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靖国神社と葦津珍彦─「A級戦犯」の合祀に否定的だった葦津珍彦の靖国神社論に学ぶ

九段が喧騒に包まれる前に

 8月15日が近づいている。
 終戦記念日といわれるこの日、靖国神社には毎年多くの参拝者が訪れ、境内では政治団体の集会なども開催される。また靖国神社からほど近い九段下の交差点では反天皇・反靖国神社を訴える市民団体のデモ行進と、これに抗議する一群の人々の衝突も発生し、九段一帯は喧騒に包まれる。

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平成最後の終戦記念日の靖国神社:時事通信フォト

 一方、靖国神社にほど近い日本武道館では、政府主催の全国戦没者追悼式が天皇皇后両陛下御臨席のもと開催される。同じく靖国神社至近の国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑にも、終戦記念日には多くの人々が訪れる。いずれも靖国神社とは打って変わって喧騒というようなものはなく、厳粛な雰囲気である。
 靖国神社、日本武道館、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑という半径500メートル以内で同時に存在する喧騒と厳粛な雰囲気という二つの異なる空気。日本の戦没者慰霊の落ち着きのなさを感じることができる。
 つい最近でも衆議院議員の長島昭久や元大阪市長の橋下徹、作家の百田尚樹やジャーナリストの有本香などのあいだで、靖国神社や戦没者慰霊の問題について「論争」があったそうだ。
 終戦記念日における九段一帯の喧騒のネット版、場外乱闘のような「論争」だが、その論点は靖国神社へのいわゆる「A級戦犯」(以下、単にA級戦犯と表記する)の合祀や分祀の問題、国立追悼施設の問題、天皇や首相の靖国神社参拝の問題であったという。
 戦後神道界・神社界を代表する言論人である葦津珍彦は、靖国神社の「国家護持」を訴えていた。そう聞くといかにも右翼的な主張のように聞こえるが、その一方で葦津は靖国神社へのA級戦犯の合祀について否定的であった。
 神社本庁および靖国神社はA級戦犯の合祀について、正式な手続きで行ったものであるという主張を崩しておらず、分祀を求める声にもそれはできないと頑強に突っぱねている。こうした靖国神社の強い姿勢も「喧騒」を生む一つの要因となっているといえるかもしれない。そうしたなかで靖国神社の国家護持を主張しつつもA級戦犯の合祀に反対した葦津の靖国神社論から、事態を理解し打開する何かの示唆を得ることはできないだろうか。

昭和天皇の靖国神社参拝について

 終戦記念日の靖国神社には報道陣が集結し、総理大臣や国務大臣、あるいは有力議員の参拝の有無を取材している。この熱気がまた九段を喧騒で包む要因の一つとなっている。
 戦後、歴代首相の靖国神社参拝はたびたびおこなわれてきた。昭和60年(1985)の中曽根首相の「公式参拝」以降、参拝はかなり厳しくなっていったが、小泉首相は計6回参拝し、安倍首相は第二次安倍政権で一度参拝するなど、近年では途絶えがちながらも継続されている。
 天皇の靖国神社行幸(親拝ともいわれるが、煩雑さを避け以下「参拝」と統一する)はどうだろうか。昭和天皇の戦後の靖国神社参拝は以下の通りとなっている。

(1)昭和20年(1945)11月 臨時大招魂祭
(2)昭和27年(1952)10月 講和条約締結に関して、宗教法人後初
(3)昭和29年(1954)10月 秋季例大祭(靖国神社創立85年)
(4)昭和32年(1957)4月  春季例大祭
(5)昭和34年(1959)4月  臨時大祭(靖国神社創立90年)
(6)昭和40年(1965)10月 臨時大祭(終戦20年)
(7)昭和44年(1969)10月 御創立100年記念大祭
(8)昭和50年(1975)11月 終戦30年に関して

 昭和50年以降、昭和天皇の靖国神社参拝は途絶え、崩御されるまで参拝はなかった。ただし春秋の例大祭などにおける勅使差遣や皇族の参拝は、昭和50年以降も続いている。

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昭和50年11月21日、昭和天皇の最後の靖国神社参拝の様子:共同通信

なぜ昭和50年以降参拝が途絶えたか

 昭和50年以降、昭和天皇の参拝が途絶えた理由として、一般的に以下の理由があげられている。

1、昭和49年(1974)の靖国神社国家護持法案の衆議院通過
2、昭和50年の三木首相のいわゆる「私的参拝」発言⇒同年の天皇の最後の参拝も「私的参拝」とされた
3、昭和53年(1978)のA級戦犯の合祀と、これについての翌年の報道

