの入社式があり、晴れて、ブリヂストン社員の仲間入りです。
入社時に26歳になっていて、最年少の同期とは4歳差です。馴染めるのか心配もありましたが、始まってしまえば数少ない同期として、全く問題なく関係性を築くことができました。
既にブリヂストンを辞めた同期も多いのですが、今でもたまに会うことがあります。同期には本当に恵まれました。

残された重要な問題は、司法試験受験の可否です。
研修開始時に、意を決して、人事に受験したいことを伝えました。人事の担当者は知らなかったらしく、「確認する」と言われて、その場のやり取りは終わりました。

ブリヂストンでは、2か月程度の新人研修があり、その後に配属が決められます。当時は、広尾の研修センターで集合研修をして、その間、福岡県久留米市にある創業地に行ったりしつつ、また広尾に戻ってきて、次に工場研修と販売研修を行います。工場研修と販売研修は全部で1か月程度だった気がします。
僕は、工場研修は磐田工場(静岡県)、販売研修は大阪府堺市の営業所でした。

磐田工場に向かう当日、例の受験問題を確認したところ、「例外なんだけど受けていいよ。有休取得してね。工場長には言ってあるから」と言われました。
試験日まで余裕で1か月は切っているタイミングですが、ようやくここで受験できることが決まったわけです。

(4) 磐田工場時代と受験

磐田工場での工場実習は良い思い出しかありません。
工場で働くのは初めてですし、厳しいのかなぁと思っていたのですが、指導担当になってくれた技能員の方がめちゃくちゃ優しくて(しかも超優秀)、同じチームの方もみんな優しかったです。話も面白いし、最高でした。
このときに初めて食べたのが、さわやかのげんこつハンバーグです。
めちゃくちゃ美味いよという前振りで連れて行かれて、確かに美味くて感動しました。

工場は三交代制なので、初めての夜勤もありました。
昼くらいに寝ないといけないのですが、全然眠れないんですよね。。カーテンを閉めて真っ暗にすると良いとかアドバイスを受けたものの、全く眠れず、ちょっときつかったです。

という中で司法試験受験のために有休を取得し、磐田から東京に戻ってきて試験を受験しました。
三交代の中での受験で、会社員としてやることもあるし、ふわふわした状態での受験です。
司法試験受験はもう流れ作業のようなものでした。全てをそこに注げるような状況ではないのですが、むしろ肩の力も抜けて、飽きっぽい自分には代えってよかったのかも。

(5) 購買部門への配属

研修も終わり、試験も終われば、晴れて配属先の発表です。
広尾の研修センターに同期が集められて、人事部長から、あいうえお順で配属先を告げられていきます。
僕がロースクールを出ていることは既に同期には知られていて、「梅ちゃんは法務でしょ」という感じでしたし、僕もやっぱ法務なのかな、事業部も行ってみたいな、けど法務だよな、くらいの認識でした。
そして、当日の配属発表ですが、「加工品事業購買部」。漢字が多くて聞き取れず、法務でないことの驚きもあり、全く頭に入ってきませんでした。購買ってなにするの状態です。

遅刻するなよということで、早速、大急ぎで広尾の研修センターから配属先に向かいます。
ブリヂストンは京橋に本社ビルがあるのですが、ノンタイヤ部門である加工品部門は、日本橋の貸しビルに入っていました。
そこに到着して普通の新卒社員としての勤務を始めます。

同じ課の課長はクセがある人でしたが親分肌の人で尊敬できて、先輩方もノリが良くてとても好きでした。よく飲みにも連れて行ってもらいました。

購買部門は要するに部材を取引先から購入するのが仕事なので、横浜の新羽にはよく通いましたし、仕事は難しかったです。

外注先からは、「無理言わないでよ」とか「金型どうすんの」とか怒られ、営業部門からは、「梅ちゃんさぁ、こんなに高いの仕入れたら商品売れなくなっちゃうよ」と言われ、開発部門にお伺いに行くと、「変な部材使ってたら良い商品作れないじゃん」と言われ、あれこれどうすんのと思って課長に相談に行ったら、「情報に付加価値つけて動かさないと間に入る意味ないよ」と火の玉ストレートを投げ込まれておりました、大炎上です。全部正論なんですけどね。
優しい先輩たちとおかげでなんとかなった気もしますが、事業の中に入れている気がして、新鮮でとても勉強になりました。

(6) 合格発表

なんとか無事に合格を果たし、部長と課長に伝えると、手を差し出され、「おめでとう!」と言われました。
部署の先輩には、「いずれ戻ってこようかと思っている」という話もしたのですが、「いや、ここはお前が戻ってくる場所じゃない、戻ってくるなよ」と言われ、温かく送り出してもらいました。
ちなみに、法務部門の執行役員の方とも面談をさせてもらい、弁護士資格を取得した後のキャリアプランとしてどのようなものがあるのかを説明してもらい、留学やアメリカ本社での勤務の機会もあるということも教えてもらいました。めちゃくちゃ魅力的な提示。。

誰も恨み言も言わず、温かく送り出してくれたブリヂストンは今でも大好きです。陰ながらの応援ということで、タイヤはブリヂストン一択です。実家のスタッドレスももちろんブリヂストンです。

4. 後編

後編は、弁護士登録後の紆余曲折です。お楽しみに。

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