 このように昭和50年前後、靖国神社を取り巻く情勢が変化し、靖国神社参拝が高度に政治的な問題になっていき、それが参拝が途絶えた理由と考えられる。また昭和天皇の各地の護国神社への参拝も、A級戦犯が合祀された昭和53年以降途絶えている。
 上皇も天皇在位時、一度も靖国神社を参拝していない。上皇は平成5年(1993)に埼玉県護国神社、同8年(1996)に栃木県護国神社を参拝しているが、その際にもA級戦犯の合祀について確認があったといわれている。 また、これ以降、上皇の護国神社参拝は途絶えている。そうしたことから、A級戦犯の合祀は、戦後の靖国神社にとって非常に大きな意味を持つものといえる。

「大元帥」と靖国神社

 現在、靖国神社は一つの宗教法人だが、神社本庁の被包括神社ではなく、単立の宗教法人である。戦前の靖国神社は陸海軍省が所管(実際は事実上、陸軍省が専任的に所管)する神社であり、戦前においても他の神社に比較してかなり異質な神社であった。
 制度的な面のみならず、祭儀の面でも靖国神社は他の神社と異なる。靖国神社は明治2年(1869)、「東京招魂社」として創建されたが、そのころも軍務官が祭祀の執行にあたることになっており、東京招魂社を靖国神社とあらためる太政官布告においても、陸海軍二省の官吏が祭儀に臨むことになっている。
 また、例えば戦没者の御霊を靖国神社に招く招魂式(招魂祭)において、儀仗隊による儀仗礼が行われたり、軍楽隊による奏楽が行われるなど、祭儀に軍隊式の儀礼が含まれている。 靖国神社の祭神として合祀されるものは戦没者であるから、その選定にもいうまでもなく軍が深く関与している。

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昭和13年10月の招魂式における軍楽隊:『靖国神社臨時大祭記念写真帖』(國學院大學研究開発推進機構「招魂と慰霊の系譜に関する基礎的研究」公表資料)

 戦前の昭和天皇の靖国神社参拝時の様子は、いくつか写真に残っているが、そこでは昭和天皇は軍服をお召しになり、軍刀を帯刀したお姿で参拝している。戦前において昭和天皇の参拝は、大元帥としての天皇の参拝だったということができる。

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昭和14年10月の昭和天皇の参拝 軍服・軍刀を着用している:『靖国神社臨時大祭記念写真帖』(國學院大學研究開発推進機構「招魂と慰霊の系譜に関する基礎的研究」公表資料)

 葦津は、こうした靖国神社の性格について自覚的であった。葦津は靖国神社にとってもっとも大切な儀式は大元帥の勅祭であり、軍隊の儀仗表敬の儀式であって、それは洋風であったとする。そして、この軍隊儀礼こそが大切であり、靖国神社の本質の骨格だとする。その上で、GHQ の宗教行政顧問を務めた岸本英夫が靖国神社を訪れ、軍隊式の儀礼をあらためさせ、それを GHQ に確認させたと語っていたと回想している。
 靖国神社はその本質として、軍隊そして大元帥としての天皇と一体の施設であり、軍隊が解体し、天皇が象徴天皇へと位置づけられる中で、天皇の参拝が途絶えるのは歴史的にも制度的にもある意味では必然であったといえる。そして天皇と靖国神社の本質的な乖離を決定的にしたのが、A級戦犯問題をはじめとする政治的問題だといえる。

葦津珍彦のA級戦犯合祀慎重論

 それでは葦津は、靖国神社へのA級戦犯の合祀についてどのように考えていたのだろうか。
 葦津は靖国神社へのA級戦犯(葦津はA級政治戦犯、政治戦犯犠牲者などと呼んでいる)の合祀について、どちらかといえば否定的、少なくとも慎重な見解を持っていた。葦津は、靖国神社の合祀には「限定」「限界」があるとし、あくまでも大元帥(国家)の公式命令によって出動した戦没者を祀るのであり、軍の戦功者を無限定に祀るわけではないとしている。 葦津の見解をまとめると次のようになる。

1、吉田松陰など刑死者も祀られているが、それは明治維新に限定されている。
2、東京裁判とその判決に基づく死刑について、占領軍による違法な検挙・刑死であり、犯罪者ではなく戦時中に外国軍隊に殺された戦死者と同一視してよいというならば、検挙を拒否して自殺した近衛元首相などの合祀も検討する必要が出てくる。
3、A級戦犯を戦時中に外国軍隊に殺された戦死者と同一視するのならば、東京大空襲や広島・長崎原爆投下による犠牲者の合祀も必要となる。
4、確かにA級戦犯は「外国軍隊に殺された人物」ということができたとしても、彼らは日本を敗戦へミスリードした責任もあるという国民感情もあり、それは限定の内外にどう位置づけるか議論が分かれている。

 葦津の論をA級戦犯合祀「否定」論とまで表現していいかどうかは難しいところだが、明らかに葦津は合祀に対して慎重であり、疑問視していたことは明白であろう。

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市ヶ谷の東京裁判(極東国際軍事裁判)法廷に座る東条英機など当時の戦争指導者:朝日新聞フォトアーカイブ

 実際に葦津は、筑波藤麿が靖国神社宮司を務めていた時代、靖国神社の祭祀制度調査会の委員としてA級戦犯の合祀について反対し、靖国神社総代会の最強硬派でA級戦犯の合祀を主張していた元大東亜相の青木一男らを抑え込んでいたとされる。これにより国から合祀対象者としてA級戦犯を含む名簿が靖国神社側に提供されていたのが、筑波宮司はA級戦犯については「宮司預かり」として保留し、合祀されなかったのである。

葦津と靖国神神社国家護持論

 ただし、葦津のA級戦犯合祀慎重論は、葦津の靖国神社国家護持論と表裏一体の議論であったことは注意したい。
 葦津は占領政策の成り行きでなった宗教法人ではなく、創建以来の国家的な性格を回復したいという靖国神社側の要望に基づき、靖国神社国家護持論を主張している。
 一方で、そのための条件として、葦津は靖国神社創建以来の伝統的祭儀の固守を求めている。靖国神社側が国家護持されるまで伝統的祭儀を固守するとともに、国家の側も国家護持をする靖国神社に伝統的祭儀の変更を求めないというものである。国家護持のためにも、そして国家護持以降も、なるべく元のままの姿の靖国神社を維持したいという考えといえる。
  しかし、A級戦犯の合祀はこれまでの合祀基準から外れる前例のないものであり、靖国神社の性格を変えるおそれがある。葦津は、それは靖国神社の国家護持という観点からもきわめて重大な問題であり、靖国神社国家護持がなったのち、国民的なコンセンサスを得ながら判断するべきだともいう。

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昭和60年の終戦記念日に靖国神社を公式参拝する中曽根首相:iRONNA

 ところで、葦津は靖国神社国家護持の具体的な内容として、東京都慰霊堂をイメージしていたようである。
 葦津は神社新報紙上で時折、関東大震災と東京大空襲の犠牲者の遺骨を安置し、春秋に仏式での法要を営む東京都慰霊堂について取り上げている。そこで葦津は、東京都慰霊堂は公営(都営)の宗教的施設だが、慰霊は公益財団法人の慰霊協会が代行しており、そうした状態であれば政教分離に問われず、都知事や皇族の参加も認められるのであれば、靖国神社の施設を国家が護持し、代行者としての法人格を有する靖国神社が神式での儀式を行うことは難しい話ではない、と主張するのである。
 葦津は、靖国神社に軍国主義・侵略主義が残存するような誤解があるとすれば、それは神社人の努力が足りず、神社側の不用意な言動があるために生じたものかもしれず、必要ならば思い切った組織や人事の改廃を行い、誤解の原因を排除すべきといっている。葦津にとってA級戦犯の合祀は、そのような「誤解」を生むものであり、慎重であるべきという考えであったといえるだろう。
 東京都慰霊堂での法要に皇族や政治家が参列しているように、葦津が目指した靖国神社国家護持は、いわば天皇と靖国神社の乖離をつなぎとめる手続きであったともいうことができるかもしれない。その意味において、A級戦犯合祀により政治的にも宗教的にも靖国神社の性格が変更し、国家護持が不可能となったことは、天皇と靖国神社の乖離を決定的にしたといえる。
 靖国神社国家護持は、つい10年ほど前にも「国立追悼施設」の構想として議論が盛り上がったこともあり、けして過去の話ではない。分祀というものは教学上できないのだという神社界の意見もあるが、一方で過去には分祀が行われた例もあるという宗教学からの指摘もある。葦津は靖国神社においても「必要ならば思い切った組織や人事の改廃」「誤解の原因の排除」も必要としている。
 九段一帯が喧騒に包まれる終戦記念日を迎える前に、葦津の靖国神社国家護持論とA級戦犯合祀慎重論を振り返り、戦没者慰霊のあり方について考えられればと思う。

参考文献

・田中伸尚『ドキュメント靖国訴訟』(岩波書店、平成19年)
・産経新聞「昭和天皇の護国神社ご参拝、『A級』合祀後途絶える」(平成18年8月7日)
・毎日新聞「靖国」取材班『靖国戦後秘史―A級戦犯を合祀した男』(毎日新聞社、平成19年)
・波田永実「『招魂祭祀』考Ⅱ~靖国信仰の基層」(『流経法学』第14巻第2号)
・葦津珍彦「靖国神社祭儀々礼考」(『新勢力』昭和51年3月号)
・葦津珍彦「信教自由と靖国神社 戦犯刑死者合祀の難問」(『小日本』第3号、昭和54年7月)
・葦津珍彦「靖国問題を考える 公式参拝の問題点」第4回(『中外日報』昭和55年5月13日)
・葦津珍彦「時の流れ 衆議院の靖国法案 三月十日前後の進行情況」(「神社新報」昭和46年3月22日)
・葦津珍彦「靖国神社と平和の理想」(「神社新報」昭和21年9月2日)


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